見出し画像

左翼の言論はなぜ歪むのか 「批判」「批評」の二重性

左翼というのは、定義上、我々のこの社会、資本主義の体制を、不正とみなしています。

この世は資本主義と共産主義の戦いのさ中にある、という旧左翼にしろ、資本主義と共産主義の対立を止揚して理想の新次元を目指せ、という新左翼にしろ、資本主義はいずれにせよ敵です。


彼らにとって、資本主義はまず滅ぼすべき相手なので、資本主義に貢献することなどあり得ない。

だから、左翼である共産党や社民党、左翼をふくむ立憲民主党やれいわなどが、我々の資本主義社会に「建設的」なことを提案するはずはありません。

そのことが、国会中継などを通じて、人々にますます明らかになりつつあると思います。


端的にいえば、左翼にとって、日本政府は「敵」なのです。

その政府に協力するなら、我々も「敵」です。


彼らは、できる限り政府の役に立たないよう、できればサボタージュ、破壊工作につなげて政府を妨害するよう、言論でも行動でも画策します。

左翼の言動には、我々から見て「真実」がありません。


しかし、左翼の側から見れば、もちろん事態は180度違います。


彼らの思想によれば、高度に発達した資本主義は、搾取と疎外の真相を隠蔽し、偽りの幸福を与え、全体として我々をあらゆる場面で騙しています。民主主義も、その欺瞞のための道具にすぎません。

資本主義社会に「真実」がないのだから、それを暴くためのさまざまな戦略・謀略をはかることこそ正義となります。


こういう考え方をフランクフルト学派の「批判理論」と言い、たとえばヘルベルト・マルクーゼの『一次元的人間』で展開されています。


ところで「批判」という言葉の意味をGoogleのAIに聞くと、

批判(ひはん)とは、物事の真偽、適否、善悪を論理的に検討し、評価・判定することです。単なる否定や欠点の指摘(非難)ではなく、改善や向上を目的とした建設的な意見表明を指す場合が多く、良い点と悪い点の両面を客観的に評価する行為も含みます。


と答えます。

良い点と悪い点の両面を客観的に評価するーーまことに結構なことじゃないですか。

それならば、誰も文句は言わないでしょう。

「批評とは」と聞いても、ほぼ同じ答えが返ってきます。


でも、左翼にとっての「批判」「批評」とは、上に述べたように、そういう意味ではなく、「資本主義体制の欺瞞を暴く」という意味なのです。


標準的な意味の「批判」「批評」と、左翼的な意味の「批判」「批評」は、非常によく混同されています。

それも、無意識の混同というより、左翼の側に有利なように、意図的に混同させられている、という疑いを昔から持っています。


左翼政党の言論は信じられないとしても、だからといって政府の言い分をそのまま真に受けるわけにはいかない、とみんな思っているでしょう。

だから、「良い点と悪い点の両面を客観的に評価する」批判・批評が必要だと、みんな同意する。


しかし、その同意につけこんで、左翼は、左翼的な「批判」「批評」を、あたかも客観的な「批判」「批評」であるかのように我々に売り込んでくるのです。

今日のジャーナリズム、新聞やテレビでの「左翼偏向」は、このようにしておこなわれていると言っていいでしょう。


いま、それ以上に問題なのは、

「批判や批評は、社会にとって重要な意味を持つので、子供の頃からその姿勢を身につけましょう」

という教育がおこなわれていることです。


ここでも、「良い点と悪い点を客観的に評価する」姿勢なら、もちろん歓迎ですが、やはり左翼的な「批判」「批評」理論が教えられることが多いのです。

「資本主義社会は、すぐ軍国主義になったり、ファシズムになったりするから、決して信用するな、絶えず反対しつづけろ」

というメッセージです。


これは、例のフランクフルト学派の「権威主義的パーソナリティ論」とも結びつきます。

子供の頃から「反抗」を教えないとファシストになる、というアレです。

こういうメッセージは、フランクフルト学派最盛期の1960年代が学生反乱とロックの時期でもあったことから、アカデミズムとともに、「ロック」や「ファッション」や「映画」などに浸透して、広範な文化的影響力をいまも発揮しています。


こうした左翼的な「批判」「批評」の理論は、社会学や哲学だけでなく、たとえば「国語」の分野にも侵入します。

だいぶ古いですが、私の本棚には、筑摩書房の『高校生のための批評入門』(1987)という本があります。(2012年に筑摩で文庫化されています)

国語の副読本として意図された批評文のアンソロジーです。


この本自体は、造本ふくめて非常に優れており(だから編集者時代の私が手本として使っていた)、編者の梅田卓夫、清水良典といった人たちも、決して左翼とばかりはいえない優れた教育者です。

その冒頭では、高校生に向かって、こう呼びかけています。


批評とは何でしょうか。評論を読んだり、論説文を書いたりすることではありません。もちろん他人の欠点をあげつらうことでもありません。みなさんは、世界にひとりしかいない「私」という人間として、考えています。「私」を、世界の中に考える主体として置くことーーこれが批評のはじまりです。


その「宣言」はいいのですが、実際にこのアンソロジーに収められている文章を見ると、イヴァン・イリイチとか、スーザン・ソンタグとか、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとか、左翼系の人が多いのが気になります。

チャップリンの映画「独裁者」の演説なんかも収められています。

日本人でも、中岡哲郎とか、林光とか、高良留美子とか、どちらかというと左派的な背景を持った人たちが集められている印象です。

左派だからといって、こうした人たちの業績を貶めたいわけではないのですが、教育の素材としてのバランスを問いたくなります。


「批判」「批評」を教えようとすると、どうしても左翼っぽくなってしまうのか、と考えてしまいます。

高等教育で左翼思想や左翼理論を教えるのは結構だと思いますが、基礎的教育の現場では、意識してそういう要素を排除してほしいと思います。


私が今日、こういうことを書き始めたのも、お察しのことと思いますが、辺野古「抗議船」事件をきっかけとして、中高校生への左翼偏向教育が広く深く浸透している現実が明らかになりつつあるからです。

そこでは、こうした左翼的「批判理論」の教育が必要だ、という一定の了解が共有されているのではないでしょうか。


繰り返しになりますが、「批判」の精神は必要であり、私がこういう文章を書いているのも、私の中に染みついた批判精神のたまものです。

私の批判精神が正しいかどうかは別にして、子供たちには、正しい批判精神を身につけてほしいと思います。


しかし、客観的な批判と、左翼的な批判とが混同されている現状では、その教育は危険でもあります。

いま必要な正しい政治、正しいジャーナリズム、そして正しい教育のためには、その区別が非常に重要だという思いを強くしています。



<参考>



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集