「小田急線文化」黄金期の舞台、鶴川の「武相荘」に行ったら驚いた
世に「中央線文化」という言葉がある。
私も編集者をやっていた時は、よく中央線沿線で作家や学者に会った。中野、高円寺、阿佐ヶ谷、吉祥寺、三鷹、国立・・。そのへんに文化人は住んでいた。
だから、中央線沿線は、なんか文化的雰囲気があるとされる。
だが、わが「小田急」も負けてはいない。こっちには下北沢があるし、成城学園前もある。
・・と、強がったところで、戦力不足は隠せず、多摩川を渡って神奈川に入ると、途端に寂しくなるのも否めない。
しかし、昭和20年から昭和50年くらいにかけて、多摩川より西にも「沿線文化」が花開いていた。
「生田」に庄野潤三が住み、「柿生」に河上徹太郎が住み、「鶴川」に白洲次郎・正子が住んで、互いに交流があり、また東京などから文人や編集者が多く訪ねた。
私は柿生に住んでいるので、ゆかりの河上徹太郎についてはこれまでも書いてきたが、庄野潤三や白洲夫妻との交流はあまり書いていない。
生田村、柿生村、鶴川村。かつては隣り合ったご近所同士だった。
とくに庄野と河上の小田急沿線「ご近所付き合い」は、約20年におよび、1冊の本(庄野潤三『山上に憩いあり』)にもなっている。
数日前、自民党総裁選で麻生太郎氏がかっこよかった、という話のついでに、麻生氏の祖父、吉田茂の側近だった白洲次郎と、河上徹太郎の交流についても触れた。
それで、改めて、彼らをふくむ、昭和の「小田急線文化」黄金期について、少しずつ書いてみたくなった。
まあ今の時代、河上徹太郎とか庄野潤三とか言っても、あんまり伝わらないだろうから、まずそれぞれの略歴を記す。
河上徹太郎

1902年(明治35年)1月8日生まれ。山口県岩国出身。文芸評論家。白洲次郎とは神戸一中以来の友人。小林秀雄らと「文学界」を編集し、戦前・戦中から文壇をリードした。「私の詩と真実」で読売文学賞、「日本のアウトサイダー」で新潮社文学賞など。日本芸術院会員。1980年(昭和55年)9月22日、癌のため78歳で死去。五反田の自宅が戦災で焼失したため、昭和20年から22年まで鶴川の白洲邸(武相荘)、昭和22年から亡くなるまで、川崎市多摩区(現麻生区)白鳥(現在の多摩線「栗平」近辺)に住んだ。
白洲次郎

1902年(明治35年)2月17日、兵庫県生まれ。実業家、初代貿易庁長官、サンフランシスコ講和会議全権団顧問、東北電力会長、日本テレビ役員など。吉田茂の側近として、終戦工作やGHQとの交渉に暗躍したとされる謎多き人物。NHK「白洲次郎」などでドラマ化された。1985年(昭和60年)、急性肺炎で83歳で死去。1942年に鶴川村に「武相荘」(現・町田市能ヶ谷7−3−2)を構え、1943年から妻の白洲正子と住んだ。
白洲正子

1910年(明治43年)1月7日、東京市(現東京都千代田区)生まれ。華族出身、旧姓樺山。1929年(昭和4年)、白洲次郎と結婚。名エッセイストとして2度読売文学賞を受賞。1998年(平成10年)、肺炎のため88歳で死去。
庄野潤三

1921年(大正10年)2月9日、大阪生まれ。作家、「第三の新人」の一人。「プールサイド小景」で芥川賞、「夕べの雲」で読売文学賞など。日本芸術院会員。2009年(平成21年)9月21日、老衰で88歳で死去。練馬区に住んでいたが、バスの騒音に悩まされ、川崎の生田に移住。昭和36年(1961年)から亡くなるまで、川崎市多摩区三田5に住んだ。
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この「黄金期」は、白洲次郎が、イギリスのカントリーハウスのごときものを求めて、鶴川の農地を買って住み着き、そこに戦災で焼け出された河上徹太郎が居候したところから始まる。
この白洲邸は「武相荘」と命名され、現在も「東京都町田市能ヶ谷7丁目3番2号」に存在する。
現「武相荘」のHPに、白洲次郎の娘、牧山圭子さんがこう書いている。
父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けておりました。
牧山桂子
武相荘のプロモーションビデオ↓(本記事のヘッダー画像もこの動画より)
で、私は実は、まだこの武相荘に行ったことがなかった。
昨日は、曇天ながら気持ちのいい風が吹いていたので、柿生の自宅から出かけてみる気になった。
Googleの地図で経路を見ると、歩いてだいたい40分の距離だ。
で、行ってみたら驚いた。
休館日だった。


だから、なんで事前に調べて行かんのか。
俺、このパターン多すぎん?
やり直し!
<参考>
