連載小説『PIERROTのうた』(5)やさしいジイジができた釣りの日
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その日はちょうど、中秋名月にあたった。私は買ってきたお月見団子とお茶をお盆に乗せて、息子たちと庭でささやかにその晩の月を愛でた。息子たちは夜に外で団子を食べるという非日常にちょっと浮かれて、肩車をしたり、隣家の駐車場とを隔てるフェンスによじ登ったりして一通りはしゃいでいたが、蚊の襲撃を嫌ってわりと早々に家の中へと引き上げた。
私はさっき大西さんに手渡されて大切に持ち帰った秋野さんの電話番号のメモを取り出し、息子たちが去ったフェンスにもたれて秋野さんに電話をかけた。ためらわずに番号を押したものの、呼び出し音の重なりにつれて鼓動が速まった。ほんの2か月前までは毎日のように顔を合わせていた人に、2か月ぶりに、初めて電話越しに話すことは、私に変な緊張を与えるのに十分だった。それに加え、どうにか彼に再会しようと奔走した二週間のうちに、気がつくとずいぶんそのことに心を燃やしてしまっていたことも、私の緊張の増幅に加担しているようだった。よく気の利く長男が、私を探しに来た当時3歳の三男を何かの遊びに誘って家の中へと引っ張り戻したのがわかった。
「もしもし、久しぶりです。いや、ほんとに悔しい思いをしました。」
電話がつながるや否や、挨拶もそこそこにすぐにその件について話し始める秋野さんの声は、まだちっとも割り切れていない気持ちから震えるように発せられて私の耳に届いた。私の記憶の中の秋野さんとは別人に感じられるほどに、その声は肩を落としていた。遠くの学校に異動させられ、とっても通いきれないから一週間で辞めたこと、かーちゃんと二人で「悔しいね」と話したこと、今でも毎晩子どもたちの夢を見ることなどを、やりきれなそうに語った。私もこの二週間の出来事を話し、
「でもたくさんの保護者が秋野さんに感謝しているし、今回の件に関しても秋野さんの味方ですよ。私はほんとうに学校のことが許せないし、失望しました。秋野さんがスクールバスの添乗員じゃなくなってしまうのは、大損失ですよ。」
と、保護者の代表のつもりで秋野さんを元気づけた。そして、秋野さんからこぼれてくる言葉を一つ一つ掬った。
何人かの保護者とはLINE仲間だと言うので、私もさっそくその末尾に加えてもらった。
「ヒカルくんからの手紙は、大西さんに渡しておいてください。」
「大西さんとは会うこともあるんですね。わかりました、そうします。」
「あ、明後日なら時間があるから、お家の近くまで取りに行ってもいいですよ。ヒカルくんにも会いたいし。」
「明後日は、釣り堀に行く予定なんですよ。その前に、どこかでお会いできるといいですけど。」
「どこですか、釣り堀は。」
「ますの園、というところですけど、ご存じですか。」
「えっ、ますの園?それなら私が週一回、夜勤の宿直をしている老人ホームの真ん前ですよ。しかもその日はちょうど夜勤明け。」
こんな偶然もあるものだ。次男には秘密のサプライズで、夜勤明けの秋野さんが釣り堀に現れるという、秋野さんらしい悪戯っぽいシナリオが決まった。名月が柔らかい明るさを降り注いでいた。
釣り堀に現れた秋野さんは、満面の笑みでちぎれんばかりに手を振って、ダークグレーの軽自動車を自分の体の一部のように自在に操りながら駐車場へ滑り込んできた。車を運転する姿を見るのは初めてで、変な感じがした。釣り客専用の駐車場が満車で停められないと、
「そこの老人ホームの職員なんだけど、いっぱいで停められないから、どっか停めさせて。」
と、さらりと懐っこくスタッフに言って、職員用のスペースに車を停めた。
釣りに熱中して全く気がついていない次男の背後に回り、様々な声色で声をかけ、それでも気がつかない次男を最後は膝カックンで仕留めて大喜びの秋野さんは、いつものスクールバスの秋野さんと何も変わらないその人で、安心した。むしろその、あまりの変わらなさゆえに、その人と一緒に釣りをして一緒に釣り堀の定食屋でお昼ご飯を食べるという行為が自然に流れていくことに、不思議さと嬉しさと戸惑いがないまぜになったような気分に陥った。もちろん、念願の再会に酔いしれる気持ちが前面に流れていたが、その背後には、急に近くなった距離への戸惑いもうっすらと存在していた。それまでの、笑顔の仮面を被って手を振っていた、「添乗員と保護者」という立場を脱ぎ捨てて、この人と個人的に対峙することになったのだから。とにかく、その日は私たちにとって、新しいジイジが急にできたと言えばそのような、楽しいひとときを共に過ごした。少なくとも次男のヒカルと三男のハヤテは、ごく自然に無邪気に楽しんでいた。いつもと変わりなく映る秋野さんは、私にとって以前よりも特別な人になっていた。
この釣り堀では、自分の釣ったマスを食堂で捌いて炭火で焼いてくれる「焼きマス定食」が食べられることが売りで、次男もそれを一番楽しみにしていたので、ここでお昼ご飯を食べることは決まっていた。
「秋野さんは何にしますか。」
4人で向かい合ってテーブルにつき、まとめてオーダーをしようと私が聞くと、
「私はいいです。家に帰ってから食べるって、かーちゃんに言ってきちゃったから。」
と、興ざめなことを言った。あとから思えば、秋野さんは噓を言っていた。よほど仲良くならなければ、女なら自分のものにならなければ、誰かと一緒に食事をすることができないのだ、と後で打ち明けてきた。そして、一人きりで店に入って食事をすることも基本的にはできない。それほど繊細な人だとは全く想像していなかった。
「どう?ヒカルくん、おいしい?」
「うん、めっちゃうまい。」
「ちゃんと綺麗に骨をとって食べられるなんて偉いね。秋野さんは魚、食べられないよ。骨があるから。」
「えー、秋野さん、食べられないの?こんなにおいしいのに。」
「うわっ、目まで食べちゃった!うわー、めちゃめちゃうまそっ!」
秋野さんはそう言いながら私たちがマスにかぶりつく様子をニコニコして眺めたり、途中でタバコを吸いに外に出たりしていた。戻ってくると、食後のコーヒーだけ一緒に飲みながら、何度話しても悔しそうにスクールバスの話をしたあと、自分の家族のことを話した。そういえば秋野さんのプライベートがどんなであるか、考えてみたこともなかった。
秋野さんは2年前にかーちゃんと離婚をし、そのまま家族との同居を続けていたが、つい2か月とちょっと前から安アパートを借りて一人暮らしを始めたところだった。離婚の原因は、娘との不仲だった。秋野さんはかーちゃんとの間に、高2と中3の娘がいた。器量よしで偏愛していた長女があるときから急に父親である秋野さんを毛嫌いし、あまりにも冷たく接するようになった。そのことに秋野さん自身が耐えられなかったことと、間に挟まれたかーちゃんを気の毒に感じ、かーちゃんを楽にさせるために別れたのだという。かーちゃんとは今も繋がっていて、長女の不在時には家に行ってご飯を食べさせてもらったりしている。
思春期の娘が父親を嫌って遠ざけるなんて、あまりにもありふれた話であるが、それが離婚の原因になってしまうこともあるのか、と少し驚く。そしてそれが、「あの」秋野さんに起こったことであるというから余計に信じがたく感じた。明るくて、いつも輪の中心でみんなを笑わせていた秋野さんが、私生活では最愛の娘にこっぴどく嫌われて、辛抱も解決もできずに離婚までしてしまったとは、なんともちぐはぐではないか。
次男からの感謝の手紙を渡し、再会の記念に4人の集合写真を撮り、明日の秋野さんの初仕事にエールを送って別々に帰途についた。
ところが、コンビニに寄っていると、
≪私の部屋は、ちょうどあなたたちが帰る道上にありますから、寄って行きますか?表へ出て立ってますよ。≫
というLINEが届いた。せっかくなので向かおうとしたが、夜から始まる秋祭りに向けての交通規制が目の前で始まってしまい、秋野さんの部屋の前の道が通行止になった。迂回した道路で道に迷った。また今度にする、という選択肢も十分あり得たのに、
≪この道の先に自宅がある、と言わなきゃ通してもらえませんよ。≫
という秋野さんのアドバイスに従っていたら、どうにか秋野さんの部屋に到着していた。
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