ビートルズとモンキーズの友情 ロック史の(あまり)語られざる部分
モンキーズが「殿堂入り」できない理由
ビートルズとモンキーズ。
この二つのバンドは、ロック史観、つまり、ロックの見方、ロックの評価基準の決定に、きわめて重要な役割を果たしました。
ビートルズを「ロックの創造神」として崇め、モンキーズを「偽ビートルズ」「偽ロックバンド」として差別する、という見方が1967年頃に出来て、それがその後の「ロック」と「ポップ」を分ける価値基準になったのです。
こういう見方を広めたのは、「ローリングストーン」のような音楽評論誌です。
だからこれを「ローリングストーン史観」と呼ぶならば、私はこれに一貫して反対しております。それは、以前の記事にも書きました。
ロック史の分水嶺となった1967年5月、批評家の絶賛を浴びたビートルズの「サージェント・ペパーズ」と、モンキーズの3枚目のアルバムが、ほぼ同時に発売され、比較対照されることになりました。
モンキーズの前2作は、レッキング・クルーなどのスタジオミュージシャンの演奏で作られた、ほぼTV番組「モンキーズ」のサウンドトラックと呼べるものでした。3枚目の「ヘッドクォーターズ」が、実質的にはモンキーズのオリジナル1枚目となります。
1967年5月22日 モンキーズ3枚目のアルバム「ヘッドクォーターズ」発売
1967年5月24日 「ヘッドクォーターズ」ビルボード1位に
1967年5月26日 ビートルズ「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」発売
1967年5月31日「サージェント・ペパーズ」1位に。以後11週間、1位「サージェント・ペパーズ」、2位「ヘッドクォーターズ」の状態がつづく。
この1967年頃のことを、モンキーズのマイク・ネスミスは、以下のように語っています。
マスコミや、ヒッピーの連中はみんな、僕たちの音楽を、正統的ではなく、評価に値しないと、ここぞとばかりに攻撃した。僕らは集中攻撃を受けた。どこに行こうと、そういう憎しみの対象になった。マスコミは常に僕らをバカにし、いじめた。そのころ僕らの音楽はずっとよくなっていたのに。グループの内情を知っている僕らは、みんなそう思っていた。(グループと対立したプロデューサーの)ドン・カーシュナーは追放されていた。僕らはアルバム「ヘッドクォーターズ」を送り出しはしたが、万全の出来でないことは分かっていた。だから、最良の道は、最初のようにオリジナル曲中心に戻ることで、でもかつてのように作曲家たちを曖昧にせず、透明化することだと分かっていた。でも、当時の気違い沙汰と、浴びていた憎しみの量は、筆舌に尽くしがたかった。その悪評価は、同世代の人たちのあいだで、今日まで続いている。
"Everybody in the press and in the hippie movement had got us into their target window as being illegitimate and not worthy of consideration as a musical force [or] certainly any kind of cultural force. We were under siege; wherever we went there was such resentment for us. We were constantly mocked and humiliated by the press. We were really gettin' beat up pretty good. We all knew what was going on inside. Kirshner had been purged. We'd gone to try to make Headquarters and found out that it was only marginally okay and that our better move was to just go back to the original songwriting and song-making strategy of the first albums except with a clear indication of how [the music] came to be... The rabid element and the hatred that was engendered is almost impossible to describe. It lingers to this day among people my own age."
この「ローリングストーン史観」は、現在、世界の正統史観となっております。
そのおかげで、ビートルズが過大評価され、モンキーズが過小評価されています。
モンキーズの評価は、近年上がっていますけどね。
でも、「ローリングストーン」の編集者が主宰している「ロックの殿堂」は、いまだモンキーズにその門戸を閉ざしています。決してモンキーズの「殿堂入り」を認めないのです。それを認めると、彼らが広めた「ロック史観」が崩れてしまうから。
モンキーズを殿堂入りさせろ、という声はずっとあり、その声は大きくなるばかりですが、マイク・ネスミスは生前(2012年)、「それは彼らの商売だから、(殿堂入りしないのは)気にしない」と大人の態度で許していました。
「ロックの殿堂」は私企業がやっている。そのオーナーたちが自分の趣味で誰を殿堂入りさせるか選んでいる。それで問題ないと僕は思う。いずれにせよ彼らのビジネスだから。「ロックの殿堂」は公的なものではないし、そうなるべきでもない。
"I can see the HOF (Hall of Fame) is a private enterprise. It seems to operate as a business, and the inductees are there by some action of the owners of the Enterprise. The inductees appear to be chosen at the owner's pleasure. This seems proper to me. It is their business in any case. It does not seem to me that the HOF carries a public mandate, nor should it be compelled to conform to one."(wikipedia"Rock and Roll Hall of Fame")

ここで、ロック史の、心温まる側面があります。
1967年、モンキーズが「偽ビートルズ」だとバッシングを浴びた時も、ビートルズのメンバーは、公平にモンキーズを評価した、ということです。
どちらのバンドも、1968年には事実上の解散状態となりましたが、批評家の言うことなど気にせず、ミュージシャン同士の交流を、その後も続けました。
ビートルズの寛容さ
ビートルズとモンキーズは、1967年頃、世界で最も売れているバンドでしたが、他にも非常に大きな共通点がありました。
どちらのバンドのメンバーも、みな人柄がよかったことです。
どちらのメンバーも、偉ぶらず、率直で、寛容で、ウィットに富み、知的で、仕事に真剣で、楽しい人たちでした。
若くして成功し、大金持ちになったのに、傲慢にならず、おかしくならず、堕落しなかった。これは、稀な資質だと思います。
ビートルズとモンキーズは、60年代にTVを通じて「ロックバンド」のイメージを世界中に広めました。
とくに60年代以降に育った人たちにとって、「ロックをやる人」のイメージの基本を、彼らが作ったのです。
彼らの振る舞いやパーソナリティーは、ロック・アーティストの「アティチュード」を決めただけでなく、それ以降のほぼすべての若者たちに影響を与えました。
彼らが「いい人」たちで、よかったと思います。
あまり言われないけど、それは非常に幸運なことだったと思うんですね。
以下、ロックの正統史観では無視されがちな、ビートルズとモンキーズの交流史の一端です。
ミッキー・ドレンツ
(1945ー )

いまや、モンキーズ唯一の生き残りになってしまったミッキー。
現在79歳。最後のモンキーズとしての責任を感じ、1日でも長く生きようと、健康管理に努めているそうです。
もともとは子役タレントでした。
ギターは少し弾けたのですが、TV「モンキーズ」では設定上、ドラムを割り当てられました。彼は足に軽い障害があり(それで兵役免除になった)、ドラムは必ずしも上手くならず、バンドの弱点と言われました。
しかし、「恋の終列車」「アイム・ア・ビリーヴァー」「ゴーイング・ダウン」などで見せる彼のヴォーカルは、クールで力強く、現在も非常に高い評価を得ています。
下は、1967年、モンキーズがイギリスにツアーして、バッシングが始まりかけた頃の写真と思われます。
ビートルズは、モンキーズを暖かく迎え入れた、ということを象徴する写真として使われます。

そして、ミッキー・ドレンツといえば、「ハリウッド・ヴァンパイヤーズ」です。
それは、1972年にオープンしたハリウッドの「レインボーバー&グリル」のロフトを専用に使っていた、ロックスター御用達の会員制クラブでした。

アリス・クーパーを中心に、ミッキー・ドレンツ、リンゴ・スター、ハリー・ニルソン、キース・ムーンが主な会員。
そこに、1973年に小野洋子と一時的に別れたジョン・レノンが入り浸ります。ジョン・レノンは、そこの「名誉会員」になりました。

「ハリウッド・ヴァンパイヤーズ」に通っていた時代のジョン・レノンについては、今年日本で公開されたノンフィクション映画「ジョン・レノン 失われた週末」で描かれています。
この1970年代のクラブ「ハリウッド・ヴァンパイヤーズ」にちなんで、2015年にアリス・クーパー、ジョニー・デップ、ジョー・ペリー(エアロスミス)が「ハリウッド・ヴァンパイヤーズ」というバンドを作ったのはご存じでしょう。
そのバンドの録音には、ポール・マッカートニーも参加しています。




ピーター・トーク
(1942ー2019)

モンキーズの中で、楽器がうまかったのは、マイク・ネスミスとピーター・トークです。
ピーターは、子供の頃からピアノを習っていたほか、ギターやバンジョーが巧みでした。モンキーズではベース担当。
「デイドリーム・ビリーヴァー」の有名なピアノのイントロを作曲したのは彼と言われています。
コンサートでは、キーボードでバッハの「2声のインベンション」をサラッと弾いたりしています。
NYのグリニッジ・ヴィレッジでスティーブン・スティルスらとアマチュアのバンド活動をしていました。スティルスがモンキーズのオーディションを受けたのがきっかけで、モンキーズの一員になります。
モンキーズ後は、バンジョー奏者として、ジョージ・ハリスンの「ワンダーウォール」に参加。また自分のバンドでシングルを出しました。
ただ、彼は、自分をミュージシャンではなく、エンターテイナーだと自認していました。
TVの「モンキーズ」でも、ボケ役を演じていましたね。
そういう意味で、いちばん自由でお気楽な感じの人。多額の違約金を払って最初にモンキーズを抜けたのも彼です。
1972年に麻薬所持で服役し、その後、学校教師もやってました。
1980年代のモンキーズ再結成で音楽活動を再開。最後はガンで77歳で亡くなりました。


ビートルズとは直接関係ないですが、ピーター・トークは、モンキーズを脱退したあと、ハリウッド近郊でヒッピーのような生活をしていました。
彼の屋敷には、ジミ・ヘンドリックスなども遊びに来ていたようです。
無名時代のジミ・ヘンドリックスは、モンキーズの前座でした。ミッキー・ドレンツが彼を見出して起用したのですが、演奏が過激すぎて、若い女の子中心だったモンキーズの客には受けなかったようです。
ピーターは彼のことを知らなかったようです。でも、その後、仲良くしていたようですね。



マイク・ネスミス
(1942ー2021)

モンキーズ以前からプロのミュージシャンだった唯一の人。ギターとヴォーカルができましたし、作曲家としても他グループに提供してヒットを出しています。
年齢的に上だったこともあり、モンキーズの音楽面でのリーダーでした。オーバープロデュースに反発し、音楽の主体性を奪還すべく、プロデューサー(キャロル・キングやポール・サイモンを育てて「ロックの殿堂」入りしたドン・カーシュナー)を追放するクーデターを起こしました。
アメリカ南部のテキサス出身で、南部のカントリーの歌唱法(twangという鼻にかかった裏声など)を体得していました。モンキーズ後期の音楽は、彼の影響でカントリー味が増します。
音楽に関して、いちばん真剣だったので、ミュージシャンという自覚があまりなかったピーター・トークと仲が悪かったと言われます。
でも、ピーターが亡くなった時は、テレビ出演中にも涙を流していました。
モンキーズというのは、そもそもは寄せ集めでしたから、方向性はバラバラだったのですが、最後まで固い友情で結ばれていたのが分かります。
モンキーズを抜けたのも、ピーターに続いて2番目でした。
モンキーズ後は、「ファースト・ナショナル・バンド」を結成して、カントリーロックの旗手として活躍します。グラミー賞も取りました。そのあたり、マイク・ネスミスの音楽については、改めて論じたいと思います。
ビートルズとのかかわりとしては、1967年の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」(アルバム「サージェント・ペパーズ〜」)の録音に、ミック・ジャガーなどとともに参加しています。

有名プロデューサーを追い出して音楽の主導権を握ったモンキーズの「クーデター」を、最も評価していたのはジョージ・ハリスンだったようです。
音楽の方向性からも、ジョージとマイクは、いちばん親しかったのではないか、と思わせるのが下の写真です。


あと、ジャック・ニコルソンとモンキーズの関わりも重要なのですが、それもまた別の機会に。

また、余談で、有名な話ではありますが、マイクの母親ベティ・ネスミスは、「修正液」の発明者です。
「修正液」ビジネスで儲けた遺産の半分は、マイクに贈られましたから、彼は最初から金持ちでした。
以下、日本語wikiの「修正液」記事からーー
1950年頃にアメリカの会社の女性従業員ベティ・ネスミス(モンキーズのメンバーとして知られるマイク・ネスミスの母)が発案した。彼女はタイピストでありタイプミスの修正用にテンペラ画用のラテックス顔料を使用していたが、これが仕事仲間に評判となり、ついに1958年に脱サラして修正液の会社を創業して全米で販売を開始した(リキッドペーパー)。

デイビー・ジョーンズ
(1945ー2012)

デイビー・ジョーンズは、モンキーズで唯一のイギリス人でした。だから、ビートルズの文化や背景をいちばん理解していた人です。
デイビー・ジョーンズは、10代でブロードウェイのミュージカルスターでした。「オリバー!」の主役で、トニー賞候補にもなっています。
モンキーズは、彼の存在を前提に、彼を中心に構想されました。
小柄(身長160センチ)で童顔、日本では「星の王子さま」なんて呼ばれて人気でした。モンキーズの「バブルガム」的側面を代表していました。
彼はドラムができたそうですが、ドラムでは彼の顔が隠れてしまう。彼をフロントマンにしたかった制作側は、ミッキーにドラムを押し付けました。
モンキーズでは主にヴォーカルとタンバリンでした。
デイビー・ジョーンズは2012年、モンキーズでいちばん早く、心臓発作で66歳で亡くなりました。
彼は生前、ビートルズとの付き合いについて、インタビューで語っています。
「モンキーズはビートルズの真似だと言われているが」というおきまりの質問に対して、彼は以下のように答えています(大意)。
ジョン・レノンは、モンキーズはビートルズではなく、マルクス・ブラザーズに似ていると言ったけどね(笑)。
僕らは、ビートルズのみんなと友達だった。僕らが、ジョージ・ハリスン、ポール・マッカートニー、マーク・ボラン、ハリー・ニルソンと、地下スタジオでマリファナを吸いながらセッションしたテープを、ミッキーが持ってるよ。幾晩も楽しい夜を過ごしたものさ。
僕らはもちろんビートルズの大ファンだったし、僕は「ペニーレイン」が好きで5000回は聴いた。
モンキーズは「作られたグループ」と言われたけど、僕に言わせれば、ビートルズこそ最初の「作られたグループ」だった。ブライアン・エプスタインは、ピート・ベストをクビにして、リンゴ・スターに代えた。そして、同じ服を着せ、同じ髪型をさせて、ああしろ、こうしろとビートルズを指導して、それで人気グループになったわけだからね。
それにしても、ジョージが過小評価されてたのは残念だったね。サムシングとか、マイ・スイート・ロードとか、あんなに素晴らしいソングライターだったのに。
ビートルズに関して、最近、がっかりさせられたのは、ポールが「レノン=マッカートニー」のクレジットを「マッカートニー=レノン」に変えたことだな。ジョンの死は、父の死と同様のショックだったからねえ、僕にとっては。
Davy Jones Talks About The Beatles
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モンキーズの流れがわかる4曲
恋の終列車(日本語訳つき)(1966)
What Am I Doing Hangin' Round?(1967)
Dayderam Believer(1968)
Listen To The Band(1969)
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以下の動画を参照しました。
<参考>
