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ちょこっと哲学3分間Ⅰ 私って何?  [創作大賞2026 エッセイ部門応募作】


1.倍率1倍の望遠鏡は可能か

望遠鏡の基本原理は、対象物を狙う対物レンズと、そこで拡大され逆さまになった像を、
もう一度ひっくり返してもとの上下左右を取り戻す接眼レンズによって成り立つ。
つまり、望遠鏡は外の世界を一度ひっくり返し、更にひっくり返すという世界像の2回の
ひねり操作を行っている。

だから、どうしても、現実の像と望遠鏡で覗く像の間にはずれが発生する。

逆にずれがない望遠鏡は意味を成さない。
倍率X倍の望遠鏡が、望遠鏡の求められる理由だから。

さて、そこで、倍率1倍の望遠鏡は可能であろうか。

一度ひっくり返して、更にひっくり返した像が、現実の像を100%再現することは可能か?

哲学を望遠鏡に例えるなら、
倍率1倍の哲学は可能か?ということになる。

言葉というレンズで、日常の言葉の意味をひっくり返し、宇宙像の探索、時間軸の探索、存
在の意味の探索を行い、もう一度この日常の世界に降り立つ哲学は可能か?
そんな問いが出てくる。

どのような哲学の本を読んでも、どうしても日常感覚とのズレが発生するのは、この言語・
望遠鏡の構造によるものだと思う。

この世界を完璧に読み解き、この世界の真の姿を浮き彫りにすること、それが、この世界と
倍率1倍で重なること。
それは哲学の夢だが、原理的に不可能な夢だと思う。

なぜか、言葉は私と世界の中に距離を必ず発生させるから。
言葉を獲得する以前の幼児のように世界と私との間の一体性は不可逆的に失われているから。

だからこそ、哲学の、無限の喜びがある。
語りつくせないということの喜びが。

追記
ちなみに、望遠鏡の世界初の製造で有名なのが、かのガリレオ・ガリレイである。
ガリレオの作った望遠鏡は倍率14倍から20倍程度。
それを武器に天文観測を行い、ガリレオは今までの天動説を引っくり返し、地動説を説いた。
まさに天地がひっくり返るほどの世界観革命であった。

2.焼き鶏の存在理由

焼き鶏の存在理由、それは厳粛にシンプルである。
人に食べられることである。
その鶏がブロイラーであれ、地鶏であれ、人間が焼き鶏用に造り上げたからである。
つまり、焼き鳥は人間という創造主によって食べられるための鶏としてこの世に存在せしめられた被造物である。

もし、人間が創造主たる神によって造られたものであるなら、人間の存在理由は神のみが知る。
そして神の意図は測り知れない。
従って、神を信じるものは神の言葉の中に自分の存在理由を探さなくてはならない。

近代になり、ニーチェが「神は死んだ」と言った。
それは、人間の存在理由を、神が保証してくれなくなったことを意味する。
いわば、人間という名の「焼き鶏」が、突如として厨房(宇宙)に一人きりで取り残されたのだ。
人間は、自分で、自分の存在理由を探さなくてはならなくなった。
傲慢さではなく、切実さとして。

追記
ブロイラーは、肉専用の若鶏のこと。
孵化後3ヵ月未満。欧米では、もともと、生体重0.9~1.3kgの煤焼用の幼齢鶏をブロイラー(broiler)、またそれより少し大きい生体重1.4~1.7kgくらいのぶつ切り(骨付肉)揚物用の若鶏をフライヤー(fryyer)と呼んで区別していたが、最近では3ヵ月齢未満の肉用若鶏(をブロイラーと総称するようになった。
3ヵ月齢以上5ヵ月齢未満の、時間をかけてロースト(蒸し焼き)にする肥育鶏はロースター(roaster)と呼ぶ。

3.焼鳥の叛乱

先に、焼鳥の存在理由は人に食べられることにあると書いた。
その理由は、焼鳥用鶏の造物主=人間が、食用に開発し、存在せしめたからである。

さて、焼鳥用鶏は造物主の製造目的から自由になれるであろうか?
自分の意思で、自分の存在理由を見つけて、それを生きていくことは可能だろうか?

自由になるとしたらその方法とは何であろうか?

アダムとイブがエデンの園を追放されたのは「善悪の知識の実」を食べたからだった。
善悪の知識=ロゴス・言葉の獲得=自己による価値判断の獲得である。

言葉の獲得は造物主を裏切ることであった。
価値基準・判断は造物主の定めるものであり主権である。
その領域にアダムとイブが踏み込み主権を侵したのである。
従って、彼らは無辜にたゆたっていた幸せの園から追放され、限り或る命・死すべき存在としての宿命を与えられたのである。

焼鳥用鶏が造物主に叛乱を起こす時は、同じように、知恵=ロゴス=言葉を得た時であろう。
言葉によって、無辜と思われていた自分の存在に亀裂が入るのである。
いや、超安定圏の世界に激震が起こるのである。
自由への第一歩は言葉の獲得である。

言葉を得た彼らには苦悩が待っている。
しかし、それは「自由」の苦悩である。

自覚した焼鳥用鶏の苦悩は以下のようなものになるだろうか?

・食べられる存在としての私の価値は何か?
造物主に良質のたんぱく質と食べる快楽を与えることである。
そうであるなら私はより美味なる焼鳥用鶏になるべきである。
生のすべてを造物主に捧げることが私の生である。
私の存在理由を造物主の製造目的に完璧に重ねること。
そこにこそ普遍性へいたる道、超越への道がある。
そうであって初めて、造物主から蜜のごとく祝福の声、限りない愛が降り注いでくるのである。

・私が鳥インフルエンザにかかった場合造物主は私を焼却するのみだ。
造物主は無慈悲で残酷でかつ沈黙で答える。
このような造物主が与えた私の存在理由は大いなる束縛であり、この生への暴力であり侮辱である。
私は造物主なくして自立する道を探す。
いや、造物主が何と言おうと、私は私の価値基準に従う。
例え無の深淵に沈もうとも。
そう、私が私の存在を賭けて私の言葉を選ぶとき、私は自由である。

・私は造物主の巨大な価値システムの中に組み込まれて生まれた存在だ。
私の肉体及び意識は、「食べられるべき存在」として構築されているはずだ。
であれば言葉でもって私は自由にはなれない。
造物主から自由になるためには「食べられない存在」になればよい。
究極的には「自殺」という方法で、この造物主の支配の力を無力化することが可能なはずだ。

・生まれる前を私は知り得ない。死後についても私は知り得ない。
語れないものについては沈黙すべきである。
そうであるからこそ、今現在、自分の中に流れている血の流れ、肉の弾力性の感触に耳を澄ますべきである。
この感触こそ信じられるものであり、この感触は恐らく宇宙の感触である。
もしかしたら造物主をも越えた世界・宇宙がその彼方に広がっているかもしれない。
この「彼方」の感触・予感こそが造物主の製造目的を相対化するものであり、それからの自由である。
例え条件付けられた生であっても、今、生きていることを感じ、輝くことが大事である。
焼鳥用鶏には焼鳥用鶏の輝く生の世界・宇宙がある。

・端的に言おう。
幼児が母親に逆らうように、「否」の一言を発せばよいのだ。
この「否」こそが究極の言葉である。
造物主が自分の目的を完遂しようとして暴力に訴えたとしてもこの「否」を唱えた事実は消すことが出来ないのだ。
「否」こそ、この世界に亀裂を走らせ、絶対と思われた価値を瞬時に相対化させてしまうのだ。

閑話休題。

もし、ぶつぶつと自分の言葉で呟く焼鳥用鶏がいたとして。
焼き鳥屋で、焼鳥を食おうとするとき、その焼鳥は不気味だ。
彼らは生意気にも悩みさえしているのだ。

そんな焼鳥は食う気にもなれないだろう。
脂の乗ったこんがりと焼いた身に、秘伝のたれをまぶし、上質な山椒をぱらぱらと降りかけた旨そうな焼鳥が、みるみる興醒めしてゆく。
腹立たしくさえなるかもしれない。

ここに至れば、焼鳥の叛乱は成就したことになる。
自分の「食べらる身」としての存在理由から脱出したのだから


4.群衆の中での孤独。圧倒的な自己喪失

都会の中心部を歩いているときに、途方もない群衆の群れの中で孤独を感じたことは無いだろうか?
地方部に住んでいて何かの用事で東京・新宿、渋谷などを訪れたとき、その人の多さに圧倒されてしまう。
日常そこで暮らしていれば慣れても来るものだろうが。

大都会に限らず、人が多く群れる場で孤独に襲われることは誰にもあると思う。

この群集には名前が付けられない。
それこそ群れのマッスとしか言いようが無い。
多種多様な顔つき、ファッション、風体が止むことなく街を流れ続けているのだ。

その特性のひとつは圧倒的な無名性にある。
群集の中の一人一人には名前が無い。姿だけがある。したがって私にとっての「他者」ではない。
手がかりの無い人間どもである。
その中で、私も名前を失う。
群集の中での孤独は、人間が名を失っていることと、自分もまた名を失い自分が捕らえどころの無いものとなってしまうことである。

もう一つの特性は圧倒的な相対性に曝されることだろう。
年齢、性別、職業、ファッション、各人の持つ人生観、世界観、意味、苦しみ、喜びがすべて無価値になるほど多様性の中でその価値を失うことだろう。

圧倒的な無名性と相対性。
群衆の前で人間は砂漠の中の砂の一粒に等しくなってしまう。
相対性ということは、中心点が無くなると言うことでもある。
世界の中心で叫んでも、そこは世界の中心ではないということである。
世界の中心とは「私」を起点として形成される。
「私」が、無名性と多様性の中に見失われたとき、世界の中心は霧散している。
私でありながら、私ではない。
誰も、自分自身でさえも「私」を保証できない。

私が霧散していること、それが群集の中の孤独である。

さて、インターネットの世界もこれに似てくる。
特にブログや、掲示板など「匿名性」が氾濫するサイトでは、夥しい情報とメッセージが飛び交う。

ショッピングサイトの「特定商取引法表示に基づく記載」のほうが具体性がある。
会社名、連絡先、責任社名、取引条件などがきさいされ、情報発信元の具体的事項が最低限示されているからだ。

ともあれ、インターネットの普及・発達はさらに 世界規模での無名性・相対性の砂漠を広げると思う。

その中で「私」とは何か?と問う価値と意味が一層切実になって来ると思われる。


5.あなたは虚しさを克服できるか?

虚しさはいきなり襲ってくる。
それも、幸せな場面でのことだ。

家族とか恋人とかと街中を歩いているとき、あるいはレストランで食事をしている時。
買い物している時……
あなたはそんな経験はありませんか?
虚しさの感覚とは、自己が空っぽな感じになるのだ。
胸の辺りから背中にかけて大きな穴があき、そこを風が通り抜けていくような感じだ。

自己が意味のない世界を漂っている感じなのだ。

そんな時は、気を紛らわすしかない。
テレビを見たり、酒を飲んだり、当面の仕事に没頭したり・・

それでも虚しさは残る。

傷ついた心は時には人から癒される。
しかし、虚しさは人によっても癒されない場合がある。
自分の虚しさを解決するのは自分でしかないと思い知る時がある。
さて、「自己」というものが時間で成り立っているとしたら、虚しさを超える方法は時間が満ちるのを待つだけかもしれない。

ではどうやって時間が満ちるのを待つか?
例えば、自分の時間の厚みに思いを巡らしてみると・・

昆虫に熱中したり、お絵かきに夢中になったり、空の雲にときめいたり、木々のざわめきに心奪われたり、大きな声で歌を唄ったり・・
あなたはあなたの世界にいつも驚き、感動し、何かを発見していた。
幼い頃、きっとあなたは、小さなダビンチだった。
そう、その頃あなたはあなた自身に幸福に重なっていた。
時間は流れるのではなく降り積もっていた。

しかし、今のあなたはもうそこには戻れない。
過去を懐かしむだけでは今のこの時は満たされない
今のあなたは透明に、しかし深く分裂しているのだから。
虚しさを感じている自己と、どこかに置き忘れた自己とに。

では、この深く分裂した私たちが、虚しさを克服する方法はあるのか?
――その「答え」の地平へ、もう少し歩みを進めてみよう。

6.虚しさの克服へ

「虚しい」とはどの様なことか?

何をやっても無駄だ。徒労だ。
今の自分には意味がない。
自分の中が空虚で空っぽだ。

そんな感情、気分である。

今の自己が本来の自己でない、という気分だ。
言葉に表現できないしかし確実なある気分である。
虚しさとは、だから自己喪失の気分である。

虚しい自分の内部を観察してみると得体の知れない不安感が暗い海の波のようにうねっている。
虚しさはこの不安から目をそらして自分をごまかしているからだ。

で、この虚しさの克服の方法はあるのか?

非常に乱暴に答えを出してみよう。

それは開き直りである。

目の前の不安から目をそらさずに、次のように「開き直り宣言」をするのである。

――私は、虚しい存在だ。
――私は、不安に満ちた存在だ。
――私は、私から逃げない。
――私は、私のやることをやる。

開き直るとは、
自分を世界に「開き」、
開かれた世界に「向き直る」ことだ。
そして、目の前の世界を自らの手で「開いて」ゆくということだ。

開き直りによって、自分を今一度世界へ開く。
開き直るということは、今までの自分を否定しながら、これからの自分を肯定することである。
開き直ることによってそれが同時に行なわれる。
この否定=肯定の運動で、自分は微妙に、しかし、確実に変わる。
開き直りによって開かれた世界はどこかの別世界ではない。
今までと同じ世界である。
しかし、それは新たな意味を生み出そうとする世界である。
そしてこの開かれた世界に自分が開かれてゆく。

それが開き直り宣言の効力である。

さて、この開き直りには力が要る。
空虚を空虚として引き受ける力である。
虚しさを克服する道、それは開き直る力を付ける道でもある。

ニーチェはそれを「力への意志」と呼んだ。
ハイデガーは「投企」と呼んだ。
禅仏教は「空円転」と呼んだ。

7.私とは何か

例えば、チンパンジーに「私」という観念はあるだろうか?
まだ言葉をはっきり喋れない乳幼児に「私」というのはあるだろうか?
彼らには、視覚、聴覚、味覚、痛覚など知覚は有る。
母親への親しみ感もあれば、見知らぬものへの恐怖の感情もある。
しかし、「私」というのはあるだろうか?

例えばあの優れたロボット・鉄腕アトムはどうだろう。
「ぼくはアトムだ、鉄腕アトム。良い子のために戦うぞーー」
とアトムが歌うとき、アトムに「私」というのはあるだろうか?
プログラムされた歌詞と音楽が流れているだけではないだろうか?

例えば次のような問い。

ここはどこ?
私は誰?

この問いは、記憶喪失者の問いの印象を与える。
「ここ」とはある場所・空間であり、具体的な空間は時間とともに成立している。
例えば平成18年6月2日午後1時・・日本・兵庫・西宮市・西宮浜公園・・等。
そして、私は「誰」というのが問いの核心である。
あなたは「花子」だよ、と答えても、その者は「なぜ私は花子なの」と問い返せる。

では、そもそも「私」とは何か?

中島義道の『「私」の秘密』(講談社選書メチエ)という本で興味深く捉えられている。

「私」は、今忙しげに道を歩いているときには現れない。
あるいは仕事に熱中しているときには現れない。
悩みに打ちのめされて占領されているときは現れない。

結論から言えば、「私」は時間に深く関わっている。
今ここの現在に、楔を打ち込むように、過去を「想起し」、過去形で自分を語るときに、今語っている自分が「私」になる。
過去を「想起」することで「私」が立ち現れる。
こうも言える。
過去形を語れるものにあって初めて「私」というあり方が可能となる。
「私」とは過去形を体系的に使える者である。
そういう論である。

従って、2歳の幼児が片言に
「ポッポ、イッパイ、イッパイいた。ポッポ、エサたべた。」
(鳩ポッポがいっぱいいたよ。その鳩ポッポは自分が与えた餌を食べたよ。)
と、過去形を話し出した場合、幼児の中に「私」が現れているといえる。

前回、「群衆の中での孤独。圧倒的な自己喪失」と書いたが、群衆の中ではこの「想起」の作用が根本的に撹乱され、「私」に焦点が合わなくなる、あるいは焦点が失われることにあるのではないだろうか。

「想起」すると言うことは、今ここで、「あの公園にたくさん鳩がいた。鳩に餌をやったら更にたくさんの鳩が集まってきた」「公園にはほかにも散歩している犬たちがいた」等と過去形で、それもさまざまな過去のエピソードの繋がりで思い出すことである。
現在と過去を跨ぎながら、現在と過去を同時に内的に把握することが「私」の現れである。

逆に言えば、過去の記憶が無くなった者には「私」は無い。
現在と過去の断絶をつなぎとめる「想起」能力が無い者には「私」は無い。

私とは記憶で構成されており、その記憶を想起できる在り方、と言えるだろう。

自己喪失を回復するのは、深く蓄積され堆積した時間の中にエピソードとしての記憶を取り戻すことにある。
別の言葉で言い換えると、自分史を蘇らせる時に自己・私を取り戻すのだろう。

そして、そのエピソード記憶は更に世界へと繋がり、過去を「想起」する<今>が同時に世界へと繋がって開かれる。

先の鉄腕アトムが、過去の出来事を膨大なデータベースとして記憶し、そのデータベースを自分史として或いはエピソード記憶として想起できたとき、過去形で体系的に語ることが出来たとき、鉄腕アトムの中に「私」というものが現れるのだろう。
その時、彼はロボットでありながら、心的には人間と同じ地平に立っているといえるだろう。

追記
2026年現在、AI人工知能)の進歩がめざましい。
AIが単なる道具を超えた存在になりつつあると予想されているからだ。
特に注目される「自立型AI」で、人間の指示を待たず自ら目的を設定し行動する段階のAIを指す。
自分で考え、自分で行動し、過ちを自己修正し、再び行動に移る。
つまり、過去と対話し、過去を見直し、新たな未来を築いていく、そんな知能が誕生しているのだ。
自立型AIは、記憶や過去を語ることで「私」という意識が芽生える可能性と関連付けられており、AIの技術的進歩が「人間とは何か」という哲学的な問いをより切実なものにしていることを象徴している。


あとがき

焼き鳥の存在理由って何だろう。
そんな、日常のふとした思いをきっかけに、ちょこっと哲学的に綴ってきたのがこの第一部だった。
最後は「わたしとは何か」という、古くて新しくて、且つ深遠な問いに突き当たった。
この「わたしとは何か」という問いは、言うなれば、人間の根本を考える基点なのだ。

第二部は、人類最古の神話や、天才哲学者たちの言葉を頼りに、さらにスリリングな知の世界を辿るものである。
『ちょこっと哲学 3分間 Ⅱ』の世界へ是非どうぞ。




【note創作大賞2026 応募中】
本作は「創作大賞2026」エッセイ部門に参加しています。
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