せきがはら史跡ガイドと行く「関ヶ原史跡めぐり」~ナビゲートは戦国武将・田中吉政
2025年12月、かねてより念願だった関ヶ原合戦の古戦場を訪れました。JR関ヶ原駅から徒歩約10分の「岐阜関ケ原古戦場記念館」を目指します。記念館ではグラウンド・ビジョンや巨大シアター・ショーを満喫し、展望室から古戦場を一望しました。

記念館の催しで、関ヶ原合戦にいたるまでの東西両軍の経緯や合戦の流れ、両軍の武将たちの布陣や動きについて学んだ後、いよいよ、せきがはら史跡ガイドと行く「関ヶ原史跡めぐり」に参加しました。

今回のガイドツアーは、主に石田三成を中心とした西軍の史跡を徒歩約2時間(約3キロ)かけてめぐるものです。初めて関ヶ原を訪れた方、関ヶ原合戦についてあまり知識のない方などは、こちらのツアーに参加することをおすすめします。
観光案内ガイドの丁寧な説明に耳を傾けながら、自分の足で実際に史跡をめぐってみると、まるで合戦当時にタイムスリップしたかのように、合戦の様子をよりリアルに感じることができました。
ここでは、せきがはら史跡ガイドと行く「関ヶ原史跡めぐり」のコース案内と各史跡についての解説、主に西軍武将たちのエピソードなどについてまとめました。ナビゲートは、特別出演として、徳川家康側近の東軍の武将、田中吉政殿(1548~1609)にお願いすることにします。

なお、せきがはら史跡ガイドは、関ヶ原町の史跡講座を2年間受講したメンバーで構成されています。関ヶ原を熟知したガイドたちの説明は大変勉強になり、素晴らしいツアー体験になること請け合いです!
田中吉政の自己紹介とコース案内
ここからは、先ほどご紹介にあずかった田中吉政がお引き受けしやんす。わしは生まれが近江国やさかい、方言が聞き取りにくかったら堪忍してや。
関ヶ原合戦の当時は、わしは52歳やったんやわ。たしか家康様は57歳におなりやったなぁ。わしは殿からの信頼が厚いもんやさかい、戦場では殿のお近くに仕えながら、最前線で西軍と戦ったんやわ。

今回の「関ヶ原史跡めぐり」のコースは、合戦の主戦場を案内するもんやわ。わしの陣からは、最前線で戦う武将らの動きが手に取るように見えておったんやで。スタートとゴールは、皆が今おる記念館やわ。ここから次のようなコースで案内しやんす。

【コース案内】
(スタート)岐阜関ヶ原古戦場記念館
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徳川家康最後陣跡
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関ヶ原決戦地
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笹尾山・石田三成陣跡 標高198m・階段143段(所要時間約5分)
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島津義弘陣跡
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開戦地・小西行長陣跡
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田中吉政陣跡
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(ゴール) 岐阜関ヶ原古戦場記念館
田中吉政による各史跡のよもやま話
岐阜関ヶ原古戦場記念館
慶長5年(1600)9月15日、天下分け目の戦いとして名高い『関ヶ原の戦い』が、ここ岐阜県関ヶ原町で繰り広げられたんやわ。それは戦国最大の戦やったんやで。岐阜関ヶ原古戦場記念館は、そんな歴史の大一番を体感できる体験型施設なんやわ。
関ヶ原の戦いは、家康様を中心とする東軍と、石田三成殿を中心とする西軍の合わせて15万人超の大軍がここ関ヶ原で激突したんやわ。その結果、石田方が敗れて、時代は豊臣の世から徳川の世へと移っていったんやで。

この記念館は、実際の戦いがどないに展開したんかを床面スクリーンで俯瞰するグラウンド・ビジョン、両軍の武将の目線で戦いを体験できる大迫力の巨大シアター・ショー、古戦場を一望できる展望室などを備えておるんやわ。わしの自慢の施設なんやで。
徳川家康最後陣跡
さて、岐阜関ヶ原古戦場記念館の西隣にあるんが、東軍の大将・家康様の最後の陣跡やわ。JR関ヶ原駅からも程近うて、今は「陣場野公園」と呼ばれる緑豊かな場所になっておるんやで。綺麗に整備されて、当時とは様変わりしたもんやなぁ。

家康様は合戦当日の午前11時頃、戦況がよう分からんさかい、最初におった桃配(ももくばり)山から笹尾山の三成殿の陣の正面にあるこの陣地まで本陣を移さはったんやわ。三成本陣の笹尾山からはすぐ近く(直線距離で約800m)や。家康様はほんまに肝の座ったお方やわ。
後世の話では、家康様がここから松尾山の小早川秀秋殿に向けての発砲を命じ、東軍への寝返りへと仕向けはって、関ヶ原合戦を勝利へと導いた(問鉄砲)といわれとるそうやけど、わしの記憶では威嚇射撃みたいな音は一切聞いておらんのやわ。不思議な話やなぁ……。
ところで、合戦の後は、この場(床几場)で討ち取ってきた敵の首実検が行われたんやわ。わしらの働きを殿に報告する大事な機会やさかいな。今は、土壇(囲い)の真ん中に「床几場 徳川家康進旗験馘處」って刻まれた標柱が建っておるんやで。

ちなみに、家康様が掲げた旗印「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」の意味を知ってはるか? 「苦しみに満ちた穢れた戦国の世(穢土)を嫌って離れ、天下泰平の極楽浄土(浄土)を求めよう」いう仏教の教えなんやわ。この旗印のもとで、わしらは平和な世を目指して必死に戦ったもんやなぁ。
関ヶ原決戦地

笹尾山・石田三成陣跡
決戦地の北西にある小さい山が笹尾山(標高198m、階段143段)やわ。敵の攻撃を防ぐための竹矢来や馬防柵が、当時のまま復元されておるんやで。さすが、島左近殿の差配によるもんやなぁ。敵ながらあっぱれな構えやわ!

関ヶ原は当時から交通の要所になってて、南西に走る「北国街道」が軍事の上で大事な拠点になっておったんやわ。そやから、三成殿は左近殿と一緒にここ笹尾山に陣を張らはったんやと思うわ。この笹尾山の頂上からは関ヶ原が全部よう見渡せるさかい、絶好の場所やなぁ。

合戦の時、「三成に過ぎたるもの」と言われた左近殿を竹矢来の前に置かはったんや。笹尾山のふもとに陣を敷いた左近殿の隊は、もう舌を巻くほど善戦しやんしたわ。けどな、だんだん押し込まれてしもて、小早川殿が東軍に寝返りはったんをきっかけに、西軍は次々と逃げていって、三成殿も伊吹山の方へ逃げはったんやわ。
小早川殿の裏切りで形勢が悪なると、左近殿は三成殿を守るために敵の中に突撃して、鉄砲の弾を浴びて壮絶な最期を遂げはったそうやわ。返すがえすも、惜しい武将やったなぁ……。

ところで、三成殿は「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」の旗印を掲げて戦ってはったけど、これは、「一人が万人のために、万人が一人のために尽くせば、天下は幸福(大吉)になる」いう意味なんやわ。豊臣家に忠義を尽くした三成殿らしい旗印やなぁ。

島津義弘陣跡
笹尾山・石田三成陣跡から南に800mくらい下った辺りが「島津義弘陣跡」やわ。今は神明神社の森が広がってて、この神社の裏手に「島津義弘陣所跡碑」が建っておるんやで。

ここは合戦の時、西軍の陣地のちょうど真ん中あたりに位置しておったんやわ。島津隊はたった900人くらいの少ない人数やったけど、陣の中では壕も掘らんと、柵も作らんと、鉄砲隊が鉄砲を上手いこと使って戦うてはったそうやで。さすが「鬼島津」と言われるだけのことはあるなぁ。わしとて、おいそれと手出しはできん相手やったわ。

その後、西軍のあちこちの部隊が負けて逃げていく中で、「島津の退き口」と言われる敵中突破の戦場離脱をやってのけはったんやわ。家康様の鼻の先をかすめての撤退劇やったなぁ。敵ながら大したもんやわ。合戦の後、勇猛果敢で知られる井伊直正殿も褒めてはったで。

なんで島津勢がわずかな兵力で敵中突破できはったんか? それは島津の戦い方にあったとわしは見ておるんやわ。それがあの有名な「捨て奸(すてがまり)」の戦法やな。
捨て奸いうのは、退却する途中で小部隊を残しておいて、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めして、本隊を逃がす壮絶な戦法なんやわ。
東軍の激しい追撃を食い止めるさかい、島津隊の島津豊久殿や長寿院盛淳殿らは、えげつない捨て奸で応戦して、最期を遂げはった。敵とはいえ、ほんまに武士(もののふ)の鏡となる働きやったなぁ。
開戦地・小西行長陣跡
北天満山の裾野を流れる梨木川(なしきがわ)の右岸にある、今の西田公園のあたりが「小西行長陣跡」なんやわ。今では見渡す限り、のどかな田園風景が広がっておるけど、ここが関ヶ原合戦の開戦地になった場所なんやで。

キリシタン大名として知られた小西殿は、約6,000人の兵を率いて西軍に味方しはって、北国街道と東山道(中山道)の間にある北天満山のふもとに陣を敷かはったんやわ。そんで、合戦が始まると同時に烽火(のろし)を上げて、味方に合戦の合図を送らはったんやで。

小西殿はよう耐えて戦わはったけど、西軍のあちこちの部隊が総崩れになった後は、揖斐川町のほうへ逃げはったんやわ。しばらくは行方が分からんかったんやけど、自分で自首して、家康様のもとへ送られはったんやで。
小西殿は三成殿らと一緒に京都の六条河原で処刑されはったけど、キリシタンとして見事な最期やったわ。実をいうと、わしも小西殿と同じ熱心なキリシタン大名やねんわ。
田中吉政陣跡
さて、「関ヶ原史跡めぐり」の最後はわしの陣跡の紹介やわ。わしが陣を張った場所は、家康様の最後陣跡のすぐ隣なんやで。

わしの隊はここから石田隊に向かって兵を進めて、笹尾山のふもとから打って出はった左近殿の先手の兵と戦ったんやわ。左近殿の隊は、ほんまに手ごわかったなぁ。あと、石田隊の右翼におった蒲生郷舎(がもうさといえ)殿とも戦ったもんやわ。まさに混戦状態やったんやで。
わしは東軍として戦ったんやけど、実は三成殿とは昔から親交があってな。なんの因果か、合戦のあとに逃げはった三成殿を捕まえたんも、皮肉なことにこのわしやったんやわ。三成殿は、もういっぺん立て直そうとして戦場を離れはったけど、運が尽きて伊吹山でわしに捕まりはったんやで。
わしは昔のよしみを大事にして、捕まえた三成殿を真心込めてもてなしたんやわ。勝敗は時の運やさかいな。たとえ敵の大将でも、戦が終わった以上は、古い友達として精一杯の対応をしたかったんやわ。三成殿も「自分を捕まえたんが吉政でよかった」と言ってくれはってなぁ……(大泣き)。
わしは、関ヶ原合戦の功績で、家康様から筑後32万5000石をいただいて、初代の筑後国主になったんやわ。筑後に入ってからは、柳川城を本城にして守りを固めて、有明海の埋め立てや柳川の掘割(水路)を整えて、国を豊かにしようと精一杯励んだもんやわ。

関ヶ原駅前観光交流館
せっかくのご縁やさかい、おまけの話もしてしやんすわ。関ヶ原町の観光情報を発信しとる拠点として、JR関ヶ原駅のすぐ前に「関ヶ原駅前観光交流館」いう施設があるんやわ。愛称は「いざ!関ヶ原」やで。
ここは観光案内だけやのうて、おみやげショップやレンタサイクルなんかもあってな、古戦場めぐりの拠点としてぜひとも活用してほしいんやわ。

さて、わしの案内はどないやったかな? 少しは関ヶ原合戦のこと、分かってもらえたやろか? この合戦は日本の歴史を左右した大決戦なんやわ。わしとしては、一人でも多くの人にここへ来てもうて、この戦いや武将らのことを知ってもらえたら嬉しいんやけどなぁ〜〜(破顔一笑)
せきがはら史跡ガイドについて
【ガイドの開催時間】
平日:10:30~12:30
土日祝日:10:30~12:30、13:30~15:30
【参加料】
1人500円(保護者同伴の場合、中学生以下は無料)
【定員】
各回:10名
【集合場所】
岐阜関ヶ原古戦場記念館1階 広域観光情報コーナーのカウンター前
【注意事項】
申し込みは予約の方優先ですが、空きがあれば当日も受付を行います。
【問い合わせ】
せきがはら史跡ガイド事務局
電話での問い合わせ:0584-43-1139 携帯電話:080-7365-4612
メールでの問い合わせ:guide@sekigahara1600.com
