この世は恐ろしいほど平等なんじゃ 和尚さんが語る「報い」と「めぐり」の話
なぜ、悪いことをした人が得をしているように見えるのか

世の中を見渡すと、理不尽なことがたくさんあります。
「まじめに働く人が報われず、声を荒げた人の方が通ってしまう」
「努力しても評価されず、ずるい人が笑っている」
そんな場面に出会うたび、私たちは心の奥でつぶやきます。「この世界は不公平だ」と。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
もし“仏の目”でこの世界を見たなら、見えてくる風景はまったく違うのかもしれません。
見えないところで、すでに平等は働いている

ある秋の日の夕方。寺の境内を掃除していた和尚さんのもとに、さとるくんが少し沈んだ顔でやってきました。
「和尚さん、今日、学校で隣のクラスに新しい先生が来たんだ。」
「ほう、こんな10月の中途半端な時期にどうしてなんじゃろう」
「前の先生が辞めちゃったんだ」

和尚さんはほうきを止め、さとるくんの顔を見ました。
「何だか残念そうな表情じゃな。」
「うん、とってもいい先生だったのになぁ。
でも、その先生、気の毒なんだ。
隣のクラスの子の両親が毎日学校に押しかけてきて、夜遅くまで先生、帰れなかったらしいんだ。
もともとは大したことじゃなかったのに、
その親が駄々をこねて……」

和尚さんはしばらく黙って空を見上げました。
風が吹き抜け、銀杏の葉が一枚、ふわりと落ちました。
「……大人って、みんな大人にはなれないの?」
さとるくんがつぶやくように言いました。
和尚さんは目を細め、やさしく答えました。
「さとるくんは随分、大人びたことを言うのう。しかし、困ったもんじゃな」
「先生が可哀想なんだ。だからなんとかしてよ、和尚さん」

和尚さんは少し笑って首を横に振りました。
「申し訳ないが、わしには何ともできん。だがな、いいことを教えてあげよう。」
「えっ、なに?」
「みんな世界は不平等だと嘆くが、本当はそうではない。この世は“恐ろしいほどに平等”なんじゃ」

「どういうこと?」
和尚さんは静かに語りはじめました。
「この世界を仏の目で見ると、何もかもが“得と失”、“喜びと苦しみ”の対になっておる。
何かを得た者は、必ず何かを失い、失った者は、やがて何かを得る。
それは、春に咲く花が必ず散り、冬の雪がいつか溶けるのと同じ理じゃ。
今、先生を苦しめた親子が得をしたように見えるかもしれん。
だがのう、その裏側では、すでに“見えない報い”が始まっておる。
それは罰ではなく、“めぐり”なんじゃ」

「……めぐり?」
「そうじゃ。人はみな、同じ空の下で生きておる。晴れの日もあれば、嵐の日もある。誰の頭上にも、順番に雨は降る。わしも、さとるくんも、あの親子も例外ではない」

「だから、恨む必要も、裁く必要もない。ただ、雨の日を恐れず、晴れの日に奢らぬこと。それが、人の道というものじゃ」
さとるくんはしばらく黙っていましたが、やがて小さくうなずきました。
「……うん、先生のこと、ちゃんと見守る」

和尚さんはほっとしたように笑いました。
「それでよい。それがほんとうの“祈り”なんじゃ」

風がまた吹いて、境内の落ち葉がカサカサと鳴りました。夕陽が差し込み、ふたりの影を長く伸ばしていきました。
因果は「報い」ではなく、「めぐり」である

和尚さんが語った「恐ろしいほどに平等」という言葉。それは、仏教の基本である因果の法則を示しています。
すべての出来事には「因(原因)」があり、そこから「果(結果)」が生まれる。
しかし、その因と果は同時に終わるのではなく、時間を超えて“めぐり”続けるのです。
龍樹菩薩は『中論』でこう説きました
因縁によりて法は生ず。因縁尽きて法は滅す。
(すべての現象は因縁によって生じ、因縁が尽きれば消える)
この「因縁」という流れの中では、善も悪も、上も下も、本来は差がない。
ただ、種をまけば芽が出るように、それぞれが蒔いたものが、やがて形を変えて現れる。
親鸞聖人も『教行信証』でこう言いました
「善悪のふたつ、みなもって凡夫のはからいなり。」
私たちは、すぐに「これは善」「あれは悪」と裁きたがります。しかし、それは限られた時間と視点の中での判断にすぎません。
仏の智慧から見れば、それらはすべて“めぐりの中の一部”なのです。
だからこそ、他人の報いを待つよりも、自分の心の中で何を育てるかが大切です。

人を恨む種を蒔けば、心の畑に棘が生える。
慈しみの種を蒔けば、やがて静かな花が咲く。
報いとは天から降る罰ではなく、自らがまいた種の芽生えにすぎません。
恐ろしいほどに平等とは、
この「めぐり」から逃れられる者が一人もいない、ということ。
それは恐ろしいが、同時に美しい真実でもあります。

なぜなら、誰の心にも、新しい種をまく自由があるからです。
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