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野口英世の書類から始まった小さな探検

実家には野口英世の直筆書類がある。

こう書くと、なんだかすごい家に育った
みたいだけどそんなことはない。
我が家はごく普通の家である。

しかもその書類だって、厳重な金庫に
保管されていたわけでもないし、
立派な額に入れられていたわけでもない。

私の記憶では、実家の引き出しの
どこかにずっと入っていた。
そして私が子どもの頃、
母が時々それを見せてくれた。

「これ、野口英世の書類なんだよ」

そう言われても、当時の私はあまり興味がなかった。
野口英世といえば、お札の人。
学校で習う偉人のひとり。

その程度の認識だった。

だから私は、

「へえ」

と言っただけで、
すぐに外へ遊びに行ってしまった。

もし今の私なら、
なぜうちにそんなものがあるの?
どこで手に入れたの?
どういう関係なの?

と質問攻めにしただろう。

けれど子どもというのは、
自分に関係のないことには驚くほど無関心だ。
そして、その書類のことも、
長い間忘れていた。

それから何十年も経った。

最近になって、なぜかふと
そのことを思い出した。

「なぜ我が家に野口英世の書類があるのだろう。」

そんな小さな疑問から、私は少し調べ始めた。
すると、一人の人物にたどり着いた。

父方の祖父である。

正直に言うと、それまで私は祖父のことを
ほとんど知らなかった。
いや、「ほとんど」ではない。
何も知らなかった。

私は祖父母に会ったことがない。

私が生まれた時には、
二人ともすでに亡くなっていた。

だから、どんな顔だったのかも
お仏壇の写真でしか知らないし、
どんな声だったのか、
どんな性格だったのかなど、
何ひとつ知らない。
そして私は5歳の時に父と別れている。
だから父方の親族について知る機会も
ほとんどなかった。

祖父という存在は、
私の中では「いるから今の私がいる人」
という程度の認識だった。
家系図の中にはいるけれど、実感はない。
遠いご先祖様のような存在だった。

ところが調べてみると、
その名前だけの人が、
思いもよらない人生を歩んでいた。

【祖父の事が書いてあるアーカイブリンク】


荒木紀男は、1885 年(明治1 8 年) 5 月、長野県飯山で飯山藩士第一家老の家の長男として誕生。1 5 歳の時上京、東京銀座高山紀斎歯科診療所の書生となる。1903年東京歯科医学院に入学するが、1904 年(明治3 7 年)日露戦争勃発、歯学の道を志すため、米国留学を決意。1905 年ハワイ経由で米国サンフランシスコに到着。

Norio Araki - Digital Museum of the History of Japanese in NY

ニューヨーク日本人歴史デジタル博物館


なんと、祖父は若くして、
1905年にハワイ経由でアメリカへ渡っていた。
今なら飛行機で行けるけれど、
当時はそういう時代ではない。
海を越えて外国へ行くこと自体が
大冒険だったはずだ。
しかも時代はロシアと戦争が
始まっている最中。

「1885年、長野県飯山で生まれ、
十五歳で上京し、歯科診療所の書生となり、
歯学を学ぶため単身アメリカへ渡ったという。。。」

なんと十五歳。
今の中学三年生くらいだ。

私には9歳の娘がいる。
もし数年後に「アメリカで勉強してくる!」
と言い出したらどうだろう。
きっと心配で眠れなくなる。

祖父はずいぶん思い切りのいい人だったらしい。

おじいちゃんの写真。

荒木は、ニューヨークで最大規模の歯科技工所であったストウ&エディ社 へ入社。奥村の紹介で、野口英世のアパートの一室を借りる。野口と荒木は、レキシントンアヴェニューのアパートで、野口がメリー婦人と結婚し、マンハッタンへ引っ越すまでの三年間、共同生活を送る。この頃、奥村鶴吉、野口英世、岡田満、等に進路を相談したところ、歯科医への道は時間と金がかかると指摘され、歯科技工の道を目指す。

ニューヨーク日本人歴史デジタル博物館

しかも調べるうちに、
野口英世との交流があったことが分かった。
なんと同じアパートで3年間も
暮らしていた時期まであったという。

私の実家にある書類は、
その時のものなのかもしれない。

「えっ、本当に?」
私は、思わず声を出して驚いた。


ニューヨーク時代の野口英世と祖父


アーカイブ中の写真を見てみた。

驚くほど真面目そうな顔だった。
いや、真面目そうというより、近寄りがたい。

「おじいちゃん」

というより、「先生」

である。

私はこの人の孫なのだそうだ。。。



写真の祖父は、私が知っている
誰にも似ていなかった。
けれど、不思議なことにどこか親しみも感じた。

人生って面白い。
私は、あのご先祖様くらいにしか
印象に残っていない自分の祖父のことを
初めて今、知った。

昔の人くらいにしか思っていなかった
祖父が、実際は若くして海を渡り、
異国で学び、人種差別の空気がある中、
負けじと新しい技術を身につけ、
そして日本へ持ち帰った人だった。

その後10年間、ストウ&エディ社のポーセレン部門で働き、副所長まで勤めた後、退職し、1915 年(大正4 年)ARAKI DENTAL LABORATORY 開設。研究所は順調に功績をあげ、荒木は、ニューヨークで、渡米してくる日本人との交流を深めていった。そして、ニューヨーク国際労働会議に参加するため、渡米しきた松風嘉定に出会い、荒木は、松風工業株式会社の社長、嘉定から日本での最初の人工陶歯製造の為の研究を委嘱される。松風工業株式会社は、京都で輸出用陶磁器、窯業メーカーで、碍子や化学磁器を製造している老舗であった。

ニューヨーク日本人歴史デジタル博物館


私は歯科の専門家ではないし、
専門的なことはわからないけれど、
これだけはわかる。

「祖父はきっと好奇心の強い人だったのだろう。」
「知らない世界を見たいと思った人だったのだろう。」

だから海を渡ったんだって。
そう考えると、不思議な気持ちになった。

なぜなら、
ほんの少しだけ自分と重なる気がしたから。

もちろん私は研究者でも
歯医者でもない。

かばん屋である。

布を切り、ミシンを踏み、
毎日コツコツかばんを作っている。

若い頃には、自転車にかばんを積んで
谷中や根津を行商していた。

知らない人に声をかけるのは苦手だった。
売れない日もたくさんあった。
それでも外へ出た。
知らない場所へ行った。
知らない人と出会った。
海外に生地を買いに行くこともある。
旅先の市場を歩くのが好きで、
現地の人の話を聞くのも好き。
面白いものを見つけると、
つい持ち帰りたくなる。

私はずっと、それは自分の性格だと
思っていた。
私の家族にこんな行動的なのは
私くらいしかいなくて
不思議に思っていたけど、
誰に似たわけでもないと思っていた。

けれど今、祖父のことを知ってから、
もしかすると気質は似ているのかもしれない、
隔世遺伝かな?と思うようになった。

もちろん本当のところは分からない。
会ったこともないのだから。

資料に残るのは立派な功績ばかりで、
失敗した話は載っていない。
笑い方も分からない。
怒り方も分からない。
冗談を言う人だったのかも分からない。
だから私は想像するしかない。

それでも、こんな想像が膨らむ。

「アメリカへ向かう船の上で何を考えていたのだろう。」
「初めて異国の街を歩いた時、どんな気持ちだったのだろう。」
「故郷が恋しくなったことはなかったのだろうか。」

そんなことを想うと、
会ったこともない人なのに
少しだけ親近感が湧いてくる。



行商をしていた頃、お客様によく言われた。

「ものには物語がありますね」

本当にそうだと思う。
私のかばんにも物語がある。
お客様にも物語がある。
そして、一枚の古い紙にも物語がある。

今回のことがなかったら、
私は祖父について何も知らないまま
だったかもしれない。

子どもの頃には何の興味も
持たなかった一枚の書類。

その書類が、今になって
私を祖父のところへ連れて行ってくれた。

知りたいと思った時に、
本人はいない。ということは
よくあることかもしれない。

話を聞くこともできない。
答え合わせもできない。
それでも遅すぎることはないと思う。

少しずつ調べて。
少しずつ想像して。
少しずつその人の輪郭を知っていく。

そんな出会い方もあるのだと思う。



そして今回調べているうちに、
もう一人、気になる人が現れた。

祖母である。

1918 年(大正7 年12 月)妻キャサリンを連れて帰国。京都の松風工業株式会社敷地内にある、松風陶歯研究所の技術長として入社し、1922年、松風陶歯製造株式会社設立に貢献。1924 年(大正1 3 年)ニッケルピン付き陶歯発表し、1937 年(昭和1 2 年)松風バイオ陶歯発売、翌年には、東京銀座に松風サロン開設、1945 年(昭和20年)松風日本初のレジン歯の製造に成功に関与する。また、慶応義塾大学病院眼科の桑原安治助教授の依頼を受け、朝鮮戦争で負傷した米兵のために、アクリリックレジン製の義眼の作製にもあたる。

ニューヨーク日本人歴史デジタル博物館


WEB上にある祖父の長い経歴の中で、
私の目が止まったのは功績の部分ではなかった。

「妻キャサリンを連れて帰国」

という一文だった。

祖父はアメリカでキャサリンという女性
と出会い、恋をして、
そして一緒に日本へ帰国したという。

その人が私の祖母になった。

私は祖母にも会ったことがない。

どんな顔で笑う人だったのか。
どんな日本語を話したのか。
何が好きだったのか。
何ひとつ知らない。

太平洋戦争よりも前に、
全く知らないアジアの国にきた女性。
どんな想いで海を渡って日本に来たんだろう。

私はずいぶん昔に洗礼を受けている。
そして、その時につけてもらった
ミドルネームは祖母から受け継いだ名前だった。
最近まで、そのことを深く考えたことはない。

けれど今は違う。

会ったこともない祖母なのに、
名前だけはずっと私の中にあったのだ。

実家の引き出しにあった野口英世の書類。

それは野口英世とのつながりを
教えてくれただけではなかった。

会ったことのない祖父を私に紹介してくれた。

そして今度は、キャサリンという名前の
祖母のところへ私を連れて行こうとしている。

日本京都在住のころの祖父母


写真の中の二人は穏やかに並んでいる。

けれど、その笑顔の裏には、
海を渡った若い日の冒険や苦労が
たくさん隠れているのだろう。

その続きを、かばん作りや子育ての合間に、
少しずつ探してみようと思う。

実家の引き出しから始まった小さな探検は、
まだ終わりそうにない。


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