「どうせ見えない」が命取り 歩きタバコの煙に学ぶ ブッダの「智慧の目の曇り」とは
あなたも「悪の一滴」を垂れ流していませんか?

「自分くらい、大丈夫だろう」
その小さな心の緩みが、あなたの背後で、見えない誰かの一日を台無しにしているとしたら。
「たった一回、ちょっとくらいなら、いいじゃないか」
その無自覚な行動が、まるで黒いインクの一滴のように、じわりじわりとあなた自身の心を蝕んでいるとしたら。
私たちは皆、知らず知らずのうちに、自分の欲望や都合を優先し、「見えない他者」への想像力を失ってしまう瞬間があります。
「どうせバレない」
「誰も見ていない」
しかし、仏教は、その「見られていない」瞬間の行いこそが、あなたのすべてを決定づけると説きます。

これは、歩きタバコの煙たい背中から始まった、あなたの心の「火種」を見つめるための物語です。
「後ろに目がないから知らんぷり」さとるくんを怒らせた、煙たい背中

「和尚さん、こんにちは…。はぁ、煙たかった…」
息を切らして駆け込んできたさとるくんが、手で鼻と口を押さえながら顔をしかめました。
「おや、さとるくん。どうしたな、そんな顔をして」
和尚さんが尋ねると、さとるくんはプンプンと怒った様子で話し始めました。

「さっきここに来る道を歩いていたら、僕の前を歩いてるおじさんが、歩きタバコをしていてね。煙が全部、僕の顔にかかるんだ! 煙たいなあって、すごく嫌な気分だったよ」
「ほう、それは災難じゃったのう」
和尚さんは、さとるくんの背中を優しくさすってあげました。
「近頃は、道でタバコを吸う人もずいぶん減った。そんな目にあうことも滅多にないから、その稀な煙たさが、余計に嫌な気分になるもんじゃわい」
「きっと、自分のことだけしか考えていないんだよ、あの人!」
さとるくんの怒りは収まりません。
「さとるくんは、物事の本質がよくわかっとるな」
和尚さんは、深く頷きました。

「だって、ひどいよ。後ろに目がないから、後ろに誰が歩いているかなんて見えない。だから、どんなに迷惑をかけても知らんぷりなんだよ、きっと」
「うむ。その通りじゃ。『たった一回くらい』、『ちょっとの区間くらい』。心に生まれた、そんなほんの少しの気の緩みが、他人の気持ちを台無しにする。そして、何より恐ろしいのは、それに本人がまったく気づいておらんことじゃな」

「そうだよ!気づいてないんだよ!」
「じゃがな、さとるくん」
和尚さんは、さとるくんの目をじっと見つめました。
「その人を憎んでも、君の肺に入った煙は消えんし、君の心も晴れん。その怒りの煙で、君の心まで曇らせてはいかん」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「その人はな、『智慧の目』が煙で曇って、真実が見えなくなっておるのじゃ。自分の吐き出す煙が、他人を傷つけ、そして巡り巡って自分の徳を失わせていることに気づけない。これほど可哀想なことはないじゃろう」
和尚さんは、さとるくんに優しく語りかけました。

「だから、君はその人を憎むのではなく、哀れんでおやりなさい。そして、心の中でこう誓うのじゃ。『私は、決してあの人のようにはならない。見えない人の心を想像できる人間になる』と。それこそが、君が今日、煙たい思いをしたことの、一番尊い意味になるんじゃよ」
「たった一回」を侮るな 水瓶を満たす『悪の一滴』の恐ろしさ

和尚さんがさとるくんに語った、「たった一回」、「ちょっとくらい」という気の緩みの恐ろしさ。そして、「見えない他者への想像力の欠如」。
これこそが、仏教が最も厳しく戒める「心の病」です。
お釈迦さまの言葉をまとめた『法句経』という経典の中に、まさにこのことを指し示した、恐ろしい警告の言葉があります。
「『これくらいは自分に返ってこないだろう』と、悪を軽く見てはいけない。一滴一滴の水のしたたりが水瓶を満たすように、愚かな者は、少しずつ悪を積み重ねて、やがて悪に満たされてしまうのだ」(法句経)
歩きタバコをする人は、「たったこれくらい」と、その行いを「悪」だとは認識していないでしょう。それは、彼にとって「悪の一滴」に過ぎないからです。
しかし、ブッダは「その一滴を侮るな」と厳しく説かれます。
「どうせ見えないから」と他者への配慮を怠る、その「一滴」。
「自分さえよければいい」と欲望を優先する、その「一滴」。
その小さな悪の一滴は、本人も気づかぬうちに、確実にその人の心の水瓶に溜まっていきます。

そして、その水瓶が、無自覚な悪で満たされてしまった時、その人はもはや、自分の行いがどれほど他者を傷つけ、自分の品性を貶めているのか、まったく気づくことのできない「愚かな者」となってしまうのです。
和尚さんの言う「智慧の目が曇る」とは、まさにこの状態です。
自分のことしか考えられない人は、一見、自由気ままに生きているように見えますが、仏教の視点から見れば、自らが溜めた「悪の水」に溺れ、真実が見えなくなっている、最も不自由で、哀れな姿なのです。
私たちが恐れるべきは、大きな罪ではありません。
日々の中で犯してしまう、「たったこれくらい」、「どうせ見えない」という、小さな、小さな「悪の一滴」です。
その一滴を垂れ流さないよう、常に自分の行いを振り返り、見えない他者を想像する「智慧の目」を磨き続けること。

それこそが、ブッダが私たちに示した、人間として気高く生きるための、唯一の道なのです。
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