見出し画像

「創価学会政権」に備え、「囻(クニ)」の字を学ぶ なぜメディアは創価に甘いのか

急に選挙ムードですね。

昨日の朝も、町内会の知り合いから電話が来て、

「選挙のことですが・・」

と言うから、

「来た! これが創価学会の、噂に聞くフレンド票というやつか!」

と身構えたんだけど。


投票所の設営を手伝ってもらうかも、という話。

立会人とか、いろいろ人手がいるらしい。

今のところ人手は足りてるけど、もしかしたら手伝ってもらうから、投票日(2月8日)に体が空いているかどうかの確認でした。


柿生駅前の選挙掲示板(2026年1月21日撮影)


こういうふうに、わりに地域の老人は、選挙ムードに早くから巻き込まれる。

これは、現役時代には知らなかったことですね。

老人の投票率が高いのは、そういうこともある。


今度の選挙は、若者の投票率が高ければ、高市の勝ち。

若者の投票率が低ければ、高市の負け(反高市の勝ち)ですね。

若者次第。


例)物価高への高市首相の対応への評価(朝日新聞世論調査を年齢別に補正、左から賛成、反対、他)

楊井人文氏のXポストより


私は高市支持だから、高市が負けたら、若者のせいだと若者をなじる。



まあ、若者は当てにならない。

雨が降ると投票所に来ないし、天気がいいとどっか遊びに行っちゃう。

老人はみんな(ヒマだから)投票に行く。

だから、「創価学会政権」が誕生する可能性が大いにあります。

自民党との連立の時のように、ほんの一部を担うだけでなく、「斉藤総理」がありうる。


それに備えて、昨日はちょっと調べてた。創価学会=公明党って、いったい何がしたいのか、って。

創価学会は、日本という国家を、どのように考えているのか。


それで知ったのが、「囻(クニ)」という字。

創価学会では、「国」ではなく、「囻」と書く。

クニがまえの中が、「玉」ではなく「民」。

創価学会では、というか、もともとは、日蓮(創価的には「大聖人」)が「立正安国論」(1260年)で使った字です。


創価学会のHPでは、こう説明しています。


「立正安国論」における「国」とは、権力を中心にした統治機構という面とともに、より一歩深く、民衆の生活の基盤としてとらえられています。その意味で、人間が形成している社会体制だけでなく、自然環境の国土も含まれます。
大聖人が民衆を中心に国をとらえられていたことは、「立正安国論」の御真筆において、国を意味する漢字を書かれる多くの場合に、国構えに民と書く「囻」の字を用いられていることにも、うかがうことができます。


でも、この「囻」という字、よく見てください。

「囻」


立憲「民」主党を、囲い込む、という意味に思えてきます。

民主党を取り込んで、クニを作る。政権を取る。

さすが大聖人、800年前に、創価学会の政略を予言してたんですね。



とか、真面目な教義を茶化してると、怒られますけどね。

実はうちも日蓮宗なんですよ。

創価じゃないほうの日蓮宗。

だから、日蓮には、子供の頃からそれなりに親しんでいる。

法事のたびに、日蓮宗のお寺で、日蓮上人の事績を描いた堂内の絵を眺めています。


創価学会=公明党は、なんであんな政治を熱心にやるかというと、やっぱり日蓮の教えを広めたいわけでしょ。

それはエライと思うんですよ。

うちのお寺なんか、まったく日蓮の教えを広めてくれません。

法事ってのは本来、仏教の教えを広めるための手段のはずだけど、もう自己目的化してて、寺の坊主も、ただスケジュールをこなすだけ、みたいになっている。


創価学会は、そういう意味ではエライ。

そのわりに、俺のとこには祈伏に来ない。

話題のプルデンシャル生命には勧誘されたことがあるのに、創価には一度も勧誘されたことがない。


いや、小学生の頃に一度だけ、マスゲームの映像を見せられたことがあるな。でも、あれは、母親が勧誘されてたついでみたいなものだった。

計算上は、日本国民の10人に1人は創価学会員のはずなのに、あんまり接触がなかった。すれ違ってはいたんだろうけど。


日蓮の教えを、一人ずつつかまえて説いてたのでは、まどろっこしいから、政権を取って、一気に広めちゃえ、ってことかな。

それで公明党なんてのを作ったのかな。

その目的は、布教ーー創価学会がいう「広宣流布」の一環のはずですよね。


実際、創価学会は、昔は「国立戒壇(こくりつかいだん)」ってことを言って、それを目標にしていた。

「戒壇」というのは、キリスト教でいえば、大聖堂みたいなものでしょ。

まあ、ガウディのサグラダ・ファミリアみたいなやつ。

日蓮宗の「大聖堂」ーーそれを、国に作らせる。

そして、最終的には、国民全員が、天皇も、皇室も、その檀家になる、というーー。

今でも、狭い意味での「国立戒壇」は、そういう意味です。


でも、それは現憲法下では、政教分離を定めた20条に違反する、と1970年に、日本共産党に国会で指摘された。


日本国憲法第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


それで、創価学会は、「国立戒壇」の主張を引っ込めた、ことになってるんだけど、じゃあ公明党は、何のために政治活動をやっているのか。


創価学会は、共産党の批判に対して、当時こう答えています。


一時、本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、(中略)建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。


そこで出てくるのが、「囻」の文字なわけですよ。

創価がいう「国立」の「国」は、今の国家権力のことではない。

日蓮も「国」ではなく、「囻」という字を使った。つまり、クニの主体は国家権力ではなく、民衆である、と考えていた、と。

だから、創価がいう「国立」とは、「囻立」、つまり、民衆が立てる、という意味だ、と。


そして、平成時代になって、池田大作はこう言っている、とwikiにあります。


池田は平成時代に入ると「戦後民主主義体制で主権在民になった以上、民衆の意思が『勅宣・御教書』に代わるものである」「正宗を国教にするとかえって一国化し、大聖人の御精神に反してしまう」と説明。この問題を広義の国立戒壇論で決着することを目指した


この「広義の国立戒壇論」を、佐藤優なんかも支持しているようですが、わかったようでわからない話ですね。

国家権力が上から押し付ける、日蓮宗の「国教化」はよくないけど、民衆が主体になった国教化ならいい、みたいに聞こえるんですね。


だったら、民主主義下の選挙で、政権を取ったなら、民意を得たのだから、創価の教えを「国教化」してもいい。

日蓮の意思にも沿うことになる。

ーーという考えにならないか。

そういう理屈で、憲法20条違反が回避できるのか、知らないけれど。

でも、「民意を得る」ことが大事、という、こういう考えが、彼らが選挙に熱心になる原動力になってる気がする。



前にも書いたけど、こういうふうに、「国家」と「民衆」を対立的に考える図式、それが創価学会=公明党の思想の特徴に、私には思えます。

そして、そういう考え方が、いわゆる戦後民主主義や、オールドメディアの考え方に適合的なんです。

だから、創価学会=公明党は、オールドメディアにも、戦後左翼にも、あまり批判されない。

むしろ後援されている。その理由になっていると思います。


それもわかるんです。

日本は、敗戦によって、「国家」の威信が地に墜ちました。

私が研究している、「兵隊作家」火野葦平も、戦後すぐの小説(公職追放中の作品)で、こう書いています。


日本人、民族、人種、言語、その結いめぐらされた垣が、人間の不幸をつくること、戦争の因となることは明瞭だ。僕は日本人として祖国を愛する。陛下のために、命を棄てることも悔いなかった。しかし、なにかで読んで憶えているが、トーマス・マンのいったように、国家などといっている間は、人間に不幸は絶えぬという言葉にもはげしく共感する。これこそが、人間の青春を破壊している真の泥濘かもしれない。
(火野葦平「青春と泥濘」)


「国家などといっている間は、人間に不幸は絶えぬ」

戦時中、兵隊作家として、「国家意識」高揚の一翼を担ったはずの火野が、こんなふうに書いている。

これが、日本の戦後思想の原点、エッセンスであり、ここでの火野の思想は、創価学会=公明党の思想に近いんじゃないかと思う。


戦後日本人は、「国家」を目の敵のようにして、生きてきた。

国家は民衆の敵だ、という図式を基本に世界を理解してきた。


でも、そろそろ、それをやめて、日本「国家」の威信を取り戻し、次世代に引き継ぐべき時ではないか。

そう思うから、私は年寄りだけど、「高市派」です。

若者は投票に行ってくれ。



<参考>



いいなと思ったら応援しよう!