見出し画像

あの素晴らしい「キリスト教」はどこへ行った?

沖縄辺野古沖転覆事件以来、日本基督教団やバプテスト連盟と左翼との「ズブズブ」ぶりがどんどん明らかになり、ホントに辛いわあ。

もちろん、左翼でないクリスチャンもたくさんいて、問題に真面目に向き合おうとする方もいるけど、一方で、「うちは大企業ですから、いろんな人がいてはります」的な逃げ口上の人もけっこういて、全体としてガッカリ感がつのる。


私は、30代で気がくるいかけた時、キリスト教にまともな世界に引き戻してもらった経験がある。

キリスト教には大恩がある。

それについては、以前書いたけども。

あの素晴らしいキリスト教は、どこへ行った?と問いたいんですね。


いまだに私の本棚には、その頃に私の魂を救った聖書、C・S・ルイス、トマス・ア・ケンピス、アウグスティヌス、パスカル、マザー・テレサ、聖フランチェスコの伝記などが残っている。

なかでも、私を最も感動させたのは、G・K・チェスタトンの「正統とは何か」でした。


なぜ私は、「正統とは何か」にあんなに感動したのか。

それを思い出したくて、昨夜ベッドで、おびただしい付箋が立ち、いたるところに傍線が引かれた本を、パラパラとめくってたんだけど。

で、やっぱり、あの頃の感動がよみがえってきましたね。


チェスタトンは、キリスト教正統の核心は、「世界の驚異的な素晴らしさに感嘆する感覚」だとするのね。

自然は、世界は、この世は、圧倒されるほど素晴らしい。それが彼の出発点なわけです。

これほど素晴らしい世界である以上は、その背後に神がいるに違いないーーそれがすなわち「神秘主義」であり、彼の世界観の前提になります。


われわれは、驚嘆の念と親和の念と、その二つを結びつけてこの世界を眺めねばならぬのだ。この宇宙という不思議な国にあって、単に住みなれて安閑としているばかりでなく、真に幸福でなければならぬのである。

人間を正気に保ってきたものは何であるか。神秘主義なのである。

正しい第一原理なしに物を考え始めれば、人間はかならず狂気に陥ってしまう。

(安西徹雄訳『正統とは何か』春秋社1973年初版、p7、p19)


真に愛するとは、愛する理由を見つけてから愛するのではなく、理由が見つかる前に愛することだーーとも言ってますね。

世界を愛する理由を見つける前に、まず世界を愛することを教えるーーそれがキリスト教のはずでしょう。少なくとも、そん時私はそう思った。


それをなんだ、「平和学習」とか言って、この世の欠点ばかりをあげつらって教えるような教育は。

間違ってるだろう。

政治とかどうでもいいだろう。

子供には、世界の神秘的な素晴らしさを教えなさいよ。感じさせなさいよ。それが、生きる力と、幸福の土台になるのだから。


あの精神の危機の時、私はこのチェスタトンの本と、J・S・バッハのカンタータを聴いて、「世界の神秘的な素晴らしさ」を実感して、それで立ち直っていったんですね。


思想史的には、チェスタトンは、20世紀の初め、同じイギリスのジョージ・バーナード・ショーや、H・G・ウェルズの合理主義的な無神論に対抗したのでした。

あるいは、同時代には、日本にも大きな影響を与えたトルストイのような、悲観的なキリスト教思想があり、それにも対抗した。

チェスタトン哲学のポイントは、「当たり前」であることの素晴らしさ(「平凡なことは非凡なことよりも価値がある」)、世界の神秘への信頼、そして楽観主義ですね。


唯物論も、トルストイ的な倫理的厳格主義も、どうしても「悲観主義」になっちゃうわけですよ。

人生が楽しくなくなっちゃう。

チェスタトンの哲学も、J・S・バッハの音楽も、世界の美しさ、人生の喜びを表現することで、「神」を感じさせる。最初から「神」を持ち出すわけではないんです。

そういえば、昨日3月21日はバッハの誕生日(1685年)でした。


そういう「世界の神秘的な素晴らしさ」に驚嘆し、賛美するために、べつにたくさん本を読んだり、ハイカルチャーを知ったりする必要はない。

実はみんな、子供の頃に、その感覚を経験しているはずなんですね。

その感覚を万人に呼び覚ますところに、宗教の意味があると思うんですが。


まあ、でもキリスト教は、しょせん西洋発祥の宗教だから、どこかバタ臭く、日本人に向いてないかもしれない。

東洋や、日本にも、同じような宗教はあるとは思うんですが。私が知らないだけで。


チェスタトン的な「楽天的な宗教思想」は、その後はあまり引き継がれなかったように思われますね。

それはやはり、人類が2度の世界大戦を経験したからかもしれません。

そこで、チェスタトンの言う「正統」の基盤が、壊れちゃったのかもしれませんね。

でもねえ、過去の不幸を考えすぎるのも、また一つの病気ですよ。


その思想の一部は、同じイギリスのコリン・ウィルソンなどに受け継がれたのかもしれません。

同時代の、カミュやサルトルなどの悲観的な実存主義に対抗しているところがありました。

コリン・ウィルソンは忘れられ、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」に触発されて河上徹太郎が「日本のアウトサイダー」を書いたことなども忘れられましたが。

そのあたり、もう1度掘り返す必要があるな、と昨夜ベッドで思いました。


コリン・ウィルソンは「オカルト」ブームの一翼を担いました。

70年代以降のオカルトブームには、「正統」キリスト教が忘れてしまった神秘主義を復活させようという動機があったのかもしれません。

それも、悲観主義ばかりを説く周囲にさからって、「真に幸福に生きたい」という人々の願いが根底にあったと思います。

啓蒙主義や批判理論によって、世界を理性的・分析的に見るだけでは得られない感覚がある。

合理主義、現世主義、世俗主義、出世主義、コスパ、タイパ・・ばかりでは満たされない、あるいは、それによってむしろ忘れられてしまう人間の幸福の次元があるわけで。


昨日は久しぶりに「エホバの証人」のニュースが流れていましたが。

日本基督教団などは、「正統派」を自認し、エホバや、統一教会や、モルモン教や、その他いろいろを「異端」として排斥してきた。

でも、そういう「異端」が必要とされたのも、「正統」がダメだったからじゃないですか。

「正統」が左傾化して、何が「正統」か。「正統とは何か」、もう一度考えていただきたい。


ところで、チェスタトンに当たる人物が日本にいるか、ともベッドの中で考えた。

まあ、チェスタトンといえば、日本での紹介者代表である福田恒存がまず思い浮かぶけど。

でも、私は、三島由紀夫が案外そうなんではないか、と思いました。

「哄笑」の文人、チェスタトンと、バカ笑いする三島由紀夫のイメージが、私の中で重なります。

三島は、日本文化の「神秘」の中に、日本人が生きる根拠を求めたようなーーそのあたりも考えていきたい。


<参考>


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集