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仏教に学ぶ、“形”を“心”に変える合掌の秘密 あなたの『いただきます』、ただの習慣になっていませんか?







「言わないよりマシ」から、“心を込める”へ あなたの「ありがとう」は、今どこにありますか?


​私たちは、一日に何度もこうした挨拶や感謝の言葉を口にします。

​「おはようございます」

「ありがとうございます」

「いただきます」

もちろん、言わないよりは、言う方がずっと良いに決まっています。言葉にして伝えることは、社会生活を営む上で、とても大切なことです。


​しかし、その大切な言葉たちが、いつの間にか「言わなければいけないから言う」だけの、中身の伴わない“形”になってはいないでしょうか。


心がこもっていなくても、口先だけで言っておけば角が立たない。そんな、少し寂しい「習慣」になってはいないでしょうか。


​もし、その言葉や、食事の前にそっと両手を合わせる「合掌」という一つの“形”に、相手の存在そのものを、仏様のように深く敬う、とてつもなく尊い意味が込められているとしたら…。


​今回は、私たちが日々、何気なく行っているその“形”に、もう一度、温かい“心”を吹き込むためのお話です。




「友達に合掌で挨拶する?」和尚さんが語った、手のひらに宿る“仏様”

「和尚さん、どうしてお坊さんは挨拶するとき、いつも合掌するの?」

お参りを終えたさとるくんが、和尚さんに尋ねました。


「とても良い気づきじゃのう。さとるくん。それは簡単な質問のようで、仏教のとても深いところに繋がっておるんじゃ」


「えっ、そうなの?」

「ところで、さとるくんは、どんな時に合掌をしとるかな?」


「えーっと、お寺とか、神社に来た時でしょ。あとは、『いただきます』と『ごちそうさま』の時もかな!、あと、お願い!も」


​「そうじゃな」と和尚さんは頷きます。「では、この前お話しした、『常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)』様のことを覚えておるかな?」


「うん!出会う人みんなに『あなたは仏様になれる人です』って言いながら、合掌して拝んでいたお坊さんのことだよね」


「その通りじゃ。では、さとるくんは、朝、学校で友達に会った時、『おはよう!』と言いながら、合掌はせんかな?」


「ええーっ!?」さとるくんは目を丸くします。「そんなことしたら、みんなにビックリされちゃうよ!」

​和尚さんは楽しそうに笑いました。


「そうじゃろうな。じゃが、タイやインドのような国では、その合掌が、ごく当たり前の『こんにちは』という挨拶になっておるんじゃよ」


「へぇー、そうなんだ!」


「日本人がする合掌とは、少し意味合いが違うかもしれん。じゃがな、常不軽菩薩様が合掌されたのは、ただの挨拶ではなかった。相手の内側にある、まだ花開いていない“仏様(仏性)”に向かって、心からの敬意を捧げておられたのじゃ」


​和尚さんは、自らの手のひらをさとるくんの前に差し出しました。


「この合掌という姿はな、仏様の清らかな世界(右手)と、我々のような迷える人間の世界(左手)とを、ここで一つに合わせる姿とも言われておる。」


「そして何より、相手を“仏様”として敬う、最高の敬意の表れなんじゃ。そう思うと、さとるくんの『いただきます』の合掌も、ただの習慣ではなく、目の前の尊い“いのち”に対する、心からの合掌になるじゃろう?」




​すべての人を“仏”として敬う。「常不軽菩薩」と「愛語」の教え


​和尚さんが語った、合掌に込められた深い意味。それは、私たちの日常の「挨拶」や「感謝」そのものが、実は尊い仏道修行である可能性を示しています。


​1. 合掌とは、あなたの中の“仏”への礼拝

​私たちが何気なく合わせる両手。仏教では、右手は「仏様(悟りの世界)」を、左手は「私たち衆生(迷いの世界)」を象徴すると言われています。

この二つを胸の前でぴったりと合わせることは、「仏様と私が一体になる」あるいは「私の中にある仏性を信じる」という、深い信仰の表明なのです。

そして、その合掌を他者に向ける時、それは「あなたの中にある、まだ気づいていないかもしれない、尊い仏性(仏様になる可能性)に対して、私は心から敬意を表します」という、この上ないリスペクトの証となるのです。


​2. 石を投げられても拝み続けた「常不軽菩薩」

​和尚さんの話に出てきた常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は、『法華経』に登場する菩薩です。

彼は、出会う人々、たとえ自分を罵倒し、石を投げてくる相手に対してさえも、ひたすらに合掌礼拝を続け、こう言い続けました。

「私は、あなた方を深く敬います。なぜなら、あなた方は皆、必ず仏になる方々だからです」

人々は彼を「常(つね)に人を軽(かろ)んじない菩薩」と呼びました。

彼の行いは、私たちが「好き/嫌い」や「敵/味方」という小さな物差しで人を判断してしまうことの愚かさと、全ての命が等しく尊いものであるという真理を、私たちに突きつけてきます。


​3. 優しい言葉は、それ自体が“救い”である『愛語』

​禅宗の開祖である道元禅師は、他者と接する上での大切な行いの一つとして「愛語(あいご)」を挙げました。

「愛語」とは、ただ優しい言葉をかけることではありません。相手の存在を慈しみ、その幸せを願う心から発せられる、真実の言葉のことです。

道元は、「愛語よく廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり」と説きました。慈しみの心から発せられた真の“愛語”は、相手の心を変え、社会を、そして天さえも動かすほどの絶大な力を持っている、というのです。

​「おはようございます」、「ありがとうございます」、「いただきます」。

これらの言葉は、単なる社会的なルールや習慣ではありません。


それは、目の前の相手、目の前の命を「仏様」として敬う、常不軽菩薩から続く尊い行いです。


そして、あなたの心からの「愛語」は、相手の世界を変えるほどの力を持った、素晴らしい「お布施」なのです。


明日から、あなたの「ありがとう」の一言に、合掌一つに、どれだけの“心”を込められるでしょうか。




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