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私はニートを殴りたい



1.はじめに

どうやら一つの宣言を行わねばならないらしい。それは、労働を打倒し、労働なき世界を実現するために必要な宣言である。

そのことに気づかされたのは、ニート研究者であり、ニートマガジン主催者でもある「ゆるふわ無職」の論文『アンチワーク哲学はポスト・ニーティズムに成り得るか?』がきっかけである。アンチワーク哲学を抱いて深淵にまで潜った男の言葉は、ゆきずりの哲学オタクから寄せられる表層的な批判とは比べ物にならない攻撃力があった。

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私は他のタスクをほっぽり出してでも、彼の呼びかけに応答しなければならないという衝動に駆られてしまった。これは私という人間が、アンチワーク哲学を提唱し、推進するにあたって、避けては通れない疑念である。同時に、その疑念への回答は、私への応援を人々に呼びかけるのであれば、予め表明しておかなければならない宣言でもあった。だから、私は彼が鋭利なナイフのようなテキストを送り付けてきた翌日に、この文章をしたためている。

どうやら、今回ばかりは捻りを効かせたレトリックで、難解な哲学的ロジックで、煙に巻くことはできない。腹を切って、私の五臓六腑にまで染み渡る「本音」を突きつけることでしか、彼へ応答することはできないだろう。

とは言っても、彼の指摘を読者に理解していただくためには、難解な哲学的ロジックを紐解くところからはじめなければならない。詳しくは後述するが、彼が問題視する「労働を攻撃しているアンチワーク哲学が、同時にニートを攻撃している」という構造は、一見すると不可解である。ゆえに、まずはその難解さを紐解き、その後に私のスタンスを明確にし、一つの宣言を行いたい。タイトルの時点で明らかになっているためもったいぶって隠す必要もないだろう。それ「私はニートを殴りたい」という宣言である。なぜそう宣言するのか? それは本稿を読み進めていくうちに自ずと明らかになるだろう。


2.アンチワーク哲学の攻撃性について


彼の指摘は大きく分けて二つあるが、まずは一つ目からはじめよう。それは、私の提唱するアンチワーク哲学が、現代の聖職者たるニートへの攻撃になり得るという指摘である。このことを真に理解していただくためには、彼の分析とは別の角度からアンチワーク哲学における「欲望ドリブン理論」を分析しなければならない。

アンチワーク哲学は人間のあらゆる行為のもととなるエネルギーを「欲望」として解釈し、食欲、性欲、睡眠欲、金銭欲、権力欲、承認欲といった誰もが「欲望」と認めるものだけではなく、貢献欲、達成欲、成長欲、使命欲、解決欲といった多種多様な(一般的に望ましいとされる)衝動もすべてひっくるめて「欲望」として解釈する。そして、人間の欲望が抑圧された結果が労働であり、80億人の欲望を解放することによって労働の廃絶が可能であると主張する。

この主張は明らかに常識に反している。常識の告げるところによれば、これらは人間に本来備わった欲望ではなく、特別な訓練や、天賦の才によって獲得された卓越性のある行動規範である。しかし、この「欲望」と「善良な行動規範」との区別は、社会的に構築されたフィクションと考えるの妥当である。例えば他者へ貢献した際には脳内に快楽物質が分泌されるが、それは食欲が満たされたときの反応と区別することができない(利他的脳理論、あるいはホワイトナイト症候群)。「欲望とは自分の生存にかかわる衝動であり、それ以外とは区別される」といった安易な反論もあり得るが、使命感を持って他者へ貢献し、自身や共同体を守ることは、権力や金銭を手にすることと同程度かそれ以上に直接的に自らの生存にも影響を与えることは、ゲーム理論や進化論を参照するまでもなく明らかである。逆に、食欲や性欲も状況によっては自己を破壊する衝動になり得る。ゆえに、この反論は容易に退けられる。

とはいえ、退けたところで簡単には納得されないだろう。スラム街に住まうべきボロを着た「欲望」と、高級住宅街に暮らす優雅な「善良な行動規範」を同居させようとする私の言説が生理的嫌悪感を引き起こすことは避けられない。使命感を持って他者に貢献する行為は、もっと崇高なエネルギーに引き起こされているべきだと、人々は考えるからだ。

しかしここで注目すべき事態は、嫌悪感を強烈に感じるのが善良な行動規範に従う者ではない・・という点だ。高級住宅街の住人たちは、進んでアンチワーク哲学を認める。「ええ、私がやりたいから貢献しているだけですよ」といった具合だ(むろん、「みんながみんな私みたいに貢献するとは限りませんけどね」といった最低限の自己卓越化を行うケースもあるが、最低限に留まることの方が多く、感情的な反発は稀である)。むしろ、自らが高級住宅街の住人であると自認しておらず、スラムの住人を自認している者の方が、より強烈な嫌悪感を抱くこととなる

なぜか? スラムの住人は、自らが善良な行動規範には見向きもせず、欲望のまま行為する様を印象付けることによって、逆説的に自らの卓越性を顕示する。ギャンブル狂や風俗狂いだけではなく、ふらふらになりながらも次々に立ち飲み屋の暖簾をくぐる飲んだくれ。観たアニメやクリアしたゲームの本数に加え「好きを言語化する技術」も併せ持つことを水面下でアピールする「オタク(っぽくないのにオタク)」。ディズニーランドや観光地を効率的に消費するタイパ主義者。嬉々として節税術を語る商売人や節約術を語るコスパ主義者など―――つまり労働者の大多数は、嘘っぱちの善良な行動規範によって取り繕うことなく人間本来の欲望に身を任せる「あっけらかんとした自己」を勤勉に演出する(もちろん「好き」という感情が先行する可能性があることは言うまでもないが、多くの場合、人を消費へ向かわすのは自己顕示欲とミックスされた衝動である)。そうすることによって、偽善的な高級住宅街の住人を皮肉交じりで下層に追いやり(「真面目な人はすごいですね~。自分にはとても真似できませんね~」)、自らを上層へと押し上げようとしているわけだ。ニーチェも言うように、自己を軽蔑する者は、軽蔑者としての自己を尊敬している

さて、これと同様の戦略によって自己の卓越性を顕示しようとする者たちがいる。言うまでもなくニートたちだ。労働者たちが下層に押しやろうとする「善良な行動規範に従う者たち」は、リベラルエリートやNPO職員、ボランティアスタッフ、マザーテレサ、大谷翔平などであるが、ニートたちにとっては彼らも一般の労働者もすべてひっくるめて「非ニート」として下層に追いやられる。

労働者は徹頭徹尾、自らの欲望に従っていることを自認している。つまり、消費という欲望を満たすために、あくまで戦略的に労働に身をやつしているのだと自らの行動を合理化する。しかし、ニートはそれを否定する。ニートにとっては労働者の欲望は資本による洗脳に植え付けられた偽物の欲望にすぎない。そんなちっぽけな欲望のために労働という究極の屈辱を差し出すことは常にアンフェアトレードであり、真の欲望の充足にはなり得ない。真の欲望の追求者は、自宅に引きこもってゲームをしたり、YouTubeを鑑賞したり、気まぐれに近所を散歩したりするニートに他ならないのだ。

つまり、真の欲望の対象とは、善良なる行動規範とやらに強制された他者貢献(それは常に強制されていなければならない)でもなく、資本主義に駆り立てられた仮初の消費活動(それは常に洗脳されていなければならない)でもなく、怠惰に暮らすことなのである。

ここで重要なのは、真の欲望の追求=怠惰な生活には、多大なる努力が必要だとニートが殊更に強調しようとする点である。これは、ゆるふわ無職が取り上げたニートの言説からも明白であろう。

「ニートをするには才能がいる」
「ほとんどの人は『無』に耐えられない」
「働けるなら普通に働いた方がいい」
先ほどのニート肯定論とは打って変わり、ニート生活の厳しさを喧伝するような発信である。

ゆるふわ無職『アンチワーク哲学はポスト・ニーティズムに成り得るか?』まともマガジンvol.1

※また、コチラの記事からも、その傾向は見て取ることができる。


つまり、ニートは怠惰な生活をありのままに欲望することができるが、労働者にはそれができない、というわけだ。なぜか? 怠惰な生活とは、他者からの洗脳や強制ではなく自由意志によって獲得されるべき真の欲望の対象であるが、意志の弱い労働者たちは自由意志そのものを欲望することができないからだ。自由意志を欲望できない以上、自由意志さえあれば不可避的に選び取られる怠惰な生活がもたらす極上の美味を味わうこともできない。せいぜい彼らに味わうことができるのは、洗脳され強制され心を殺して労働に取り組むことによってもたらされるささやかな心の平穏―――ジャンクフードのようなちっぽけな快楽である。

ニートにとって、労働=他者への貢献は、常に強制や洗脳によって生じる下賤な行為であり、非労働=怠惰な生活は自由意志によって選び取られる高貴な行為である。そして、ニートこそが、高貴な自由意志を持ち、高貴な生活を営む卓越した存在なのだ

怠惰を神棚に祀り上げるこうした言説は、非職業ニートには脳内世界の自己正当化に利用される程度に留まるが、職業ニートはそれを経済的恩恵の獲得に利用している。

さて、長い前置きだったが、ここまで説明すれば、アンチワーク哲学が、職業ニートの経済的恩恵を脅かす可能性があるだけではなく、非職業ニートの自己正当化に対する脅威でもあることが理解できるだろう。アンチワーク哲学の欲望ドリブン理論は、ニートたちが「怠惰な自己」を勤勉に演出し、その勤勉さを卓越性として誇示しようと必死に水面下で足をばたつかせている滑稽な姿を明らかにしてしまう。それは、自らの存在意義の否定であり、アイデンティティの喪失にも等しい事態である。「聖域を踏み荒らす」どころの騒ぎではない。アンチワーク哲学は理論上、彼らの足場を崩壊させ、彼らの世界を地獄へ続く大穴へと変えてしまうのだ。

さらにアンチワーク哲学は、労働者を含む全人類を労働から解放しようとすることによって、大穴のどん底に落ちたニートへと追い打ちをかける。ニートの見立て通り、強制された社畜生活を「クレバーな戦略」であるとして、自らの欲望と同期させることにより『地獄のミサワ』のように労働の中にささやかな幸福を見出してしまう労働者は珍しくない(社畜心理)。だが、アンチワーク哲学は労働者が渋々ながらの幸福ではなく、自由意志によってつかみ取る極上の幸福を手にすることが可能であると主張する。これがニートの逆鱗に触れてしまう。なぜなら、自由意志によって強制されない人生を満喫できる能力はニートの専売特許だからだ。労働者は自由な人生を満喫してはいけない。これ以上、幸福になってもらっては、ニートが困るのだ。

そして、アンチワーク哲学は同様に、クレバーな労働者のひろゆき的な世界観をも崩壊させてしまう。彼らは、自らは善良なる行動規範には見向きをせず、欲望のままに生きる存在として自らを卓越化させている。その卓越性を維持するためには、善良なる行動規範が常に偽善的である必要がある。しかし、アンチワーク哲学によって「他者へ貢献する偽善者」が「欲望のままに他者に貢献する者」へと解釈変更されてしまえば最後、「他者へ貢献する偽善者」と「正直に、欲望に邁進する自己」という対比によって発生させた卓越性が消滅してしまう。その卓越性は労働によってネガティブな形で選び取られたささやかな安住の地である。しかし、それでも安住の地であることに変わりはない。その世界を、アンチワーク哲学は根本から崩壊させるのだ。

労働者はこれまで、その卓越性を維持するために全身全霊でナラティブを生み出してきた。労働を通じて他者に貢献することはすべてクレバーな打算であり、かつ、労働ではない形で他者に貢献してしまうことすらも、すべてクレバーな打算へ回収して説明してきた(「俺のためにやっただけ。親切にしたら後で俺が得するでしょ?」)。特に労働者の中でも若年層は利己的で打算的で怠惰な自己を演出することに、粉骨砕身、誠心誠意、取り組む傾向がある。

もっとも年齢を重ねるにつれて、わざわざ偽悪的な態度をとることが煩わしくなっていき、欲望のままに他者に親切にしておきながら、そのことになんの言い訳もせず、開き直る場合が増えていく。おそらく多くの人は、利己的、打算的に振る舞うことによって卓越性を獲得するよりも、欲望のままに他者に親切にする方が(それに対する物質的な見返りが一切なくとも、むしろない方が)幸福になってしまうという不都合な真実に、人生のどこかの段階で気づいてしまう。そして、運よく労働の中で他者へと貢献する機会を与えられていた者は、かつては強制されていた他者への貢献を、自らの欲望と同期させることに成功する。そうして、労働が強制されたものではなくなり、自由で、自発的なものへと変わっていく。このとき、労働は脱労働化する(社畜心理の段階でも、労働は欲望と微弱ながらも同期されていた。しかし、あくまでも微弱な同期にすぎないがゆえに、労働は労働のまま留まる)。脱労働者(これは非労働者とは区別される)の世界観はアンチワーク哲学とは矛盾しない。ゆえに、彼らからの反発は少ないのだろう。


3.私はニートを殴る

さて、大きく脱線してしまったが、元に戻ろう。アンチワーク哲学は、そもそもニートやクレバーな労働者の世界観を崩壊させるものであったし、労働なき世界というビジョンを推進することは、彼らが纏う卓越性を剥ぎ取る行為である。これがアンチワーク哲学の攻撃性であり、ゆるふわ無職が私に対して覚悟を問いかける問題点の一つである。

現在の堕落したニート界隈といえ、その発信によって毎日の過酷な労働をギリギリ耐え抜いている者もいれば、ニート系インフルエンサーを自称することによってちっぽけな自尊心をギリギリ保っているニートもいるだろう。私は久保一真に尋ねてみたい。本当に彼らをグチャグチャに踏みつぶしてまで、アンチワーク哲学を普及する覚悟があるのか?

ゆるふわ無職『アンチワーク哲学はポスト・ニーティズムに成り得るか?』まともマガジンvol.1

覚悟はなかった」というのが正直な回答である。私は彼に問いかけられるまで、アンチワーク哲学の攻撃性については、ほとんど無自覚であった。だが、指摘されたからには自覚し、覚悟せずにはいられない

私は、アンチワーク哲学を普及させることを欲望し、行為している。この欲望は暴力以外の方法で誰にも止めることはできないだろう。そのため、ライオンがウサギを捕食するように(あるいは窮鼠が猫を噛むように)他者の卓越性を攻撃することになる。

私は攻撃する。他者に害を及ぼし、傷つけ、不快な思いをさせ、絶望のどん底に突き落とし、酷い場合には自殺させることだってあるかもしれない。もしニートたちに「あなたの本や記事が私を傷つけるからやめてくれ」と直接陳情されても、私は発信を辞めることなく、サイコキラーのように血みどろのニートを殴り続けるだろう。

しかし、そのように陳情が寄せられることは決してない。ニートが陳情するということは、アンチワーク哲学がニートの卓越性を傷つけていると認めることになり、その防衛的振る舞いによって逆説的にニートの卓越性の一切が消え去ってしまう。だからニートにはアンチワーク哲学をトンデモ理論として鼻で笑う以外に選択肢が残されていない。私は、陳情することすら許さない完全なデッドロックへと、ニートを追い込んでいる。その苦境から逃れるには、アンチワーク哲学の正しさを認める以外にない。おそらく、言論によってこれ以上の屈辱を与えることは不可能だろう。

性別破壊党の党首として活動する阿部智恵は、「あらゆる革命組織は悪の組織である」と語った。革命は、社会構造を変えるだけではなく、人々の想像上の世界を成り立たせる足場を破壊する暴力性を伴う。ゆえに悪である。アンチワーク哲学は明らかに革命的思想である。つまり、その提唱者たる私は悪である。このことには疑いの余地はないようだ。ならば私は悪になろう。時折、脳内をチラつく葛藤と付き合いながら、喜んで悪になろう。バイキンマンのように、欲望のままに突き進み、他者を攻撃しよう。

もちろん、「それが長い目で見ればニートたちの幸福になる」だとか「それが世界のためになる」といったパターナリズムを振りかざし、善人として自らを飾り立てることは可能だった。そして、未だに私自身はそのように感じている。労働を廃絶すれば、今は抵抗するニートたちも、労働者たちも、さらなる幸福を手にすることができるのだと私は確信している。だが、他者の幸福を定義することは、即ち支配することである。支配を否定する私が、他者の幸福を定義することはできない。ゆえに私は言論の鈍器によって、自覚的にも、無自覚的にもニートや労働者を殴り続ける。

では、なぜ私はそんなことをするのか? そんなことをしてもなんの得もないように思われるが、なぜバカみたいに文章を書き、バカみたいに出版するのか? 図らずもゆるふわ無職によって提示された第二の論点へと議論が接近してきた。それは私がアンチワーク哲学を普及せんとする動機についての問いかけだ。


4.私は暗黒卿予備軍である

 ゆるふわ無職は、私が、ニートねずみ講によって利潤を追求するニートインフルエンサーへと成りあがろうとしているのではないかという疑問を投げかけている。

正直に言おう。私は久保一真のことを信用しきれていない。本当にアンチワーク哲学の普及を、延いてはベーシック・インカムの実現をするつもりはあるのだろうか?
もちろん、久保が 私財を(いや人生を!)なげうってアンチワーク哲学の普及活動に取り組んでいることは知っている。本の出版活動が赤字であることも、イベントの開催が赤字であることも知っている。だが、それすらも本当は用意された「演出」なのではないか?
もしかすれば、身を挺して活動を 行う久保の姿に感銘を受けた人々を引き込み、貢献欲の名目で無償労働を行わせる新たな宗教ビジネスなのではないか?
まるで、神の国が訪れるその時が来ればあなたたちは救われると喧伝するように、貧困者たちにベーシック・インカムというかりそめの希望を与え、搾取を行おうとしているのではないか?
社会的弱者に革命を煽り、指導者が私腹を肥やすのは、これまでの歴史で何回も見てきたパターンである。

ゆるふわ無職『アンチワーク哲学はポスト・ニーティズムに成り得るか?』まともマガジンvol.1

正直、その願望が「全くない」と言えば嘘になる。私が意味ありげな人生哲学を呟けば、あっという間にいいねが集まり、アンチに粘着されたかと思えば即座に信者たちが袋叩きにしてくれて、返り討ちにしてくれる。一挙手一投足がメディアにも注目され、本は飛ぶように売れ、イベントを開催するたびに満員御礼。そうこうしている間に信者たちのお布施が集まり、増え続ける貯金残高を眺めてニンマリする。そのような状況をチラリとも思い浮かべたことがない――――そう言い切れる発信者などこの世界に一人もいないだろう。

むろん、未だそのような状況には至っていないが、それでも私が平均的な日本人よりは信者を抱えている人間であることは間違いないし、今後、信者を増やしていく可能性も平均的な日本人よりは高い(それは、ゆるふわ無職も同様だが)。そして私が、いつの日かそうした影響力を獲得したときダークサイドの魅力に取り憑かれてしまうことはあり得る。アンチワーク哲学の普及という理想を忘れ去りながら、その理想に向かっているふりをして、信者たちをだまし続け、ジム付きのタワーマンションにグラビアアイドルを連れ込んでいるかもしれない。もしその状況に陥ったとしても、私は清廉潔白なアンチワーク哲学者を装い続けるだろう。あるいは、自分では清廉潔白だと思い込んでいても、実体とかけ離れていることもあり得るだろう(その頃には「久保さんはビジネスじゃないですよ。初心を忘れずにやってますよ」と正当化してくれる取り巻きも、たんまりといることだろう)。

私がそうなるのか。そうならないのか。私にもわからない。ただ、「その目で判断してくれ」としか言いようがない。ダークサイドに落ちた私ダース・ネーモは、その目すらも欺き、洗脳しようとフォースの暗黒面を駆使するだろうが、それも含めて、すべてその目で判断して欲しい。

勘違いされることも多いのでここで改めて宣言しておこう。私は金が欲しい。金によって手に入れられる財物が欲しい。むろん、この世界に金がなくとも、労働がなくとも、財物を我慢する必要がなく、むしろ望む以上に手に入れられる世界が実現されるのだと確信しているわけだが、それでも現時点では金を通じて財物を手にしたいし、預金通帳を眺めながらニンマリしたいという願望もある。そして、アンチワーク哲学は金を求める心理も否定しない。あくまで金を求めるばかりに自分の欲望を抑圧しなければならないシステムを攻撃しているため、労働なき世界において、ランボルギーニをコレクションし、銀座でドンペリを次々に空けようとする下品な成金が存在するかどうかという問題は、アンチワーク哲学の射程からは外れる。より厳密な論理的整合性の観点からは、私がドンペリのために金儲けしようと企むことと、アンチワーク哲学の主張は矛盾しない(このことを説明するには紙幅が足りないので割愛する。詳しくはアンチワーク哲学の深淵に刻み込まれているので、ぜひダイブしてきて欲しい)。

とは言っても、なんとく言行不一致な感覚はあり、いささか居心地は悪い。今のところ、「僕が底抜けの物欲を抱いているわけではない」というクッションに腰を落ち着かせているものの、もう少し居心地のいいソファがありそうなものだという予感はある。だが、それを見い出せずにモゾモゾしている。

これが、現時点で私が本音として構築し、提示できる最大限である。本音とは、「本音として語る決意をした言説」に過ぎず、なんの作為もない純粋な本音なるものが幻想であることは説明するまでもないだろう。「自己」なるものも同様である。「自分とかない」ことは明らかだが、「これが自己である」と定義する決意だけが、常に自己を成り立たせる。

私は決意した。「誰も労働しない世界を見たい」「労働のない世界を生きたい」という欲望を抱く自己を決意したのである。


5.アンチワーク哲学を提唱する理由

次の疑問へと議論が移行したようだ。なぜ私は決意したのか? まだまだ分割して説明することは可能である。「非効率に対する怒り」という要因が、私の決意を後押ししたことは間違いない。

非効率な行動を見ればイライラする。たとえば、マクロを組めば一瞬で終わる作業をちんたらと手入力でやっている人を見てイライラしたことはないだろうか? あるいは、月に1ギガも使用しないくせにバカ高いキャリア代を支払う高齢者にイライラしたことはないだろうか? なんとかその行動を改善させようと説明するが、「いやぁでもさぁ・・・」と反論されることによって、ますますイライラが募ったことはないだろうか? 私が労働を廃絶しようとする理由は、まさしくそれである(とはいえ私はチンタラやる手入力やバカ高いキャリア代は、本人の欲望を満たしているという意味では効率的であると感じるためイライラしない。私はもっと大きな非効率に着目する)。

労働や市場経済のシステムが、人間の幸福(衣食住が保障されることのほか、エロ漫画を読むこと、被災した民家から泥を掻きだすこと、タピオカミルクティーを飲むこと、汗をかきながら有機野菜をつくること、パチンコを打つこと、読書すること、老人のお尻を拭くこと、ディズニーランドに行くこと、レスバトルで他者を攻撃すること、豊かな自然を満喫すること等によってもたらされる幸福)の最大化にとってあまりにも非効率だと私は考える。自分を含めて、万人が、もっと効率的な社会に生きられる方が望ましいと私は考える。ゆえに、労働を廃絶しなければならないと感じている。

また、羞恥心も私を駆り立てている。効率性の観点から、労働は遅かれ早かれ廃絶される運命にあると私は考えるが、労働廃絶後の世界を生きる人びとは、恐らく私たちをカルト宗教の信者のように扱うだろう。私はかつて中学や高校で世界史を習うとき、「三位一体説が正しいかどうか?」といった議論に明け暮れ、挙句の果てに血みどろの争いを繰り広げている人々に「どうしてこんなくだらないことをやっているのか?」と疑問を抱かずにはいられなかった。そして最終的に「昔の人はバカだった。自分は科学によって啓蒙されているから、このような非効率なことはやらない」と結論付けることになった。恐らく未来人も、現代人を同じようにバカにするだろう。

私はそのことに耐えられない。恥ずかしくて仕方がない。労働廃絶を訴えることによって、私はカルト宗教の信者ではなかったのだと、未来の人びとに弁明したい(とはいえ、それは現代人にカルト宗教の教祖だと揶揄されることと引き換えなのだけれども)。むろん、労働が完全に廃絶された頃にはおそらく私は死んでいるので、「今をもっと楽しめばいい」と開き直る方がいいかもしれない。だが、私はもう開き直って労働が存在する社会を楽しむことができない体になってしまった。もう私の欲望を真に満たすには、労働を破壊する行為に没頭する他あり得ない。


6.最後に

さて、ここまでの説明がゆるふわ無職に対する回答になったかどうか、自信はない。彼は別のところで99%私を信頼していると言ったが、残りの1%はきっと永遠に埋めることはできないだろう。それは私自身にとっても埋まらない未知の空間である。だが、私はゆるふわ無職の信頼を欲するし、彼による信頼を信頼している。私の活動はゆるふわ無職に支えられてきたし、これからも必要だろう。もちろん彼がそれをやりがい搾取だと感じたとき、それはやりがい搾取になり、彼を「搾取」し続けることは不可能になる。彼はいつでも私のもとを去ることができる。他者である以上(いや自己に対してすらも)、永遠に消え去ることのないその可能性をすべて包摂し、それでも受け入れることこそが信頼の意味である。私は信頼する。私はニートを殴り、すべてのニートを過去にしたい。ポスト・ニーティズムの世界を見たい。願わくば、ゆるふわ無職にも腕まくりをしながら、共にカチコミに参戦して欲しい。

そして、世のニートたちに対しても、私は同様の提案を投げかけてみたい。労働のない世界を共に目指さないか? 君がささやかな安住の地に暮らしていることは理解しているつもりだ。しかし、その地を捨て去って、新たな地平を切り開けば、さらなる幸福が君を待ち受けている。私はそう確信している。私は君の幸福を定義しないなどと言ったが、君自身の手で新たな幸福が選び取られたなら、それは私の手を離れ、紛れもなく君自身の財宝になる。私は君を殴った。だから殴り返してくれても構わない。殴り合いの果てでも、いや殴り合いの果てにこそ、手を取り合うことができるのだと、私は信頼している。

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