「御屋敷台」場所が判明(川崎市麻生区・新百合ヶ丘の郷土史)
現在の小田急線「新百合ヶ丘」駅の近くに、「御屋敷台」と呼ばれた、江戸時代の上麻生村領主の広大な屋敷があった。
その場所が、1974年の新百合ヶ丘駅開設にともなう開発で、わからなくなった。
ーーと、少し前に書きました。
御屋敷台については、郷土史家の高橋嘉彦氏が、以下のように書いています。
(弘法松から続く)この大坂を下りて行くと、上麻生村の領主三井万三郎の屋敷がありました。
上麻生村は、小田原北条時代には小島佐渡守高治が治めていましたが、江戸時代になると三井佐右衛門の所領となりました。あじさい寺で知られる浄慶寺と秋葉神社は、三井佐右衛門の創建といわれています。万三郎はその子孫で、幕末のころに上麻生村の領主でした。石高は六七一石で、ほかに遠州(静岡県)にも五〇〇石の領地がありました。
屋敷の敷地は約一五〇〇坪あり、御屋敷台と呼ばれていました。大坂も三井家の屋敷跡も開発で消滅してしまいましたが、御屋敷台の場所は山口隧道の近くであったと伝えられています。米田胃腸科前からトンネルに向かう道の右側にマンションと室内装飾店がありますが、恐らくその辺りではないでしょうか。
(高橋嘉彦『わがまち麻生の歴史 三十三話』p219)
この高橋氏の記述にある「マンションと室内装飾店」も、現在わからなくなっているから、場所のヒントがない、と以前書きました。
その御屋敷台の場所を記した地図を、図書館で発見しました。
1988年に作成された以下の地図です。ちょうど見開きの中央、ノドでキレているあたりに「御屋敷台」の場所が記されています。

下が現在の地図。上の地図と照らし合わせると、オレンジの丸で示したあたりが、御屋敷台跡と思われます。

ここは上麻生2丁目で、上麻生北第3公園と第4公園が向かい合ってあるあたりです。

小さな公園が二つ向かい合って存在するのも変ですが、第3公園の方が高台で、たぶんこのへんが御屋敷台だったのでは。
*
それにしても、この麻生区老人クラブ連合会が作成した「歩け歩こう麻生の里」という小冊子、とてもためになります。
昨日のnote記事「消えた地名「竹の花」と「夜鷹の森」」でも使わせてもらいました。
この小冊子が作られた1988年(昭和63年)といえば、新百合ヶ丘駅と小田急多摩線が1974年に開設してから、14年後。
この頃の麻生区の老人は、まだ小田急が開発する前の麻生区(旧柿生村)を知っていました。
それから37年たち、もうこの小冊子を作った老人たちは、生きていないか、生きていても100歳前後でしょう。
よくぞこの小冊子を残してくれた、と感謝せずにいられません。
こういう小冊子は、刊行物ではないので、国会図書館等も所蔵せず、地元図書館に寄贈された現物が1、2冊存在するだけです。
小冊子なので、作りもボロい。
それが失われたら終わりなので、麻生区は早急にデジタル化しておくべきと思います。
<参考>
