アンチ 無職の才能/ニートの才能 論
インターネット上における書き込み、もしくはニート系インフルエンサーやFIRE系インフルエンサーの投稿を眺めていると頻出するワードがある。
それは無職の才能(もしくはニートの才能)という概念である。
無職の才能/ニートの才能とは何か?
ここで概要を掴むため、実際にいくつかの記事や投稿をピックアップしてみよう。
無職には、「無職という才能」が必要
「毎日何もしない」という状態は、人によっては大きなストレスになる。無職を続けるには才能が必要です。ただし無職の才能があって得することはひとつもありません。
「みんなが働かないようになったらお前だって困るだろう」とはよく言われるが、私はそうはならないと考えている。世の人々は、当人たちが信じている以上に働きたがっているのだと思う。
なぜなら無職であり続けるためには才能が必要であるから。孤独に耐える才能、社会の無理解に耐える才能、他者の蔑視に耐える才能、そうしたものが必要とされるだろう。私は年に4回も友人とオフラインで会えばちょっと多くて疲れるくらいの出不精なのだが、すでにきちんと社会生活を送っている人はこの生活になかなか順応できないのではないかと思う。
「無職で居続ける才能」というものがある。たいていのひとは、これがない。だから働いている。ひとは働かないと死ぬから働くのではなく、無職で居続けると退屈だから働く。だって、働かなくても死なないし。固定ツイにも書いたけど、ひとは「何かに向き合わないために、お金を稼ごうとする」んだよ。無職で居続けるには、自分と向き合わなくてはならない。
最近はFIREに関する本とか読んでるんだけど
『実際、完全リタイアは普通の人にはキツイです。人は適度な労働と社会的なつながりのある方が幸福を感じられます』
って書いてあって、ずっと部屋で1人で過ごしても全然平気な自分は“普通の人”の感覚からは乖離しているという事実を再確認することになった
最近知ったのだが、世の中の大半の人はニート生活に耐えられないらしい。すべての人は本当はニートになりたいけどお金がないから渋々仕事してるのだと思ってたけど、仕事してないと鬱になるから仕事してるらしいのだ。私は一年以上ニートしてても全く苦にならなかったので、ニートの才能があるようだ。
なるほど。上記の書き込みから「無職の才能」や「ニートの才能」について要約してみると、以下のようになるだろう。
無職やニートという生き方は一見楽そうであるが、ほとんどの人々は長期間「何もしない」ということに耐えられない。人間は適度に社会との繋がりが必要である。無職やニートを続けるには才能が必要だ。
そして、それを踏まえたうえで、無職/ニート系インフルエンサーやFIRE/リタイア系インフルエンサーは「まあ自分は特別に無職の才能があるんでやっていけるんですけどね笑」とアピールを行うのである。
実際、無職系・FIRE系の情報発信者たちのツイートや投稿記事を読んでみれば、無職の才能アピールについて枚挙にいとまがないことが確認できるはずだ。
(そこまで細かく言及すると個人攻撃になってしまうので、具体的に晒し上げることはしないが。先ほど引用させてもらったのは、ある程度有名なインフルエンサーの投稿やバズったツイートである)
今回の記事では、このような無職の才能という概念、もしくは自称・無職の才能持ちに対して、批判を行ってみたい。
■ 批判1:無職キッズ/ニートキッズについて
まず、私がツイッターを眺めているとよく流れてくるのは、以下のようなツイートである。
自分、無職の才能あります。無職できます。やらせてください。
引用元ツイート
[FIREしても殆どの人は無職生活に耐えられなくて働き出すらしい]
最初に言及してみたいのは、こうした無職やニートに憧れている、無職キッズやニートキッズである。
このようなキッズたちは多くの場合、実際に無職やニートになったことはなく、ただの休日休みや長期休暇をイメージして「私には無職の才能がある」と言っている。
私に言わせてもらえば、そんなものはお父さんとキャッチボールをして「ぼく野球の才能がある!大谷翔平みたいな野球選手になれる!」と言っているのと同じだ。
もはや批判するのも大人げない、よくあるインターネットの微笑ましい風景だと言えるだろう。
そして、次に現れるのは、これよりもうワンランク上の自称無職の才能持ちだ。
今はもう働いてるけど、3か月間のニート生活めちゃくちゃ楽しかったわ。無職の才能ありすぎたw
引用元ツイート
[FIREしても殆どの人は無職生活に耐えられなくて働き出すらしい]
なるほど、こちらは先ほどの無職キッズとは違い、実際に無職生活を送ったことがある人物であるようだ。
それを根拠に「私には無職の才能がある」と自負しているのだろう。
だが、それも私に言わせてもらえば、今度は中学のゆるい部活で野球をやっただけなのに「本気出せばプロ行けたわw」とイキっている痛いヤツのようなものである。それも保護者に部費や道具代を払ってもらっている状態で。
そりゃ、期間限定で充分に貯金もある状態ならそれなりに楽しめる。大学の夏休みのようなものだ。
お前はまだ本当の「無」の真髄には触れていない、と私は言いたい。
このように、無職やニートに憧れるキッズが多くいる中で、実際に長期ニート――具体的には半年~数年単位でニートをしたものは、以下のような反応を見せることが多い。
長期無職、本当に孤独感と虚無感がつらいんだよな……
引用元ツイート
[FIREしても殆どの人は無職生活に耐えられなくて働き出すらしい]
逆に、私はこうしたツイートに「本当に無職に向き合ってきたリアルさ」を感じてしまうものだ。さながら、本気で甲子園を目指して燃え尽きた高校球児のようである。
彼らとは、本当に無職について語り合うことができるだろう。
■ 批判2:無職の才能をアピールするインフルエンサーたち
とはいえ、上記の無職キッズたちに対する批判はおまけのようなものにすぎない。
この記事で本腰を入れて批判を行いたいのは、無職の才能があることをアピールする無職/ニート系インフルエンサーやFIRE/リタイア系インフルエンサーについてである。
彼らのアピールとしては、以下のようなツイートがありがちで典型的であるだろう。
ほとんどの人は無職になったり、リタイアしたりすると「何もしない」ことに耐えられないらしい。労働で社会的な繋がりを維持しないとメンタルが壊れてしまうそうだ。ちなみに私は無職の才能があるのでそんなこと全然なく無職3年目です😌
なるほど、確かにこうした発信を行う人物は、無職・ニート生活やFIRE・リタイア生活を始めてから数年経っていることが多い。
彼らには「数年無職生活を継続している」という実績がある。
これならば、本当に「無職の才能」がある「プロ無職」だと認定してよいのではないか?
――と一般的には思われがちだろう。
だが、私に言わせてもらえば、彼らは本当に無職をしているわけではない。
彼らは無職という肩書き、もしくは無職系インフルエンサーとして、社会に参加して、社会的な繋がりを得ようとしているのである。
むしろ、私には無職の才能アピールはこのようにしか聞こえない。
「無職生活つらすぎる! 誰かオレを認めてくれ! 現代で働かない生活を実践するユニークな存在として社会的に認めてくれえええ!」
という悲痛な魂の叫びである。
なんだか非常に性格の悪い指摘になってしまったが、過去に私も「無職の才能」を自負していたことがあった。これはつまり、当時の私の心境でもあるのだ。
――「無職系インフルエンサー」という肩書きや役割を得ないと、自分が無意味にこの世界に存在していることに耐えられなくなり、発狂しそうになる――
そうした精神状態が、多くのニートやリタイアラーをインフルエンサー的な立ち振る舞いに向かわせるのだろう。
■ 聖職者階級と化すニートたち
前項で、私は「無職系インフルエンサーは無職という社会的役割を行っている」と述べた。
ここで私が続けて指摘を行いたいのは「現代のニートたちは聖職者階級と化している」ということだ。
いったいニートが聖職者階級と化しているとはどういうことか?
順番に説明していこう。
まず、多くのニート系インフルエンサーは以下のような内容の発信を行っている。
「ニートや無職でもいいじゃないか」
「ゆるく生きていこう」
「メンタルを壊すまで働く必要なんてない」
なるほど、一見すばらしいことを言っているように思えるが、対照的にこんなことを言っているのを目にしたことはないだろうか?
「無職をするには才能がいる」
「ほとんどの人は『何もしない』ことに耐えられない」
「普通に働けるなら働いた方がいい」
まさに今回のテーマである「無職の才能論」であるが、先ほどのニート肯定論とは打って変わり、ニート生活の厳しさを喧伝するような発信である。
こうした矛盾した言動は一体どういうことなのだろうか?
つまり、これはこういうことである。
ニート系インフルエンサーたちは、「ニートと労働」を「聖と俗」に置き換え、労働を人生の本質ではない「俗」の営みと位置づける。
そして、自身を「聖」の修行に励む聖職者だと位置づけ、その尊さと厳しさをインターネット説法するというわけだ。
こうして、ニート僧に憧れた在家の信者たちは「普通に働いている自分には真似できないけど、そういう働かない生き方を実践している人がいるだけで励まされるなあ」とお布施を行うのである。
光が際立つほど、闇は濃くなる――皮肉にも、ニートという存在が「労働」の存在を強固にしていることは、アンチワーク哲学者の久保一真も指摘している通りだ。
ニートたちもまた、労働を守る取り巻きと化している。私が労働を攻撃したとき、真っ先に迎え撃ってくるのは決まってニートたちであった。むしろ彼らは労働者よりも労働の神話にからめとられている。労働者はときに労働なき新世界の扉を開く。向こう側に行くことは決してないが、それでも向こう側の景色を知っている。しかし、ニートは知らない。少なくとも旧世代のニートは知らない。
アンチワーク哲学は、労働を「他者より強制される不愉快な営み」と定義し、万人が欲望する自発的な貢献(≒遊び)で社会が成立すること――すなわち、労働が撲滅できることを主張して、これまでの労働観の転換を図ろうとしている。
だが、この行為はエセ聖職者として既得権益を貪るニート系インフルエンサーや、労働に怠惰で抵抗することを自己正当化の理由に用いている無職たちにとってはたまったものではない。
なぜなら、アンチワーク哲学によって、全ての営みが自発的な貢献になり、労働が撲滅されたとき、無職やニートが持つ一切の聖性は剥ぎ取られてしまうのだから。
――人間が科学技術で生老病死を克服したとき、あらゆる宗教のありがたみがなくなるように。
(上記の議論については、『まともマガジン vol.1』に寄稿させていただいた拙文で詳しく述べたので、興味がある方はぜひチェックしてみてほしい)
■ まとめ
少し脱線してしまったが、本題の「無職の才能」に戻りつつ内容をまとめていこう。
ここまでの議論をまとめると、私が主張する無職の才能の正体とは、社会的な繋がりを無くした無職やリタイアラーたちが、自身を特別に権威付けて社会的役割を得ようとするために作り出した根拠のない能力である。
それゆえに、必死に無職の才能をアピールするほど、「自分を社会的に承認してほしい」という想いが透けて見えてくる物悲しい概念だ。
そんなもので自縄自縛を行ってどうしたいのか?
私に言わせれば、無職の才能という概念はもう古い。
社会的な繋がりを得たいならば、素直にネットで友達を作ったりコミュニティに参加したりすればいいし、なんなら暇つぶしに近所でアルバイトでもすればいい。
もちろん、このような私の意見には「いやいやw それはあなたに無職の才能がなかっただけですよねw」という批判が考えられるだろう。
だが、そうした「無職の才能」で己の優越性をアピールする深層心理については既に置き論破済みである。
そもそも、資本主義から脱出して生きることにさえ、才能がいると考えるのは能力至上主義に侵されすぎではないだろうか?
この世界で自由に生きることに無職の才能なんかいらない。
外を歩きたいなら散歩して、本を読みたいなら読書して、部屋で遊びたいならゲームして、美味しいものを食べたいなら料理をして、人と関わりたいならコミュニティに参加して、働きたくなったらバイトでもして、ただやりたいことをやればいい。
「無職↔労働者」という二項対立こそが、私たちの人生を雁字搦めにして、よりつまらないものにしているのだ。
才能なんかなくても、誰だって無職やニート――ただこの世界を遊ぶ人――になることはできる。
