いい人失格。「大丈夫?」の裏側で、私は夕飯の献立を考えている。
「あなたはいい人か?」と聞かれたら、私はなんと答えるだろうか?
「そこまで悪人ではない」と答えるだろうか?
いい人とはどういう人なのだろうか?
自分よりも人のことを大切にする人?それができる人のこと?
いや、そんな人いるのか?
本当にいるのか?
「いや、他人にはできなくても、家族にならできる。」
そう答える人もいるかもしれない。
でもそれは本当か?
それも実は嘘ではないのか?
しょせん人間なんて、自分が一番大切なのではないか?
自分が一番かわいいのではないか?
実はそうなのではないか?
自分の子供や親のことが一番大切と言いながらも、本当の心の中は自分がかわいいのではないか?
そんなふうに思ってしまう。
少なくても私は、そういう人間なのではないだろうか?
そう思ってしまうのだ。
これはただ私は「いい人」ではない、「いやな人間」だからだろうか…。
そうなのだろうか…。
たとえば、自分の子供が病気になったとしよう。
その時、どう思う?
心配?
かわいそう?
確かにそう思うだろう。
その気持ちは嘘ではないはずだ。
でも…ほんとうにそれだけか?
「どうしよう……」
「困ったな……」
その気持ちもあるのではないか?
同時に浮かんでるのではないか?
看病が大変だな
病院に行かないといけないな
仕事はどうしよう?
家のことはどうしよう?
明日はどうなる?
いつまでかかるかな?
どこの病院にいこうか?
あそこは混んでるな
下の子の面倒はどうしよう
今日の夕飯はどうしよう
買い物はどうしよう
やるはずだった予定はどうしよう
どうしよう、どうしよう、どうしよう
困ったな、困ったな、困ったな
目の前で具合の悪そうなわが子を見ながら、
同時に頭の中ではぐるぐると「どうしよう、困ったな」
これでいっぱいなのではないか?
こんなふうに思ってしまうのは私が「いやな人間」だからなのだろうか。
子供だけではない。
親に対してもそうだ。
「足が痛い、腰が痛い」
親も年を取るといろいろなことを言ってくる。
親の場合は無条件で自分の仕事になるわけではない、
だから「聞かないふりもできる」。
でも「痛い痛い」という親をほっておくことはなかなかできない。
これは
「心配でかわいそう」だからか?
そうかもしれない、でも同時に「罪悪感」からなのではないか?
ほっておくことへの罪悪感、これが自分を動かしてはいないか?
これって決して「いい人」ではない、「どこまでも自分勝手な人間」ではないか?
こんなことを思って行動する自分、こんな人間は決して「いい人」ではないのだと思う。
そして、そんな自分を嫌悪する。
こんな動機でしか動けないのか、私という人間は……と。
でも思うのだ、これは私だけなのだろうか。
私が特別に嫌な人間だということか?
そうなのだろうか?
思い出す、親のことを。
自分が小さかった時、自分の親はどうだったのだろうか?
私が病気になったり、何かめんどくさい問題を持ち込んだ時、どうおもったのだろうか?
心配と同時に、やっぱり同じように思ったのではないだろうか。
もう今となってはわからないけど。
結局、そう考えると、親孝行というのは「親に心配や迷惑をかけないこと」だったりする。
そう「迷惑」なのだ。「心配」をかけることは、迷惑なのだ。
親子でこうなのだから、
他人ではもっとそうだ。
「人に迷惑をかけないこと」
そう、「誰かを心配させる」ということは「迷惑をかける」ということなのだ。
そうなると、結局、本来人間は「自分のこと」しか心配できないのではないか?
自分のことだけで手一杯なのではないか?
自分のことだけしか考えられていないのではないか?
そういう生き物として作られてるのではないだろうか。
でも、それでも、目の前に困っている人、弱ってる人がいたら、
「困ったな…どうしよう」と心の中で思いながらも、その心を隠し、
「大丈夫?」と声をかける。
私はこれからもそうするだろう。
これは私だけだろうか?
こんなふうに考える私は、ものすごく「不完全な人間」なのだろうか?
もしかしたら、多くの人がそんな等身大の自分を隠して生きているのかもしれない。
でもそれでも、本心を隠しながらも「大丈夫?」と声をかけ、目の前で困っている人に声をかけて、自分のできる最大限のことをする。
偽善であっても、そうする。
みんながそうやって、不完全なまま偽善の助け合いをする。
それでもそこにはちゃんと「助け合い」はあるし、それでいいのだと思う。 それが人間という生き物なのかもしれない。
