お寺は“癒しスポット”なの? 「仏教風エンタメ」 本当の仏教を一つでも持ち帰るために
「お寺でヨガ」に人は来る でも、仏教を持っては家に“帰らない”

最近、多くのお寺が、ユニークなイベントを開催しているのを目にします。
「お寺でジャズコンサート」
「本堂でヨガ体験」
「マインドフルネス瞑想会」
「お寺離れ」、「仏教離れ」が叫ばれて久しい中、なんとか人々に足を運んでもらおうという、切実な努力の表れでしょう。
たしかに、お香の漂う厳かな空間で音楽を聴いたり、瞑想でリフレッシュしたりするのは、素晴らしい体験です。イベントは盛況で、多くの人が「楽しかった」、「癒された」と満足して帰っていきます。
しかし、私たちは、ふと立ち止まって考えるべきなのかもしれません。
そのイベントに参加した人々は、本当に「仏教」に触れたのでしょうか。
「癒し」や「リフレッシュ」という体験の先に、仏教の「教え」そのものへの関心は生まれたのでしょうか。
それとも、ただ「お寺という非日常的な空間」を消費しただけで、翌日からはまた、仏教とは無関係の日常に戻っていくのでしょうか。

これは、単なるお寺側の問題ではありません。本当の心の拠り所を求めているはずの私たち自身が、「仏教」と「仏教風のエンターテイメント」を取り違えてはいないか、という大切な問いなのです。
「演奏会に来る人は、仏教を求めてはおらんのじゃ」

「和尚さん、最近知ったんだけどさ」
ある日の午後遅く、さとるくんがスマートフォンの画面を和尚さんに見せながら言いました。
「よそのお寺で、ジャズの演奏会とか、いろんなイベントをやってるみたいだよ。和尚さんのところでは、そういうのやらないの?」
和尚さんは、さとるくんの淹れてくれたお茶を一口すすると、穏やかに答えました。
「ああ、よそのお寺では、仏教離れを防ごうということで、いろいろ工夫をして、一人でも多くの人に来てもらおうと努力しておるようじゃのう」
「うん! 楽しそうだよ」
「そうじゃな。しかし、実際のところはな、さとるくん。それは『演奏会』に興味がある人が、たまたま『お寺』という場所に来るだけなんじゃ」

和尚さんは、静かに続けます。
「演奏会に来た人たちが、その帰りに『ああ、仏教とはなんて素晴らしい教えなんだ。もっと学んでみたい』と心から思うかというと、なかなかそうはならんと聞く」
「そうなんだ…」
「それはのう、わしら僧侶側の努力が足りんところも、大いにあるからなんじゃ」
和尚さんは、少し反省するような口調になりました。
「例えば、よそのお寺で『マインドフルネス』とうたって、瞑想体験会を開いたとしよう。参加した人は、座禅を組んでスッキリとリフレッシュはできるかもしれん。じゃが、そこで仏様の教えを一つでも心に持ち帰っておるかというと、必ずしもそうではないのじゃ」

和尚さんは、さとるくんの目をじっと見つめました。
「一つ聞くが、さとるくんが、ここ以外のどこかのお寺にふらっと遊びに行って、そこの住職さんやお坊さんに会って、話をしたことはあるか?」
「ううん、一度もないよ。だいたい、誰もいないもん」

「たいていはそんな感じじゃろう。ましてや、お坊さんの姿すら見かけないお寺で、仏教の話など聞けるはずもないわな。皆、法事やなにやらで、忙しいんじゃよ…」
和尚さんは、ため息を一つついて言いました。
「ふらっとお寺に来ていただいて、そこでお坊さんと世間話ができたり、仏教の言葉を一つでも聞けたり、本堂からお経をあげる声が聞こえてきたり…」
「そんな経験ができないのに、わざわざお寺に行って何をするというのじゃろ。お賽銭を箱に入れる代わりに、叶うか叶わぬかわからん願い事を呟いて、それで終わり。これでは、お寺に何かを期待する人が減っていくのも当然じゃ」
「じゃあ、お寺って何のために行くの?」

「古い建物が好きな人や、仏像、掛け軸などの骨董に関心がある人にとっては、いにしえの時を経て残るものに、感慨を覚える場所なんじゃろう。見どころが多い立派なお寺なら、行く意味もある。じゃがな、さとるくん」
和尚さんの声に、すうっと力がこもりました。
「そこには何も無いとまでは言わん。しかし、仏教の神髄、仏教の“奇跡”とは、建物や仏像のことではない。それは『お経』なんじゃ」
「お経?」

「そうじゃ。お釈迦様が、悩み苦しむ人々を救うために説かれた『言葉』。それが弟子から弟子へと口伝えだけで受け継がれ、やがて文字に書き留められ、数々の戦火や迫害を乗り越えて、二千五百年後のこの日本で、今わしらが読むことができる。」
「これ以上の奇跡があると思うか? このお釈迦様の『教え』こそが、『仏教』そのものなのじゃよ」
さとるくんは、息をのんで聞いていました。
「そんなことを、きっとみんなは知らないよね…」
「そうなんじゃ」と和尚さんは、深く頷きました。

「お釈迦様の教えを一つも知らずして、ただ座禅を組んでも、写経をしても、滝に打たれても、それは“形”でしかない。まして、お寺で演奏会を開いても、仏教の本質には、一ミリも近づくことはできんのじゃよ」
「座る」より先に「聴く」こと 仏教の本当の入口「聞法(もんぽう)」

和尚さんが熱を込めて語った、「形」よりも「教え(お経)」が大切だという言葉。これは、仏教の根幹をなす、非常に重要な考え方です。
仏教には「聞・思・修(もん・し・しゅう)」という修行の段階を示す言葉があります。
これは、
聞(もん):まず、仏様の教えを「聞く」こと
思(し):次に、その聞いた教えを、自分自身の問題として深く「思惟(しい)する、考える」こと
修(しゅう):そして最後に、その理解に基づいて、座禅や念仏などの実践を「修める」こと
…という順序を示しています。
現代のお寺イベントの多くは、この「修」の部分、すなわち座禅(マインドフルネス)や写経といった「実践」をいきなり体験させようとしています。
しかし、和尚さんが指摘するように、その大前提である「聞」(教えを聞くこと)と「思」(それを考えること)が抜け落ちていては、その実践は単なるリフレッシュ法やカルチャー体験で終わってしまい、なぜそれを行うのかという「仏教の核心」には届かないのです。
特に、浄土真宗の開祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、この「聞」を何よりも大切にされました。
親鸞聖人は、自分の力で悟りを開こうとする「自力(じりき)」の修行(座禅や難解な学問など)の道を捨て、ただ阿弥陀仏という仏様の「他力(たりき)」の救いを信じる道を選ばれました。
その「他力」の道において、私たちにできる唯一にして絶対の行いこそが、「聞法(もんぽう)」、すなわち「仏様の教え(法)を聴き、疑いなく信じること」だと説いたのです。
難しい修行はできなくとも、仏様の「あなたを必ず救う」という呼び声(お経や法話)を、素直な心で「聴く」こと。それこそが、仏教の本当の入口であり、奥義ですらあるのです。
お寺でジャズを聴くのも、ヨガをするのも、素晴らしい体験です。しかし、それらはあくまで「仏教」という本質に人々を導くための「きっかけ(方便)」に過ぎません。
もし、そのイベントの片隅で、そのお寺の住職さんが、たった五分でも「仏様は、こんなことをおっしゃっていますよ」と、お経に込められた「言葉の奇跡」を語ってくれたなら。(そういうお寺もあります。)

その時初めて、参加者は「癒し」を超えた、人生を支える「教え」という、本当のお土産を持ち帰ることができるのではないでしょうか。和尚さんの言葉は、私たちに、仏教の本当の「聴き方」を思い出させてくれます。
