【泥と蓮】神眼|8. 剣ヶ峰
御嶽山の山頂で、鳴雷神(なるいかづちのかみ)がサベルネに覚悟を問うた。稲妻が何度も落ちた。あの日インドラに焼かれた者は、今度は退かなかった。受け止め続けた。雷神が授けたもので、サベルネの右目に光が戻った。琥珀色の目で世界を視ながら、彼は山を降りる。洋館に、サラと苗子が待っている。
───
剣ヶ峰の山頂に、サベルネは立っていた。
そこには、何もなかった。岩と、風と、雷雲だけ。
だが、空気が違った。
霊気が濃い。死者の気配ではない。もっと古い。もっと巨大な存在の気配。山そのものが、サベルネを見ていた。
雷雲が、ゆっくりと渦を巻き始めた。
稲妻が光った。雷雲の中に、影が見えた。巨大な影。人の形をしているが、人ではない。
鳴雷神。
御嶽山の雷神。この山を守る古い神。インドラの眷属(けんぞく)。
声は、すぐには響かなかった。
雷雲の中の影が、サベルネを見下ろしていた。値踏みするように。タイの山から渡ってきた異国の神を、長い間、観察するように。
サベルネは動かなかった。眼帯を押さえた手も、降ろさなかった。岩の上に立ち、左目だけで、雷雲の影を見上げていた。
やがて、声が響いた。
「インドラに焼かれた者か」
低く、重い声。雷鳴のような響き。山全体から響いてくる。
サベルネは答えなかった。答える必要がなかった。眼帯の下の空洞が、答えだった。
雷雲の中の影が、わずかに動いた。
「タイの山から、何故ここまで来た」
サベルネはすぐには答えなかった。風が、巨躯の周りを吹き抜けていく。眼帯の下の空洞が、灼けるように熱い。
「取り戻しに」
サベルネが、ようやく口を開いた。低く、掠(かす)れた声で。
それ以上は、言わなかった。言葉は要らなかった。何を取り戻すのか、雷神は既に知っている。
沈黙が落ちた。風が止んだ。雷鳴さえも、一瞬途切れた。
雷雲の中で、影が動いた。観察を終えた者の動き。判断を下す者の動き。
「ならば」
声が、低く響いた。
「見せてみよ」
───
稲妻が落ちた。
サベルネの体を直撃した。
白い閃光。全身を貫く激痛。あの日と同じ。インドラの雷と同じ。
サベルネは叫んだ。声にならない叫び。膝が折れる。岩の上に崩れ落ちる。
全身が焼けている。皮膚が。肉が。骨が。
右目の空洞が、灼熱に満たされている。再び焼かれている。
記憶が蘇る。
あの日。ドイ・ニアトスの山。インドラの雷が落ちてきた日。何も見えなくなった日。全てを失った日。
「立て」
鳴雷神の声が響く。
サベルネは動けなかった。体が言うことを聞かない。痛みが、全身を支配している。
「立てぬか。タイの山の神よ」
声に、失望の色が混じった。
「ならば、ここで果てよ。インドラに焼かれた者は、ここで灰になれ」
サベルネの目の前が暗くなっていく。
闇が迫ってくる。
意識の中で、何かが薄れていく。痛みが、思考を覆っていく。倒れる、と体が判断する。終わる、と魂が悟りかける。
その時。
闇の底で、何かが揺れた。
声ではなかった。記憶でもなかった。サベルネ自身の、最も古い場所にあった、まだ言葉になる前の何か。
遠い昔。ドイ・ニアトスの山。陽光が差し込む山道で、初めて出会った尼僧。跪(ひざまず)いた日。慈悲という言葉を、初めて知った日。
雷に焼かれ、両目を失い、麓の寺の庭に落ちた日。
雨の中で、一匹の猫に救われた日。天上の蓮の池で癒され、左目を授かった日。
長い年月、失ったものを探し続けた日々。
海を渡り、覚王山に居着いた日。いつのまにか苗子がいた洋館。
サラと出会った日。
それら全てが、闇の底で、薄く光っていた。
サベルネの右手が、岩を掴んだ。
意識ではなかった。判断でもなかった。ただ、体の奥にある、もっと深い場所が、動いた。
体を起こす。膝が、悲鳴を上げる。全身が、焼け焦げている。
だが、立った。
雷雲の中の影が、わずかに揺れた。
サベルネは顔を上げた。左目の翡翠(ひすい)が、緑色に揺らいでいる。眼帯の下の空洞が、もう熱を感じていない。代わりに、何か別のものが、サベルネの巨躯に宿っていた。
退かない、という意志。
それ以上の言葉は、要らなかった。
二度目の稲妻が落ちた。
サベルネの体を貫いた。
今度は、叫ばなかった。
両足を踏みしめ、拳を握りしめ、稲妻を受け止めた。
全身が燃えている。魂が焼かれている。だが、倒れない。
膝が震えている。視界が霞んでいる。だが、立っている。
稲妻が、何度も落ちた。サベルネは、受け止め続けた。倒れなかった。
体が焼け続けている。目の前が暗くなる。だが、立ち続ける。
やがて、稲妻が止んだ。
───
静寂が降りた。
風が止んでいる。雷雲が、山頂から離れていく。
サベルネは立っていた。焼け焦げた体で。それでも、立っていた。
「よかろう」
鳴雷神の声が響いた。
「その覚悟、我は受け取った」
雷雲の中から、影が降りてきた。巨大な影。だが、もう威圧はなかった。
影がゆっくりと片手を掲げた。天を仰ぐように。祈りを捧げるように。
その掌の上に、光が凝(こ)っていく。
琥珀色の光。深みのある黄金。その中心で、赤い炎が脈動している。
金剛雷火眼(こんごうらいかがん)。
サベルネは、それが何であるかを、見た瞬間に知った。阿那が告げていたもの。役小角(えんのおづの)が雷神を調伏した際、雷の直撃を受けた金剛杵(こんごうしょ)の先端が溶けて固まったもの。長い年月、この山頂で守られてきた、雷火の精髄(せいずい)。
影が、光をサベルネに差し出した。
言葉はなかった。授ける者と授かる者の間に、それ以上の言葉は要らなかった。
サベルネは手を伸ばした。
光に触れた瞬間、熱が走った。稲妻の熱とは違う。内側から燃え上がるような熱。
サベルネは眼帯を外した。
右目の空洞が露わになった。インドラに焼かれた跡。何年経っても癒えない傷。
金剛雷火眼を、その空洞に近づけた。
宝玉が、自ら動いた。サベルネの眼窩に吸い込まれるように、滑り込んでいく。
その瞬間。
山全体が鳴動(めいどう)した。
地面が揺れる。岩が弾ける。雷雲が再び渦を巻き、稲妻が無数に走る。
サベルネの体から、熱が溢れ出した。
右目の空洞が、光に満たされていく。インドラに焼かれた傷跡が、内側から焼き消されていく。痛みではない。浄化だ。
凄まじい熱量がサベルネの体を駆け巡る。御嶽山の火山としてのエネルギー。不浄を焼き尽くす火の力。
サベルネは叫んだ。
今度は、痛みの叫びではなかった。解放の叫び。何年も抱えてきた傷が、癒されていく叫び。
光が収まった。
山が静まった。
───
サベルネは立っていた。
右目が、開いていた。
琥珀色に輝く目。深みのある濃い黄金色の中に、溶岩のような赤い光が脈動している。まばたきをするたびに、微細な火花が散る。
視界が変わっていた。
左目の翡翠は、水面から見上げるような揺らぎを伴う視界。遠くの生命の拍動を捉える目。
右目の金剛雷火眼は、熱を視る目。闇の中でも、生きとし生けるものの体温が、赤く浮かび上がって見える。
二つの目が、一つの視界に重なっている。
サベルネは両手を見下ろした。焼け焦げていたはずの体が、癒えている。完全ではない。傷跡は残っている。だが、もう痛みはない。
周囲に、陽炎(かげろう)が立ち込めていた。サベルネの体から立ち上る熱が、空気を歪めている。足元の岩が、熱で乾いている。
鳴雷神の影が、薄れ始めていた。
最後に、声が響いた。
「これより先は、汝自身の光で歩め」
それだけだった。
加護も、約束もなかった。雷神が告げたのは、ただの事実だった。
影が消えていく。
やがて、山頂には静寂だけが残った。
サベルネは空を見上げた。青い空が広がっている。雲が切れ、陽光が差し込んでいる。
右目が、光を捉えていた。何年も見ることができなかった、右側の世界。
サベルネの口元に、喜びはなかった。ただ、深い場所で、何かが定まった。これでいい、と。これからのことは、自分が引き受ける、と。
右目の奥で、赤い炎が、深く脈動していた。
その脈動の意味を、サベルネはまだ言葉にできなかった。だが、巨躯の奥に、確かなものが沈んでいた。
脈動に導かれるように、右目が、西を向いた。
海の向こうに、何かがあった。サベルネの新しい右目が、そこにある熱を、捉えていた。
洋館に、サラと苗子が待っている。
サベルネの体が、薄れ始めた。山の気配と溶け合うように、巨躯が霞んでいく。
風が、南へ流れた。
帰るべき洋館へ。
(つづく)
