お客様は神様なの? 自称「神様」が一番恥ずかしい 法華経に学ぶ、お金では買えない「本当の品格」とは
その態度、本当に恥ずかしい「お金を払う側」の勘違い

あなたも、こんな場面に居合わせて、息を飲んだことはありませんか?
普段はとても温厚で、常識的な「いい人」に見えるのに、レストランやお店の店員さんに対してだけ、まるで別人のように横柄な態度をとる人。
「お金を払っているんだから」という言葉を盾に、理不尽な要求を突きつけたり、些細なミスを大声で責め立てたりする姿。
もし、そんな人が自分の友人や家族、あるいは取引先の人だったとしたら…。

私たちは、その人の行動を止めることもできず、ただただ「恥ずかしい」、「この人と同じ仲間だと思われたくない」と、その場で凍りついてしまうかもしれません。
その人が振りかざす「正当な権利」と、私たちの胸に広がる強烈な「嫌悪感」。
この違いは、一体どこから来るのでしょうか。

そして、その人の「本性」を見てしまったような、あの気まずい思いを、私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。
「お客様をなんだと…」父の知人が見せた、忘れられない夜

「和尚さん…。ちょっと聞いてもらってもいい?」
ある日の夕暮れ、さとるくんが、いつになく暗い表情でお寺にやってきました。
「おお、さとるくん。どうしたんじゃ、そんな顔をして。何かあったのか」
和尚さんがお茶を差し出すと、さとるくんはぽつりぽつりと話し始めました。
「この前ね、お父さんと、その知り合いの人たちと、ちょっと良いお店に食事に行ったんだ」
「ほう、ごちそうだったかな?」
「うん、食事はすごく美味しかったんだけど…僕、その時すごく嫌な思いをしたんだ。恥ずかしかった…」
さとるくんによると、その場にいたお父さんの知り合いの一人が、問題だったと言います。
「その人、お父さんたちと話しているときは、すごく面白くて、ごく普通の『いい人』なんだ。でもね…」
料理が運ばれてくるたび、その人の態度は豹変しました。

「運んできた店員さんに対して、いちいちケチをつけるんだ。『盛り付けが雑だ』とか『出すタイミングが遅い』とか…。愚痴を言うだけならまだしも、店員さんに向かってキレてて、すごく不愉快だったんだ」
お店の雰囲気は、その人の怒声で凍りつきました。さとるくんは、お父さんたちの手前、何も言えず、ただ小さくなっていたと言います。

「一番ひどかったのは、お店を出るとき。レジで『お金を払っているんだから、これくらい当然だ』とか、捨てゼリフを吐いて、散々嫌味を言ってたんだ。『お客様をなんだと思ってるんだ!』って…。僕、あの人と同じグループだと思われるのが、本当に恥ずかしかった。人って、見かけによらないね…」
うつむくさとるくんの頭を、和尚さんは静かに撫でました。
「それは、嫌な気分じゃったのう。さとるくんは何も悪くないのに、恥ずかしい思いをしたな」
和尚さんは、静かに続けます。
「お金を払えば、自分はその場で一番偉くなったような気になる者。そういう心の貧しい人は、昔からおるからのう。よくある表現で、『お客様は神様です』なんて言葉があるが、あれを履き間違えておるのじゃ」

「神様…」
「うむ。しかしな、さとるくん。自ら『我こそは神なり』と騙る者には、ろくなもんはおらん。それは、神仏の姿とは似ても似つかぬ、ただの傲慢な人間の姿じゃよ」
和尚さんのきっぱりとした言葉に、さとるくんは顔を上げました。
「わしらにできることは、二つじゃ。一つは、決して自分はそのような人間にならぬこと。もう一つは、そのような人間を見てしまった時、自分の心をどう保つかじゃ」
「どう保つの?」
「その人が店員さんに向ける『慢心(まんしん)』の矢を、そのまま受け取ってはいかん。」
「さとるくんは、さとるくんの優しい心で、むしろ店員さんに『お疲れ様です。大変ですね』と、心の中でそっと寄り添ってあげるのじゃ。」

「傲慢な態度に同調せず、心の中で静かに敬意を払う。それこそが、その場の凍りついた空気を浄化する、さとるくんだけの尊い行いなのじゃよ」
あなたも私も仏になる。「常不軽菩薩」が教える、本当の敬意

さとるくんが目撃した、父の知人の横柄な態度。和尚さんが「自ら神を騙るもの」と断じたその心は、仏教でいう「慢(まん)」、特に自分を実際以上に優れていると思い込む「増上慢(ぞうじょうまん)」という、根深い煩悩の表れです。
「お金を払う側(自分)は、サービスを受ける側(店員)より上だ」という歪んだ上下関係に囚われ、相手の人格を尊重する心を失ってしまっているのです。
この「増上慢」の対極にある、究極の「他者への敬意」を示した教えが、『法華経』の中にあります。それが、第二十「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)」に登場する、「常不軽菩薩」の物語です。
「常不軽(じょうふきょう)」とは、「常に軽んじない」という意味です。
この菩薩は、はるか昔の時代、出会う人々、それがどんな身分の人であっても、その人に向かって深く礼拝(らいはい)し、こう言い続けました。

「私は、あなた方を深く敬います。なぜなら、あなた方は皆、菩薩の道を行じて、必ずや仏になることができるからです」
しかし、当時の人々は、この常不軽菩薩の行いを理解できませんでした。「何を根拠に、我々が仏になどなれるものか」と彼をあざ笑い、悪口を言い、石を投げつけ、杖で打ちました。
それでも、常不軽菩薩は、遠くからでも彼らを見かけると、やはり大声で「あなた方は必ず仏になれます!」と叫び、礼拝することをやめませんでした。
なぜ彼は、迫害されながらも、すべての人を敬い続けたのでしょうか。
それは、常不軽菩薩が、人々の表面的な姿(身分や、その時の機嫌や、態度の良し悪し)を見ていたのではなく、すべての人間の内側に必ず宿っている「仏性(ぶっしょう)」、すなわち「仏になる尊い可能性」だけを、まっすぐに見つめていたからです。
「お客様は神様だ」と自称する人は、自分を神(=絶対的な上位者)とみなし、他者を見下します。
しかし、常不軽菩薩の教えは、「神(仏)とは、あなた自身ではなく、あなたが敬うべき相手の『中』にこそ宿るのだ」と、私たちに180度異なる視点を示してくれます。

レストランの店員さん、宅配便の配達員さん、掃除をしてくれる人。その人が今どんな仕事服を着ていようと、その奥には、あなたと何ら変わらない、尊い「仏性」が輝いています。

もし、さとるくんが出会ったような「増上慢」の人に遭遇し、心がザワついたなら。
和尚さんの言葉を、そしてこの常不軽菩薩の姿を思い出してください。
その人を反面教師として、「自分はあのような人間にはなるまい」と襟を正す。そして、横柄な態度にさらされている店員さんに対し、心の中で深く頭を下げる。

「あなたは、仏になる尊い人です」と。
お金で買えるサービスには限りがありますが、人が人に示す敬意は無限です。
その「品格」こそ、お金では決して手に入らない、あなたの最も尊い財産なのです。
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