トランプVS人権 「人権体制」は崩壊するのか
トランプが最初に大統領になった2016年にも、
「トランプなど右派の躍進で世界の人権体制が危ない」
と、世界中の人権団体が警鐘を鳴らしていました。
人権体制(human rights regime 人権レジーム)とは、「人権」概念を中心にした、国連や国際法を含む、現代の複雑な機構のことです。
人権体制とは、すべての個人に固有の基本的権利と自由を促進し、保護するために設計された国際的な規範、規則、条約、制度、手続きからなるシステムであり、政府は自国の国境内であっても、国民の扱いについて責任を負うことになります。これは、尊厳、普遍性、不可侵性といった原則に基づく複雑な枠組みであり、世界人権宣言などの国連の取り組み、地域機関、そして国家がこれらの権利を尊重し、保護し、履行するための継続的な法的義務を通じて確立されています。
(GoogleのAI)
しかし、トランプはどうも、この人権体制が気に食わない。
そのトランプが選挙で再選された。
そして実際、トランプは、「人権体制」を象徴する国連の人権理事会等に当初から不満を表明し、ついに今年に入って、国連人権理事会を含む66の国際組織からの脱退を指示する大統領令を出しました。
まさに「人権」が危機に瀕しているわけですが、いっぽうには、これを歓迎する声があります。
これまでの「人権体制」は、中国・ロシアなどの人権侵害国に甘い、むしろ権威主義国を守っているという批判があり、トランプはまさに、それを是正しようとしているように見えるからです。
今回のアメリカのベネズエラ侵攻、そしてイランでの反体制デモなどは、「人権派」の欺瞞性を浮き上がらせ、「従来の人権体制はインチキだ」というトランプの主張を、強めているように見えます。
人権を支持すると主張しながら、イランで自由のために闘う人々と連帯できないなら、あなたは自分の本性を露呈している。敵の敵によって人々が抑圧され、残虐な扱いを受けている限り、あなたは全く気にしないのだ。
(J・K・ローリング 2026/1/11 12:17)
If you claim to support human rights yet can’t bring yourself to show solidarity with those fighting for their liberty in Iran, you’ve revealed yourself. You don’t give a damn about people being oppressed and brutalised so long as it’s being done by the enemies of your enemies.
If you claim to support human rights yet can’t bring yourself to show solidarity with those fighting for their liberty in Iran, you’ve revealed yourself. You don’t give a damn about people being oppressed and brutalised so long as it’s being done by the enemies of your enemies. pic.twitter.com/eK3jjh3pD6
— J.K. Rowling (@jk_rowling) January 11, 2026
独裁者への民衆の怒りは凄まじい。ベネズエラの崩壊は、イランの民衆の「勇気」となった。2026年を“独裁終焉の年”とするなら、まだ始まったばかりだ。習近平も、金正恩も、プーチンも、独裁崩壊ドミノに「いつ」加わるのか。臨界点に達した民衆の怒りと“自由と民主”を求める声に耳を澄ませ
(門田隆将 2026/1/11 2:57)
独裁者への民衆の怒りは凄まじい。ベネズエラの崩壊は、イランの民衆の「勇気」となった。2026年を“独裁終焉の年”とするなら、まだ始まったばかりだ。習近平も、金正恩も、プーチンも、独裁崩壊ドミノに「いつ」加わるのか。臨界点に達した民衆の怒りと“自由と民主”を求める声に耳を澄ませ https://t.co/GfTRYsMVPn
— 門田隆将 (@KadotaRyusho) January 10, 2026
オールドメディアも「人権派」も沈黙する中、イランにおける民間人に対する政府による武力弾圧に対して、我らが高市早苗首相が深い懸念を表明してくれた。 誰が真に政治的自由の擁護者がはっきりしたようだ。
(石崎学 2026/1/11 11:35)
オールドメディアも「人権派」も沈黙する中、イランにおける民間人に対する政府による武力弾圧に対して、我らが高市早苗首相が深い懸念を表明してくれた。
— 石埼学(新アカウント) (@ishizakinyaoon) January 11, 2026
誰が真に政治的自由の擁護者がはっきりしたようだ。 https://t.co/ojtoofDVjh
人権体制ーリベラリズムー国連ー法の支配ー国際法ーオールドメディアーアカデミズム
これらはつながっており、その総体が現代の「人権レジーム」だと言えるでしょう。
「トランプVS人権」の趨勢によって、それら総体が崩壊するかもしれません。
だから、世界の「人権派」は、トランプのおかげで独裁国での人権侵害がなくならないよう祈っている? そんなことはないと思いますが。
いずれにせよ、正月の朝日新聞の紙面に、日本のリベラリズム論の権威、井上達夫・東大名誉教授が登場し、改めて「法の支配」を説いていたのも、こういう背景があるからです。
井上教授が言うように、人権体制はまだ弱いけど、この道しかないから、これを強めていくしかない、というのが正しいのか。
あるいはトランプが言うように、そんなのは左翼のタワゴトで、そんな正義はいつまでたっても実現しない、というのが正しいのか。
「人権」という錦の御旗で、「人権ビジネス」や「エセ同和」など、社会に悪さをする人々も、ウザがられています。
真面目な「人権派」からすれば、それは迷惑な話でしょう。
かつて「神」をめぐっても、同じように、「神」の権威を借りて悪さをする者たちがいました。
しかし、それは、単にそれが「悪用」されただけの話なのか。
それとも、もともと「神」なり「人権」なりの概念が不完全なのか。
それらについて、私も正月に、ぼーっと考えていました。
もともと、子供の頃から、「人権」というのはアヤしい、とにらんでいたからです。
法律とか哲学とかふくめ、なんの専門家でもない素人の意見ですが、せっかく考えたので。
俺の「人権」への疑問
(長過ぎて、読みにくいかもしれないが、いちおう全部書いとく)
すべての人に人権がある
とか、
すべての人は、人権を持っている
とかいうけど、みんな、その説明で納得できてるのかな。
俺は納得できたことがない。
「ある」とか「持ってる」とかの言葉を使うのは、まずい、といつも思う。
それで、かつて「神」という概念が、死んだんだから。
神はいる。神は存在する。
と言われてた時に、
「神がいるなら、見せてみろ」
と言う奴が、啓蒙時代に現れた。
それで、誰も神を見せられなかったから、「神」は滅んだ。
人権も、それと同じで、
「人権があるなら、見せてみろ」
と言う鋭い奴が出てきたら、滅びると思う。
今は、大学とかに、そういう鋭い奴がいないんだろうな。
だから、「ある」とか「持ってる」とかの実在論的言葉を避けて、
「人権はあるのかなー、ないのかなー、わからないけど、あるということにしておくと、いろいろ便利だから、そーいうことにしてるー」
みたいに説明しておけば、少しは安全だ。
「神」も、かつて、そういうふうに擁護されたことがあった。
だけど、結局、この説明も弱いから、いずれ滅びる。
「神」も「人権」も、ある倫理体系を維持するための方便の概念にすぎない。
でも、「人権」は、「神」よりお粗末だと俺は思っている。
*
「人権」には、いろいろ弱点がある。
まず思いつくのは、それが世俗的、現世的概念だから、「生者」中心すぎる、ということかな。
人権は、死んだら消滅する、というのが基本だ。
死んだ者の人権を守る利益はない、と考えられている。
だから、殺人事件が起こると、人権の理論で、被害者より加害者が尊重されているように見える。
なんとなく、それに引っ掛かっている人は多いと思う。
たとえば、福島みずほは、「死んだ人はもう仕方ないから、生きている人の人権を守る必要がある」という理由で、死刑反対と、囚人の待遇改善を訴えていた。
その論理を延長していくと、人を殺しても死刑にできないし、囚人には死ぬまで好待遇を与えなければならない。
それが「人権」的には正しいのかもしれないけど、モヤモヤしませんか。
死んだ人の気持ち、殺された者の無念はどうなる?と。
現在、死者の人権は、著作権法の人格権とか、あるいは死者への侮辱罪とかいう形で、例外的に認められるものもあるけど、あくまで例外で、「生者優先」の原則は変わらない。
その点は、肉体が滅びても魂は死なない、というかつての「神」システムのほうが納得できた。
でも、人々は、死んだ者たちを尊重しなくなった。
かつての「実家」には、たどれる限りの先祖、ひーおじーちゃんやおばーちゃんの肖像や写真が飾ってあったものだが、今はほとんど見られないだろう。
それどころか、「墓じまい」が流行している。
死んだら終わり、という人生観が広まっている。それも、「人権」概念が広まったせいかもしれない。
しかし、「死んだら終わり」という観念は、倫理感を根っこから腐らせていく。
「終わり」が近づくにつれて、「無敵の人」になる人が増えるだろう。
いま老人は恵まれ過ぎている、と言われてるけど、もし老人が本当に窮乏化したら、どうなるか。まあ、食い逃げと万引きが劇的に増え、コンビニが襲われるだろう。つかまったって、終わりが近いなら、不利益がない。
(逆に、金持ちが死の間際に、全財産を使い切ってくれればいいのだが、周りの「まだ生きる人間」たちが止めるんだよなあ)
「死んだら終わり」の観念は、将来に対しても無責任になる。
「人権派」が堕胎の合法化を推進している、というだけではない。
現世しかない、とすれば、子供を作ることも、負担になるだけで無意味だ。
子供を作るくらいなら、おカネを含めて、すべての資源を自分の長生きのために使ったほうがいいから。
かくして、少子高齢化は「人権」が尊重される国ほど加速する。
「死んだら終わり」だから、それは、ある種の平和主義を招くだろう。
命がなにより大切だ。
しかし、それは、自分の命を守りたいだけであり、将来のために、あるいは過去からの継承のために、自分の命を捧げるのを嫌がるゆえの「平和主義」とも言える。
命を捧げるほどの大義を嫌うための「平和主義」。本当にそれでいいのだろうか。
三島由紀夫は東大法学部出身だったから、人権含めて現代の法理はよく理解していた。
彼の小説は、判決文のように書かれていると言われたし、自分でも言っていた。まず判決を決めて、その判決理由から書き始める。
彼の憲法理解とか、あの事件で生き残るであろう人たちへの法律的配慮とかも、今考えても、ほぼ完璧だったと思う。
でも、現代の法律の論理を知っていたからこそ、死んでいった「英霊」の声は、現代に届かないことも完璧に理解していた。
だから、ああいう「狂った」行動を取るしかなかったとも言える。
もし、死んでいった兵士たちの魂を法的に代弁し、「天皇が神だと思ったから死んだのに、人間だったというのは詐欺だ」と告訴できたなら、三島は死ななくてよかったかもしれない。
私だったら、A級戦犯たちの魂を代弁し、A級戦犯が合祀されてるから靖国に行くのを取りやめたとされる昭和天皇を、「そりゃないよ、あんたのために死んだのに。侮辱罪だ」と訴えたかった。
*
でも、天皇には人権がない。
人権を基礎とした現代の法では、人権がない者を訴えられないだろう。
それも、「人権」の非常に大きな綻びだ。
すべての人には人権がある、と言っておきながら、いきなり天皇という例外が出てくる。
学校で、「すべての人には人権がある」と教える教師は、
「でも、天皇には人権ないじゃないスか。職業選択の自由も、移動の自由も、言論の自由もない。すべての人に人権があるというのは嘘じゃないですか」
と生徒から突っ込まれたら、どう答えているのだろう。
「天皇は、人間じゃないんですか? 神ですか?」
「いや、天皇はその・・象徴だ」
「象徴って、何スか?」
とすぐ突っ込まれるだろう。
それに答えられるはずがない。象徴なんて、思いつきの英文の翻訳に過ぎないのだから。
言論の自由がない人の言葉を、「お言葉」として伝えているマスコミも、どうかしている。
お前ら、ふだんは人権、人権言ってるくせに、人権感覚ないじゃないか、と。人権をたいして信じていない私が突っ込みたくなる。天皇に言論の自由を保障してから発言させろ、と思う。
皇室典範の「男系」尊重既定というお馴染みの問題を含め、人権概念のせいで、憲法内で矛盾が生じている。
「人権」が憲法を破綻させているのです。
*
「人権」の問題は、他にもあるよ。
生者中心であるとともに、人間中心であること。
なんでヒューマン・ライツーー人間だけ権利があるのか。
これは早くから問題視されて、いわゆるアニマル・ライツ派がいる。
すごい過激な連中だ。でも、気持ちはわかる。
動物たちの権利だって尊重したい。
だから、そういう法律が増えている。
最近は、タコの「人権」を認める法律もできた。
タコは痛みを感じるから、生きたまま茹でちゃいかんという。
でも、植物が痛みを感じないと、なぜ断言できる?
権利を保護すべき「生き物」は、無限に延長できる。
それなら、一木一草に神が宿るつーて、石だって拝んでいた、昔のアニミズムに戻ったほうがいいんじゃないか、とか。
*
結局、「人権」とは、ここにいるAさんにも、遠くの国にいるCさんにも、等しく適応できるような「抽象性」「普遍性」があるから、便利だと言える。とくに司法当局者にとっては。
でも、その抽象性、普遍性が、たとえば「愛」のような、具体的、個別的な価値と矛盾することがあるのは、倫理学でも指摘されていると思う。
たとえば、「人権」を基礎とした現代の法理論では、自分の子供も、誰だか知らない他人の子供も、同じ「価値」があるとする。
その二人の子供のうち、どちらかが死なねばならないという極限倫理的状況で、「自分」の立場から、その二人が等価値だと容認できるかどうか、とか。
そういう等価値性を認めてしまったら、あらゆる愛がーー郷土愛や愛国心も含めてーー正義に反することになるだろう。
集団のこうした倫理的問題に対して、大昔は、権威ある長老とか、シャーマンとかが、裁定していたのだろう。
それが「神」になり、「法」になり、現代ではそれが「人権」を中心にした法になっている。
属人的な判断から、抽象的なシステムに移行していった。それによって、公正な正義が実現されやすくなった、というのが標準的な理解だろう。
だけど、そういう「抽象的な正義」に、なんとなく馴染めないものを人々は感じているのではないだろうか。
もし、非属人的で、抽象的で普遍的な正義を追求するなら、最後は人間の裁判官でなくAIに判断させたほうがいい、ということになるだろう。
それでは、非人間的だし、無責任な気がする。今の国連も、エリートたちのもので、人々から手の届かないものになっている。
私は、なんとなく、正義はむしろ属人的な方向に回帰していくのではないか、という気がしている。
それを、「トランプVS人権」の構図の中に、感じています。
自分の道徳心だけが指針だ、国際法は要らない、という人物が、世界最高の権力者になって、「人権体制」が揺らいでいるからです。
