きらきら光る【逆 介護】
【note創作大賞2025 オールカテゴリ部門 参加作品】
※台風の描写、纏わる記事です。大丈夫な方、ご覧いただけましたら幸いです。
あの日、私は、見慣れたはずの通り道で自転車を止めた。
一晩の大雨で街は水に沈み、翌朝には水が引いていたものの、通りには誰一人として姿がなかった。
濡れたアスファルトには泥の筋が残り、いつもなら活気に満ちていた店のシャッターも、まるで世界から光が消えたかのように曇天に霞んでいた。
傾いた看板、泥をかぶった花壇、捨て置かれたビニール袋。
この道を毎日のように通っていたのに、いざ変わり果てた姿を前にすると、自分の居場所を失ったような心細さが胸に広がった。
私は、自転車でその通りを抜け、次の訪問先へと急いだ。
ひと月後、その通りに住んでいた方が引っ越しを余儀なくされ、ヘルパー支援を受けることになった。私は担当となった。
初めて訪問したときのことを、今でも鮮明に覚えている。
「……何にも、なくなっちまったよ」
開け放たれた玄関口から、か細い声が漏れた。少しは家財が持ち出せたと聞いている。そういう意味ではないのかもしれない。
目の前に立つご利用者様は、やせ細った肩をさらに小さく丸めていらした。
私は言葉を探したが、見つからなかった。
「大変でしたね」とか、「これからですよ」とか、そんな月並みな慰めの言葉では、とてもこの喪失感には寄り添えない気がした。
だから、ただ静かにうなずき、掃除を始めた。
それからの日々、ご利用者様は必要最低限の会話しかしなかった。色々投げ掛けてはみたものの、言葉は虚しく空に浮く。ご利用者様は 用件だけを淡々と告げ、あとは遠い目で窓の外を眺めていた。たまにこぼれるため息が、部屋の中を冷たくよどませた。
内心、私は焦った。
心を閉ざした相手に無理に踏み込むことはしない。けれど、ヘルパーとして介入できることは、本当にないのか?何も、思いつかない。
…或いは、ご利用者様が私の押し隠していたつもりの狼狽えを、感じとってしまわれたのかもしれない…。
ある日、ご利用者様がクローゼットの奥から一着の割烹着を出された。
ところどころにシミが浮かび、裾もほつれていた。年季が伺われる。
「……これ、作業着で着たんだ」
ご利用者様がぽつりとつぶやいた。
「衣類の補正屋と洗濯屋をしてたんだ。」
懐かしさと、ほんの少しの誇りとが、入り交じった表情だった。
私は、通りの看板を思い出す。
「ほつれ、直せるかしら」
頼まれた私は、針と糸をお借りし、リビングの隅に小さな作業台をつくった。
ちくちく、ちくちく――。
静かな音だけが、時折、部屋に響いた。
しばらくして、ご利用者様がぽつりと言った。
「お客様から預かった服を抱えてるとね、不思議と、その人の声が聞こえてくるの。……大事にしてきた服ほど、たくさん話してくれる」
私は手を止めずに、話に耳を傾けた。
「ボタンの取れたコートは、”この人、急いでたんだな”と教えてくれる。
すり切れたスカートは、”何度も何度も頑張ったんだな”と語ってくれる。
洗いざらしのワンピースは、”誰かに会いに行ったんだろうか”と、ほのかな甘い匂いをまとってた。服ってね、着る人の生き方を、ぜんぶ、覚えてるのよ」
私は目頭が熱くなった。
私は仕事を「ただの作業」としか思っていなかったのではないか。そんなことはないつもりだけれど、浅いかもしれない。 ご利用者様は、その向こうにある「人生」に耳をすませていたのだ。
ちくちく、ちくちく。
私は針を動かしながら、そっと尋ねた。
「……そのとき、お客様とは、どんなふうにお話されたんですか?」
ご利用者様は、ふっと笑った。
「ほとんど、何も話さないのよ。ただ、服が教えてくれるから。それに応えるだけ」
それは、静かな、けれど深い寄り添い方だった。
言葉を重ねることでも、励ますことでもない。
ただ、相手を丸ごと受け止める。
そんな関わり方を、私は目の前で教わっていた。
「手を動くようにして、自分で繕いたいわ」
それから、ご利用者様は少しずつ変わっていった。
小さなことにも「ありがとう」と言ってくれるようになった。
窓辺に小さな花を飾り、「きれいね」とつぶやくようになった。
訪問するたび、私は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
失ったものばかりを数える日々から、目の前の小さな光に目を向ける日々へ――
そんな変化が、静かに、でも確かに、ご利用者様の中に起きていた。
水害で失われた街の光。
心を閉ざしていたご利用者様の光。
それを、私の中にも、気づかないうちに小さく灯して下さった光。
私が寄り添ったのではない。ご利用者様は自ら輝き、私にまで光を分け与えて下さったのだ。
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