「創価学会政権」に備え、「囻(クニ)」の字を学ぶ なぜメディアは創価に甘いのか
急に選挙ムードですね。
昨日の朝も、町内会の知り合いから電話が来て、
「選挙のことですが・・」
と言うから、
「来た! これが創価学会の、噂に聞くフレンド票というやつか!」
と身構えたんだけど。
投票所の設営を手伝ってもらうかも、という話。
立会人とか、いろいろ人手がいるらしい。
今のところ人手は足りてるけど、もしかしたら手伝ってもらうから、投票日(2月8日)に体が空いているかどうかの確認でした。

こういうふうに、わりに地域の老人は、選挙ムードに早くから巻き込まれる。
これは、現役時代には知らなかったことですね。
老人の投票率が高いのは、そういうこともある。
今度の選挙は、若者の投票率が高ければ、高市の勝ち。
若者の投票率が低ければ、高市の負け(反高市の勝ち)ですね。
若者次第。
例)物価高への高市首相の対応への評価(朝日新聞世論調査を年齢別に補正、左から賛成、反対、他)

Q12.物価高への高市首相の対応を評価するか?評価する39%、しない47%の年代別割合(左から、評価する、しない、他) pic.twitter.com/McD5wzAIxi
— 楊井人文 Yanai Hitofumi (@yanai_factcheck) January 20, 2026
私は高市支持だから、高市が負けたら、若者のせいだと若者をなじる。
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まあ、若者は当てにならない。
雨が降ると投票所に来ないし、天気がいいとどっか遊びに行っちゃう。
老人はみんな(ヒマだから)投票に行く。
だから、「創価学会政権」が誕生する可能性が大いにあります。
自民党との連立の時のように、ほんの一部を担うだけでなく、「斉藤総理」がありうる。
それに備えて、昨日はちょっと調べてた。創価学会=公明党って、いったい何がしたいのか、って。
創価学会は、日本という国家を、どのように考えているのか。
それで知ったのが、「囻(クニ)」という字。
創価学会では、「国」ではなく、「囻」と書く。
クニがまえの中が、「玉」ではなく「民」。
創価学会では、というか、もともとは、日蓮(創価的には「大聖人」)が「立正安国論」(1260年)で使った字です。
創価学会のHPでは、こう説明しています。
「立正安国論」における「国」とは、権力を中心にした統治機構という面とともに、より一歩深く、民衆の生活の基盤としてとらえられています。その意味で、人間が形成している社会体制だけでなく、自然環境の国土も含まれます。
大聖人が民衆を中心に国をとらえられていたことは、「立正安国論」の御真筆において、国を意味する漢字を書かれる多くの場合に、国構えに民と書く「囻」の字を用いられていることにも、うかがうことができます。
でも、この「囻」という字、よく見てください。
「囻」
立憲「民」主党を、囲い込む、という意味に思えてきます。
民主党を取り込んで、クニを作る。政権を取る。
さすが大聖人、800年前に、創価学会の政略を予言してたんですね。
*
とか、真面目な教義を茶化してると、怒られますけどね。
実はうちも日蓮宗なんですよ。
創価じゃないほうの日蓮宗。
だから、日蓮には、子供の頃からそれなりに親しんでいる。
法事のたびに、日蓮宗のお寺で、日蓮上人の事績を描いた堂内の絵を眺めています。
創価学会=公明党は、なんであんな政治を熱心にやるかというと、やっぱり日蓮の教えを広めたいわけでしょ。
それはエライと思うんですよ。
うちのお寺なんか、まったく日蓮の教えを広めてくれません。
法事ってのは本来、仏教の教えを広めるための手段のはずだけど、もう自己目的化してて、寺の坊主も、ただスケジュールをこなすだけ、みたいになっている。
創価学会は、そういう意味ではエライ。
そのわりに、俺のとこには祈伏に来ない。
話題のプルデンシャル生命には勧誘されたことがあるのに、創価には一度も勧誘されたことがない。
いや、小学生の頃に一度だけ、マスゲームの映像を見せられたことがあるな。でも、あれは、母親が勧誘されてたついでみたいなものだった。
計算上は、日本国民の10人に1人は創価学会員のはずなのに、あんまり接触がなかった。すれ違ってはいたんだろうけど。
日蓮の教えを、一人ずつつかまえて説いてたのでは、まどろっこしいから、政権を取って、一気に広めちゃえ、ってことかな。
それで公明党なんてのを作ったのかな。
その目的は、布教ーー創価学会がいう「広宣流布」の一環のはずですよね。
実際、創価学会は、昔は「国立戒壇(こくりつかいだん)」ってことを言って、それを目標にしていた。
「戒壇」というのは、キリスト教でいえば、大聖堂みたいなものでしょ。
まあ、ガウディのサグラダ・ファミリアみたいなやつ。
日蓮宗の「大聖堂」ーーそれを、国に作らせる。
そして、最終的には、国民全員が、天皇も、皇室も、その檀家になる、というーー。
今でも、狭い意味での「国立戒壇」は、そういう意味です。
でも、それは現憲法下では、政教分離を定めた20条に違反する、と1970年に、日本共産党に国会で指摘された。
日本国憲法第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
それで、創価学会は、「国立戒壇」の主張を引っ込めた、ことになってるんだけど、じゃあ公明党は、何のために政治活動をやっているのか。
創価学会は、共産党の批判に対して、当時こう答えています。
一時、本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、(中略)建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。
そこで出てくるのが、「囻」の文字なわけですよ。
創価がいう「国立」の「国」は、今の国家権力のことではない。
日蓮も「国」ではなく、「囻」という字を使った。つまり、クニの主体は国家権力ではなく、民衆である、と考えていた、と。
だから、創価がいう「国立」とは、「囻立」、つまり、民衆が立てる、という意味だ、と。
そして、平成時代になって、池田大作はこう言っている、とwikiにあります。
池田は平成時代に入ると「戦後民主主義体制で主権在民になった以上、民衆の意思が『勅宣・御教書』に代わるものである」「正宗を国教にするとかえって一国化し、大聖人の御精神に反してしまう」と説明。この問題を広義の国立戒壇論で決着することを目指した
この「広義の国立戒壇論」を、佐藤優なんかも支持しているようですが、わかったようでわからない話ですね。
国家権力が上から押し付ける、日蓮宗の「国教化」はよくないけど、民衆が主体になった国教化ならいい、みたいに聞こえるんですね。
だったら、民主主義下の選挙で、政権を取ったなら、民意を得たのだから、創価の教えを「国教化」してもいい。
日蓮の意思にも沿うことになる。
ーーという考えにならないか。
そういう理屈で、憲法20条違反が回避できるのか、知らないけれど。
でも、「民意を得る」ことが大事、という、こういう考えが、彼らが選挙に熱心になる原動力になってる気がする。
*
前にも書いたけど、こういうふうに、「国家」と「民衆」を対立的に考える図式、それが創価学会=公明党の思想の特徴に、私には思えます。
そして、そういう考え方が、いわゆる戦後民主主義や、オールドメディアの考え方に適合的なんです。
だから、創価学会=公明党は、オールドメディアにも、戦後左翼にも、あまり批判されない。
むしろ後援されている。その理由になっていると思います。
それもわかるんです。
日本は、敗戦によって、「国家」の威信が地に墜ちました。
私が研究している、「兵隊作家」火野葦平も、戦後すぐの小説(公職追放中の作品)で、こう書いています。
日本人、民族、人種、言語、その結いめぐらされた垣が、人間の不幸をつくること、戦争の因となることは明瞭だ。僕は日本人として祖国を愛する。陛下のために、命を棄てることも悔いなかった。しかし、なにかで読んで憶えているが、トーマス・マンのいったように、国家などといっている間は、人間に不幸は絶えぬという言葉にもはげしく共感する。これこそが、人間の青春を破壊している真の泥濘かもしれない。
(火野葦平「青春と泥濘」)
「国家などといっている間は、人間に不幸は絶えぬ」
戦時中、兵隊作家として、「国家意識」高揚の一翼を担ったはずの火野が、こんなふうに書いている。
これが、日本の戦後思想の原点、エッセンスであり、ここでの火野の思想は、創価学会=公明党の思想に近いんじゃないかと思う。
戦後日本人は、「国家」を目の敵のようにして、生きてきた。
国家は民衆の敵だ、という図式を基本に世界を理解してきた。
でも、そろそろ、それをやめて、日本「国家」の威信を取り戻し、次世代に引き継ぐべき時ではないか。
そう思うから、私は年寄りだけど、「高市派」です。
若者は投票に行ってくれ。
<参考>
