「愛」と「エゴイズム」は同じ
いまだに映画やドラマでは「愛って素晴らしい!」とうたい上げるのが多いけど、あれってシラけません?
私は、シラけるほうですね。
愛は素晴らしい、と言う人は多いけど、実際はそんな素晴らしくない。
「愛」は素晴らしい、と言われる一方で、「エゴイズム」はよくない、と言われる。
これは哲学的にはおかしい。
なぜなら、愛はエゴイズムの一種だからです。
自分は素晴らしいとか、価値があるとかを客観的に証明することなく、
「自分は自分だから、自分以外より価値がある」
というのがエゴイズムですね。
法哲学者の井上達夫は、『共生の作法』の中で、エゴイズムをもうちょっと哲学的に定義しました。でも意味は同じです。
(エゴイズムとは)自己と他者との固体的相違に基づく差別の実践、またはそのような差別を実践する立場
(井上達夫『共生の作法』p116)
そうであるなら、「愛」だって同じです。
恋愛。
夫婦愛。
家族愛。
郷土愛。
愛国心。
人類愛。
動物愛。
地球愛。
愛の対象をどこまで広げていっても、自分たち(恋人、家族、国、人類等)は自分たちだから、自分たち以外より価値がある、という論理によって、自分たち以外を「差別」しています。
それは、ある面で「不正」なんです。
フロイトは、どこかでこんな言い方をしていました。
「誰かを愛するということは、その誰か以外を愛さないということだ」
そして、同じフロイトは、恋愛を「性的過大評価」とも表現しています。
何かを愛するとは、客観的にはその何かを「過大評価」し、その何か以外を「差別」することです。
その何かが「自分」である場合は「エゴイズム」ですが、「愛」の場合も、対象が広がるだけで、同じ構造を持っています。
「エゴイズム」は自分を守るだけだが、「愛」は他人のために犠牲になれる、時には死ぬこともある。だから美しい。その点が違う、という人もいるかもしれません。
しかし、人間は「エゴイズム」で自殺することも多い。自分のイメージや価値を守るために命を犠牲にするのです。恋人や祖国を守るために命を捧げるのとそんな違いはありません。
愛とエゴイズムの「構造」が似ていることは、井上達夫も『共生の作法』で認めていたと思いますが、あまりそこから議論を発展させてはいませんでした。
ただ、「エゴイズム」や「愛」の対極にあるものは指摘していました(それが井上の議論の目的です)。
それは「正義」です。
井上は、こんな例を挙げていたと思います。
母親とその子供がいて、もう一人、他人の子供がいるとする。
どちらの子供も飢えている。しかし、ここには、食事が一人分しかないとする。
母親が愛する自分の子供に、その食事を与えるとすれば、それは「愛」ですが、正義には反します。
それが自分の子供であるという「個別性」にこだわるのは「エゴイズム」だからです。
エゴイズムは、倫理的には最も恥ずべき行為です。
この場合は、二人の子供にジャンケンか何かをさせて、公正にどちらが食事にありつけるか決めなくてはならない。それが「正義」ですね。
(こんな話を始めたのは、山尾しおりーーN党の山尾ではなく本物のほうーーのことを改めて論じようと思ったからですが、今日は時間がないので、続きはまた今度。)
<参考>
