特権階級の人々が日本の文学と出版界をつくった 宇野千代『青山二郎の話』など
白洲次郎・正子は特別な身分の人たちだ。
戦時中、鶴川(東京都町田市)の自宅(武相荘)には、秩父宮(昭和天皇の弟)夫妻や、近衛文麿夫妻が訪れている(白洲正子『鶴川日記』p38)。
華族出身の正子と、秩父宮妃・勢津子(旧会津藩主・松平容保の孫)は親友だった。
要するに、日本で最高の血統の人たちが自宅に来る。あんな鶴川の田舎まで。そういう身分だ。
秩父宮、近衛文麿、白洲次郎が会っていたとなれば、敗戦後の相談でもしていたんだろうと思いたくなる。もし昭和天皇が戦争責任を問われて退位した場合、自分たちが、みたいな。
その白洲正子が嫉妬したのが、白洲次郎と小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎らダンディな文化人たちの交友だ。
彼らは、昭和の初め(一部は大正の終わり)から交流があり、「文学界」を創刊し、芥川賞創設にかかわり、今につづく日本の文芸界、出版界をつくった人たちである。
プロレタリア文学に対抗した、日本の「純文学」のスタートには、特権階級の人々と億万長者たちがからんでいる。
このあたり、通常の文学史や国語の教科書には、はっきり書かれていない。
ここに登場する人たちは、普通に就職したり働いたりしていない。最初から庶民とは生き方が違う。
河上徹太郎は戦中、五反田の自宅が空襲で燃えたので白洲邸に寄宿し、戦後、近くの柿生村の、現在の「栗平」駅近辺に家を構えた。そのため、現在私が住む柿生のゆかりの文学者となった。
私は、郷土史の一環として、河上徹太郎研究のために、青山二郎や白洲正子を読んでいる。
白洲次郎と河上徹太郎は、神戸一中以来の親友だった。
白洲次郎の祖父・退蔵は、福沢諭吉の仲間で、横浜正金銀行(三菱UFJ銀行の前身)創設者の一人(3代目頭取)。次郎の父・文平は綿貿易で巨万の富を築いた。
河上徹太郎は岩国藩家老の家系、のちのあや夫人は大鳥圭介の孫で美智子上皇后のピアノの先生である。
小林秀雄とは、一高・東大で知り合った。
若くして陶器鑑定の天才と言われた青山二郎と小林は、大正の終わりには知り合っていて、小林が青山を河上らに紹介した。
小林、青山二郎、永井龍男が、グループの中心であり、とくに小林と青山の関係が世間的には有名になる。
銀座を拠点とし、大岡昇平が「青山学院」と名付けたこのグループには、昭和5年頃から、以下のような人たちが出入りした。
青山二郎、小林秀雄、河上徹太郎、永井龍男、今日出海、中島健蔵、大岡昇平、井伏鱒二、坂口安吾、佐藤正彰、中原中也、亀井勝一郎、福田恆存、古谷綱武
そのほかに、出版人や文学ファンがくわわり、銀座や麻生で酒を飲んで文学や芸術を語り、合評会をやったり、同人誌を出したりしていた。
多くはまだ20代、良家の子が多かったとはいえ、今風にいえばプータローの文学青年たちである。
なぜそんなにカネがあったのだろう、銀座の飲み代などはどうしていたのだろう、と気になっていた。
どうも、青山二郎がカネを払っていた。
彼は億万長者だった。
青山さんの生れた家は大地主で、いまの青山から麻布にかけた一帯の土地を持っていた。それで青山と言う苗字なのだ、と人が言うのを聞いたことがある。
(宇野千代『青山二郎の話』p11)
小林や河上の随筆を読んでいると、麻布の一の橋の飲み屋で仲間と飲んでいた思い出話がよく出てくる。
その話だけを読んでいると、貧乏な若者の話のようだが、なんのことはない、その土地の所有者は、青山家だった。彼らは、地主と飲んでいたわけだ。
もっとも、青山二郎の父親が生きていた時代は、二郎が家のカネを自由にできたわけではない。
小林らとの付き合いでカネを使いすぎたらしく、二郎は一時「勘当」のような扱いになり、戦後すぐには困窮して長屋のようなところに住んでいる。
その長屋暮らしの話も、よく出てくるので、青山二郎がカネに苦労していたような印象を受けるが、だからといって、青山は働いたりしていない。寝ていれば、いつか莫大な遺産が入ってくる身分だった。
実際、父親が死んで、麻布の土地を相続すると、そこに首都高速道路が通ることになったので、東京都から当時のカネで億単位の収入があった。
彼は神宮前の有名なマンション「ビラ・ビアンカ」に転居し、死ぬまで遊んで暮らした。


小林秀雄の周辺にいた、もう一人の金持ちが、野々上慶一だ。
野々上は、小林らの売れない雑誌「文学界」を出版していた。
この野々上の実家も太かった。
野々上さんという人は、広島の、大臣にもなったことのある有名な人の弟で、何でも野々上さんだけがお母さんの実家のあとを継いだとかで、野々上という名前なのだそうであったが、お父さんが世にも聞こえた金持で、広島でも瀬戸内海の島を幾つも持っていたり、また、別府にも別荘があったりした。地獄とか言う名前のある温泉場も、お父さんの持ち物であったとか。
(宇野千代『青山二郎の話』p81 なお、野々上の父親の姓は「松本」)
このグループの文学的中心は、間違いなく小林秀雄だったが、彼はあまりカネがなかった。
だから、活動資金を、青山二郎や野々上慶一にたかっていた、というのが実態のようだ。
そのため、青山も野々上も、実家からは白い目で見られている。
野々上は、小林秀雄に心酔していた出版人だから、小林に貢いで、べつに悔いはなかっただろう。
だが、青山には、複雑な思いがあったようだ。
最初は、青山二郎と小林秀雄は、芸術的にも対等だった(年齢は青山が1歳上だがほぼ同じ)。周囲もそう見ていた。
しかし、次第に小林秀雄は文壇のスターとなり、戦中すでに押しも押されもしない権威者になる。
批評の神様であり、「人生の達人」のように言われ、戦後には教科書に載るような存在になった。
少し前の記事に書いたように、昭和28年(1953年)ごろから、青山二郎と小林秀雄の仲は壊れてしまう。
青山には、嫉妬と、「さんざん俺を利用したくせに」という思いがあったはずだ。
青山二郎が1979年に死んだ後、親しかった人たちが彼についての本を相次いで出した。
宇野千代『青山二郎の話』(1980、中央公論社)
野々上慶一『高級な友情 小林秀雄と青山二郎』(1989、小沢書店)
白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』(1990、新潮社)
河上徹太郎は1980年に死に、小林秀雄は1983年に死んだ。
野々上と白洲の本は、その後に出ているので、青山二郎と小林秀雄の仲違いについても、かなり率直に書いている。
そして、白洲の本は、野々上の本を読んだ上で書いている。
野々上と白洲とでは、青山と小林の関係についての解釈が異なり、私には興味深い。
私は、その解釈の違いには、「坂本睦子」がからんでいると思っている。
それについては、次の機会に書きたい。
もう一つ、私がずっと気になっていたのは、白洲正子と河上徹太郎の関係だ。
前述のように、河上は白洲邸に寄宿した後、柿生に家を構えた。河上の家は現在の「栗平」駅の近くだが、1974年までは小田急多摩線はない。それまでは、柿生駅から30分近く歩かなければならなかった。
現在でも、小田急小田原線の「鶴川」から、多摩線の「栗平」に行くには、新百合ヶ丘で乗り換えねばならず、ちょっと時間がかかる。だが、実は二つの家は、直線距離では近い。
先日、武相荘に行った時に、その近さを感じた。武相荘から栗平まで歩いてみると、桐光学園のある丘を超えて、15分かからないくらいであった。当時の道路事情はいまより悪かっただろうが、それにしてもご近所といっていい距離である。
それなのに、戦後は、両家が交流した記録があまりない。
河上は、柿生の自宅に訪れた文人たちのことをたくさん書いているが、白洲夫妻はほとんど出てこない。
生田に住んでいた庄野潤三一家との交流は、1冊の本になるくらい濃密だったにもかかわらず、だ。
これが前から不思議だった。
まだ推測だが、そのことにも、青山二郎と小林秀雄の仲違いが関係しているのではないか。
白洲正子は明らかに「青山側」であり、河上は終始一貫「小林側」だった。
そして、ここにも、「坂本睦子」の存在が、影を落としていると私は思う。
白洲正子は、昭和33年に自殺した坂本睦子の親友であり、河上徹太郎は睦子を愛人にしていた。(そして、小林にとっては、睦子は失恋の相手だった)
それについても、次の機会に書きたい。
いずれにせよ、日本の文学界は、青山二郎や野々上慶一のような金持ちの蕩尽がなければ、生まれなかった。
多摩地区は、かつて自由民権運動のメッカだったが、その運動のためにカネを注ぎ込んで破産した金持ちもいたという。
向ヶ丘遊園の土地は、そういう政治に入れ込んだ地主が手放したものだったという話を読んだことがある。
歴史では、そういうカネの話、そして女の話が重要なのだが、それはオモテの記録にはあまり残らない。
まして、白洲正子のような上流の人々は、そういう下品な話はあからさまに書かない。
でも、私のようなのには、そのあたりが、文学や芸術そのものより、面白い。
<参考>
