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​「一度くらいなら…」が命取り あなたの善意にタダ乗りする人を撃退する、禅の教え








​あなたの「優しさ」、タダ乗りされていませんか?


​きっと、あなたも一度は経験したことがあるでしょう。

​誰かから、ちょっとしたお願い事をされた時のこと。


心の中では少し面倒に感じながらも、「ここで断ったら、ケチだと思われるかも…」「まあ、一度くらいならいいか」と、自分に言い聞かせてしまう。


そして、口から出るのは「あ、別にいいよ!」という、軽やかな承諾の言葉。


​しかし、そのあなたの「一度くらいなら」という小さな善意に、相手が何度も、何度もタダ乗りしてきたとしたら…?


​最初は感謝してくれた相手も、いつしかそれが「当たり前の権利」であるかのように振る舞い始める。そしてあなたは、気づいた時にはもう断るタイミングを失い、静かに我慢し続けるだけの「都合のいい人」になってしまっている。


​その優しさは、本当に美しいものでしょうか。その我慢は、誰かを幸せにしているのでしょうか。


​これは、なあなあな関係に終止符を打ち、あなたの優しさと尊厳を取り戻すための、少し手厳しいけれど、愛のある物語です。




「一度だけ」の親切が招いた悲劇と、和尚さんの痛快な処方箋


​「和尚さん、大したことじゃないお願いって、断るのが一番難しくない?」


さとるくんが、お寺の掃除を手伝いながら、和尚さんに尋ねました。


​「ほう。そうじゃのう。『そんなことで断るなんて、なんて心の狭い人だ』と思われたくない、という見栄が、誰の心にもあるからのう」


​「僕の友達のお姉さんの話なんだけど…」

さとるくんは、最近耳にした悩ましい出来事を話し始めました。


​そのお姉さんの家は、駅のすぐそば。ある日、急いでいた知り合いから「ごめん!駐輪場が遠くて…今日だけ、ここに自転車を置かせてもらっていいかな?」と頼まれたそうです。


お姉さんは、断るのも申し訳ないと思い、「一度だけなら」と、家の前に自転車を置かせてあげました。


​しかし、その「一度だけ」が、二度、三度と繰り返されるうちに、いつの間にか、その知り合いの自転車が毎日当たり前のように家の前に停められるようになってしまったのです。お姉さんは、すっかり断るタイミングを失ってしまいました。


​「それだけでも困った話じゃが…」

和尚さんが眉をひそめます。


​「うん…。さらにね、その自転車が原因で、お婆さんが怪我をしちゃったんだって。置き方が悪くて、風で倒れた自転車がお婆さんの足にぶつかって…」

​「なんと…」

和尚さんの顔から、穏やかな笑みが消えました。


「それは、もはや『些細なこと』では済まされん。人の善意を当たり前と思い、挙句の果てに他人にまで迷惑をかけるとは。そういう悪しき甘えは、一度きっちりと懲らしめんといかんな」


​和尚さんの力強い言葉に、さとるくんは少し驚きました。


「でも、どうやって…?今さら『置かないで』なんて、言いにくいみたいだよ」

​和尚さんは、腕を組み、しばらく目を閉じていましたが、やがてカッと目を見開きました。


「よし。さとるくん。そのお姉さんに、わしのとっておきの処方箋を授けておやりなさい。これは、相手と喧嘩をせず、自らの非を思い知らせる、痛快な一手じゃ」


​「痛快な一手…?」

​「うむ。そのお姉さんにな、こう伝えておやりなさい。『もう自転車を置くのはやめてください』と言うでない、と」


「えっ、言わないの!?」

​「そうじゃ。代わりに、一枚の大きな紙に、こう書いて、その毎日停められている自転車に貼り付けておくのじゃ」


​『こちらの場所をご利用の方へ。

駐輪されるのは構いません。ただし、ご利用一回につき、お地蔵様へのお賽銭として、この箱に十円をお納めください。

尚、この自転車が原因で発生した事故・怪我・その他一切のトラブルの責任は、すべて所有者である、あなたが負うものとします。』


​和尚さんは、ニヤリと笑いました。

​「どうじゃ? これならば、お姉さんは相手に『置くな』と伝える必要がない。ただ、善意で提供していた場所が、『対価と責任を伴う場所』に変わったという事実を、静かに突きつけるだけじゃ。」


「人の善意にタダ乗りしていた者は、対価と責任を求められた途端、潮が引くように去っていくもんじゃよ。これぞ、なあなあな関係を断ち切る、仏罰ならぬ『仏智』じゃ」


​さとるくんは、思わず「すごい!」と声を上げました。それは、ただ相手を拒絶するのではない、自分の尊厳を守りながら、相手に静かな反省を促す、まさに痛快な解決策だったのでした。




​なぁなぁな関係は「悪」である。「威儀即仏法」が教える、自他の境界線


​和尚さんが授けた、一見すると少し意地悪にも思える痛快な一手。これは、禅の教え、特に曹洞宗の開祖・道元禅師が重んじた「威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)」という思想に深く根差しています。


​「威儀(いぎ)」とは、私たちの日常における、一つひとつの立ち居振る舞いや作法のことです。そして「威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)」とは、その日常の立ち居振る舞いそのものが、仏法のすべてであり、修行の実践である、という教えです。


​挨拶の仕方、食事の頂き方、物の置き方。そのすべてに、その人の心の状態が現れます。心が整っていれば、自ずと立ち居振る舞い(威儀)も美しく整います。


​さて、物語のお姉さんと、その知り合いの関係に、この「威儀」を当てはめてみましょう。


​知り合いの「人の家の前に、断りもなく自転車を停める」という行為は、明らかに他者への配慮を欠いた、乱れた「威儀」です。それは、自分さえ良ければよいという、仏法とはかけ離れた心の表れです。


そして、それを見て見ぬふりをし、「なあなあ」で許してしまっているお姉さんの状態もまた、相手の乱れた威儀(いぎ)を助長してしまっている、という点では、決して整った状態とは言えません。


​禅の世界では、この「なあなあ」や「曖昧さ」を嫌います。 それは、自他の境界線を曖昧にし、お互いへの甘えや依存を生み、結果として両者の成長を妨げる「悪」だと考えるからです。


​和尚さんの処方箋は、この乱れた「威儀」、つまり乱れた関係性を、正しい「形」にきっちりと整え直すための仏道の実践なのです。

​「対価」と「責任」という明確なルール(境界線)を示すこと。


それは、相手を罰するためではありません。相手に、「あなたのその行為は、他者との関係性において、これだけの重みと責任を持つものなのですよ」と、その乱れた威儀を自覚させ、自ら襟を正す機会を与えるための、禅的な「慈悲」なのです。


​もし、あなたが誰かとの関係で「都合のいい人」になってしまっていると感じるなら、それはお互いの「威儀」が乱れているサインです。


勇気を出して、自分と相手との間に、きちんとした境界線を引いてみてください。それは、冷たい行為ではありません。あなた自身の尊厳を守り、そして相手をも甘えから救い出す、最も誠実で、力強い「威儀」の実践なのですから。




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