「旧津久井道」を保存せよ 消えた柿生の「御屋敷台」
4月新年度ということで、川崎市麻生区のガイドマップが新しくなったそうです。
麻生区ガイドマップが新しくなりました
区全域の地図や区内の避難所、公共施設、区の魅力などの情報を掲載した「麻生区ガイドマップ2025」を発行しました 区役所(総合案内、地域振興課)や麻生市民館等で配布しています 今回の表紙は区民の皆さんが描いた推し絵画です
(川崎市麻生区役所 2025/4/1 12:11)
麻生区ガイドマップが新しくなりました✨
— 川崎市 麻生区役所 (@kawasaki_asaoku) April 1, 2025
区全域の地図や区内の避難所、公共施設、区の魅力などの情報を掲載した「麻生区ガイドマップ2025」を発行しました
区役所(総合案内、地域振興課)や麻生市民館等で配布しています
今回の表紙は区民の皆さんが描いた推し絵画です❗https://t.co/D16gwqMLSw pic.twitter.com/ZVhekNHw9i
そのガイドマップを見て、私は二つの感想を持ちました。
1)麻生区は、せっかく2023年に「日本で最も平均寿命が長い市区町村」になったのに、それを観光資源に使う気がない。2000近くある市区町村のナンバー1であり、「男女共」であるのは非常に珍しいのに、なぜそれを使わないのか。資産価値も高めるのに、もったいない話である。
2)相変わらず「新百合ヶ丘」「小田急線」中心で、「柿生」に代表される、この地域の江戸以前の歴史への言及が少ない。
1)については、これまでも書いてきたので、ここでは2)について。
柿生住民のひがみかもしれないが、麻生区は相変わらず「新百合ヶ丘」中心すぎる。
「新百合ヶ丘」「百合ヶ丘」なんて、戦後にこの世に出現した「ぽっと出」の街で、歴史がない。
だから、「芸術・文化の街」なんて無理なコンセプトを作っている。
新しい街を盛り上げたいという気持ちはわかりますが、「新百合ヶ丘」と小田急多摩線ができて、もう50年です(1974年開設だから昨年が50周年だった)。
その50年の間に、より古く歴史がある「柿生」がさびれていき、同時に、柿生を中心とした歴史遺産が失われつつある。そろそろ、そちらにも目を向けてほしい。
「新百合ヶ丘」には、小田急線が通るまでの歴史がない。しかし「柿生」には、小田急線以前からの歴史がある。
私がここで取り上げたいのは、「旧津久井道」の保存問題です。
「旧津久井道」とは
津久井道(つくいみち)とは何か。
google先生に聞いたら、次のように答えてくれました。
津久井道は、神奈川県西部の津久井・愛甲地方から江戸(現在の東京)へ絹を運ぶために栄えた商業の道で、現在では世田谷町田線の一部として残っています。
津久井道の概要:
ルート:
登戸(現川崎市多摩区)から西へ、生田、柿生、鶴川を経て、鶴見川の上流に沿って橋本(現相模原市)から津久井地方に至る道。
江戸時代の役割:
津久井・愛甲地方の絹を江戸に運ぶルートとして、江戸時代末期に栄えた商業路でした。
現在の状況:
幹線道路としての機能は、県道3号・世田谷町田線(せたがやまちだせん)に受け継がれています。
多摩川以西の呼称:
多摩川から西の地域では「江戸道」とも呼ばれていました.
津久井道沿いの地域:
登戸、高石、上麻生(現川崎市麻生区)、鶴川(現東京都町田市)、淵野辺、橋本(現相模原市).
津久井道の歴史:
幕末天明の頃から養蚕が盛んになり、地元に問屋が増え、生糸や絹織物を八王子に出荷していたが、八王子を通らず直接に江戸へ出荷する方が有利であるため、江戸への絹の道として脚光を浴びるようになったのが津久井道である.
津久井道の拡幅:
川崎3・4・4号世田谷町田線(津久井道)麻生警察署前~小田急多摩線間の一部区間で拡幅工事が行われています.
津久井道の歴史的背景:
津久井道は、川崎市を通る六街道の一つで、古くから利用されている.
(googleのAIによる)

上の説明にあるとおり、現在「津久井道」といえば、拡張工事中の「県道3号・世田谷町田線」(世田谷通り)のことを指すと思います。


江戸以前の津久井道「旧道」は、おおむね現在の世田谷町田線に沿っているとはいえ、とくに現在の新百合ヶ丘駅付近では、大きく異なっています。
以下の地図は、そのことを物語っています。かつて津久井道は、「万福寺コース」と「弘法松コース」に分かれ、「弘法松コース」では、現在の柿生の王禅寺方向に、大きく湾曲していました。

https://www.shinyuriyamate.com/furusato_ayumi/12ayumi/12ayumi_02.html
この「弘法松」コースのほうの史跡が、現在、わかりにくくなっています。
それは、新百合ヶ丘周辺の発展と、まさにパラレルだと思います。
弘法松のことは、麻生区のたいがいのガイドブックに載っています。弘法大師が植樹した云々という、よくある弘法伝説で、おそらく後から付け加わった話でしょう。
なぜ松の大木が重要だったのか。それは、登戸の「榎戸」同様に、街道筋にあり、旅人の目印になったからでした。(同時に、都筑郡と橘樹郡の境界であり、用水の境界でもあった)
旧津久井道の説明がないと、弘法松の意味もわかりません。「点」(弘法松)の意味は、それを結ぶ「線」(旧津久井道)から説明されるべきですが、その肝心の部分がないのです。
「登戸」周辺の歴史保存
私が「旧津久井道」保存の必要に改めて思い至ったのは、数日前に以下のYouTube動画を見たからでした。
【南武線登戸駅】から消えてしまった江戸の道、旧津久井道へ!(いつも夏休み 2025/3/30)
現在、ご承知のとおり登戸駅周辺は大開発中で、その区画整理のため、急速に旧津久井道が破壊されつつあります。
上の動画は、その消えつつある旧津久井道を、登戸から、生田の枡形城跡までたどる試みで、とても勉強になりました。
もう少し経てば、完全にわからなくなるかもしれない道筋が記録されています。
そして同時に、この動画を見る限り、多摩区側も一定程度、歴史保存に努めており、旧津久井道の要所に史跡看板を立てて、かつての記憶をとどめようとしているようです。


多摩区では、「津久井道デザインマンホール」なんて企画もやっていました。
街の発展のための区画整理で、史跡が消えていくことは仕方ありません。
しかし、重要なものについては、人びとの記憶があるうちに看板などを立てておかないと、覚えている人がこの世からいなくなると同時に、街の記憶が失われてしまいます。
行方不明になった麻生区の「御屋敷台」
現在、登戸開発に関して多摩区がおこなっている程度の歴史保存も、麻生区はおこなっていないように見えます。
「柿生」については、「柿生」つー名前だから、「カキ」「カキ」言ってりゃいいんだろ、的態度です。
旧津久井道で、登戸に次ぐ宿場町・繁華街であった柿生の「竹の花」(現在のマルエツ柿生店あたり)の記録など、ほとんど残されていません。
このまま柿生駅前が区画整理されていけば、当時の痕跡はさらに失われていくことでしょう。
その象徴として、ここでは旧津久井道の弘法松コースにあった「御屋敷台」跡を取り上げたいと思います。
御屋敷台とは、かつて上麻生村の領主・三井万三郎の屋敷があった場所です。約1500坪の広大な敷地でした。
それは、現在の弘法松公園から「大坂」をくだり、現在の山口隧道にいたる旧津久井道のどこかにありました。
私は過日、高橋嘉彦著『わがまち麻生の歴史 三十三話』(1992、日本機関誌印刷所)にしたがって、この「御屋敷台」がどこにあったのか、探しに出かけました。
弘法松公園から「大坂」にくだるあたりについては、この本は以下のとおり書いています。
現在百合丘第一公園(弘法の松公園)西側の台地にはこの松の根の一部が残っていて「弘法の松跡」の立て札が立っています。近くにある松は昭和三十七年(一九六二年)に、大きく育ってほしいと言う願いをこめて植えられた二代目弘法の松です。
峠から坂道を西の方に下りはじめたところに茶店があり、そば、もち、だんご、酒などを売っていました。
ここは「お茶屋あと」とよばれています。公園から南百合丘小学校の方角を見ると三つの送電塔がそびえていますが、弘法の松に一番近い送電塔の辺りがその場所だったといわれています。
茶店から山口谷戸にかけて、大坂という坂がありました。
(『わがまち麻生の歴史 三十三話』p218)
上の記述にある「三つの送電塔」は、すぐにわかりました。



問題は、この「大坂」の茶店から、「御屋敷台」にいたる道筋です。
上の高橋氏の本では、以下のように書いています。
茶店から山口谷戸にかけて、大坂という坂がありました。茶店から山口谷戸に行く場合は下り坂ですが、弘法の松方面に向かう旅人には、きびしい登り坂でした。この大坂を下りて行くと、上麻生村の領主三井万三郎の屋敷がありました。
上麻生村は、小田原北条時代には小島佐渡守高治が治めていましたが、江戸時代になると三井佐右衛門の所領となりました。あじさい寺で知られる浄慶寺と秋葉神社は、三井佐右衛門の創建といわれています。万三郎はその子孫で、幕末のころに上麻生村の領主でした。石高は六七一石で、ほかに遠州(静岡県)にも五〇〇石の領地がありました。
屋敷の敷地は約一五〇〇坪あり、御屋敷台と呼ばれていました。大坂も三井家の屋敷跡も開発で消滅してしまいましたが、御屋敷台の場所は山口隧道の近くであったと伝えられています。米田胃腸科前からトンネルに向かう道の右側にマンションと室内装飾店がありますが、恐らくその辺りではないでしょうか。
(同p219)
この記述にある「米田胃腸科」と「山口隧道」は、今もあります。


でも、肝心の、
「米田胃腸科前からトンネルに向かう道の右側にマンションと室内装飾店がありますが、恐らくその辺り」
の中の、「マンションと室内装飾店」がわかりません。

この本が書かれたのは1992年で、もう30年以上たっています。
その間にも、新百合ヶ丘駅周辺は大きく変わっていきました。当時の「マンションと室内装飾店」が見当たらなくなっているのです。
これは、「恐らくこの辺り」といった見当すら、30年もすればわからなくなることを示していると思います。
こういう場合に、「御屋敷台跡」の史跡看板を立てていてくれたら、と思わずにいられません。

複数自治体の協力で「旧津久井道」保存を
神奈川の「絹の道」であった旧津久井道は、現在の行政区では、
東京都世田谷区ー神奈川県川崎市多摩区ー川崎市麻生区ー東京都町田市ー神奈川県相模原市
と、複数の都県・市・区をまたがることになります。
それゆえ、その史跡の「保存」については、複雑な手続きが必要であろうと思います。
でも、できれば、その全道程が、一貫したやり方で保存され(要所に同じ様式の案内板を立てるなど)、市民に案内されるのがよい。
新たな観光資源として、着目されないだろうか。
柳田國男も注目した「五反田節」(登戸の宿場で歌われた「勧酒歌」)のように、旧津久井道から生まれた民俗文化を収集すればどうでしょう。鉄道や車が生まれる前の、神奈川と東京(江戸)、相模と武蔵の距離感や一体感なども追体験できるでしょう。
神奈川県の歴史学会とか民俗学会とか、あるいは郷土史学会(そんなものがあるとして)とか、どこかが音頭をとって、「旧津久井道保存」の運動を起こしてくれないだろうか。
登戸の大開発と、世田谷町田線の拡張工事が完了する、この1〜2年内に始めないと、取り返しがつかなくなる気がするのですが・・
<資料編>
noteにあった、旧津久井道についての大変詳しいガイド
他のネット資料
上麻生村領主の三井佐右衛門吉正について
上麻生村の領主三井佐右衛門吉正は元武田家の家臣で屋敷がなく、麻生の郷士小島隼人(佐渡守の孫)屋敷に13年間寄寓していたと云われ、書留帳によると上麻生には800石(検地は500石)、遠州に700石の知行地を持ち、領地召し上げがあったが、元の知行1500石の旗本と記しており、その間、上麻生領民は村内山口台に御屋敷を建てて差し上げ、駿河台に旗本屋敷を拝領した折は村民挙げてお送りし、以降、御屋敷で人夫等必要の折は、如何様なりともお申し付けに応じます、と約したと記しており、私的な書き留めながら凡その当時の農民と領主との関わりが伺い知れます。
(柿生文化を読む第108回 シリーズ「麻生の歴史を探る」徳川入府(4)〜領主と農民 後編 小島一也)
<参考>
