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情報生活デザイン #3: もしスマホが「わたし」の幸せを優先してくれたら? その2

前回は、
もし、スマホが広告主やプラットフォーマーのためではなく、
「わたし」の幸せを本気で最優先してくれたとしたら、
という思考実験、
その1として
文化の享受:「わたし」にとっての「良い」作品をすべて味わうこと
について考えてみました。
今回はその2
社会との連携: 「わたし」にとっての「有意義な」関係性を増やすこと
について考えてみます。

2. 社会との連携:
「わたし」にとっての「有意義な」関係性を増やすこと

人との出会いについては、
「ITの世話なんか要らない! 間に合ってます!」
という方も多いでしょう。

私もそうでした。
「一期一会」。「セレンディピティー」。
人との出会いは IT で「最適化」できるようなものじゃないですよね。
大事な人との出会いはまさに「奇跡」です。

ただ、最近、起業を目指す中で、
今まで以上に「出会い」を積極的に求めるようになったこともあり、
いや、もしかすると、なんかできるんじゃないかな、、、
と思い始めたんです。

もし「わたし」の完全な味方がいてくれれば、
もう少し「奇跡」のチャンスを増やす方法があるのではないかと。

(1) 私の想い描く、豊かな社会

たとえば、私は、
子供とおじいさん・おばあさんが接するのを見るのが、
好きです。

お使いで野菜を買いに来た小学生と、八百屋のおじさん。
そのやり取りで、大した会話はなかったとしても、
なぜかほっこりします。

でも、今の暮らしの中で、そういう場面は、だんだん減ってきました。
親世代にも、子世代にも、それぞれの事情があって、
世代を越えて自然に交わることができる機会は、
どんどん少なくなってきているように思います。

どうしたら、そんな場を作れるか。
想像してみます。

たとえば、近所の寺子屋に来ている子供の中には、
コンピューターに興味があって、
詳しい人の話を聞いてみたい、
という子がいるかもしれません。

私は、コンピューターには少し詳しいです。
その子が聴きたいことを話してあげられるかもしれません。

また別の日には、
近所の集会所に来ている高齢者の中には、
囲碁を打ちたいと思っている方がいるかもしれません。
でも、まわりに碁打ちがいなくて、寂しく思っている。

私は、囲碁も少し打てます。
だから、もしその場に居合わせたら、
その方と一局打つことになるかもしれません。

・・・ただ、誤解のないように言えば、
私はつねづね、
子どもにコンピューターを教えたい、
と思っているわけでも、
高齢者と囲碁を打ちたい、
と思っているわけでも、ありません。

もしそれが、世代を越えて誰かと関わるきっかけになるのなら、
やってみたい。

そんな一人ひとりのちょっとした願いを
ひとつづつ、拾ってつないでいくことができれば、
結果として、世代間の接点も増えていくんじゃないか・・・

つまり、私の望みは「つなげる」ことなのです。

(2) 人それぞれの「つながりたい」気持ち

人々の「つながりたい」気持ちは、
いろいろなかたちで存在しています。

フリーマーケットに足を運ぶ人は、
掘り出し物を探す楽しさだけでなく、
人のいる場で、やりとりすること自体を楽しむ、
そういう部分も大きいと思います。

シェアハウスを選ぶ人は、
誰かと空間を共有する暮らしに、
一定の心地よさを感じているはずです。

地域のボランティアに参加する人は、
何かの役に立てるという実感だけでなく、
同じ場で誰かと動いているという感覚に
価値を見いだしているのかもしれません。

同人誌即売会のようなイベントに参加する人も、
単に作品を売る・買うだけではなく、
好きなものを共有する場に身を置くこと自体を、
楽しみにしているのだと思います。

ペットの散歩中に、
同じ時間にすれ違う人と言葉を交わす、
というような日常の中にも、
ちょっとしたつながりの場が存在しています。

社会との関わり方は、人それぞれ違います。
でも、
「誰かと何かを共にする機会が、たまにはほしい」
と思っている人は、
決して少なくないのではないでしょうか。

(3) 今の仕組みに足りないこと

「つながり」の種類によっては、
ビジネスとして成立しているものもあります。

例えば、囲碁を打ちたいだけであれば、
碁会所というビジネスがあります。
また、ネット碁もあります。

ただ、冒頭の例で登場した高齢者の方は、
碁会所ではなく、近所の集会所で過ごしたいのです。
ご近所さんと一緒に。
ネット碁にも興味ありません。
その場所で、ご近所さんとおしゃべりしながら、
ときどき囲碁を打ちたいのです。

また、コンピューターのことを知りたいだけならば、
パソコン教室というビジネスがあります。
youtube や生成AI で学ぶこともできます。

でも、その子は、
パソコン教室じゃなく、寺子屋で過ごしたいのです。
友達と一緒に。
そして、少しだけ、コンピューターに詳しい人と、
直接、話してみたいだけなのです。

どちらの例でも、「したいこと」自体は、はっきりしています。
けれど、それを「どこで、誰と」まで含めて考えると、
今の仕組みのなかでは、ちょうどいい選択肢が見つかりません。

人が求めているのは、情報やスキルそのものではなく、
「どこで」「誰と」共有するかという、
「文脈」と「場」なのだと思います。

(4) もし信頼できる仲人・コーディネーターさんがいてくれたら

例えば、私のことをよく理解している、仲人・コーディネーターさんが
いてくれるとします。

私が多世代交流に関心があることも、
コンピューターや囲碁が少しできることも、
その人は知っています。

ある日、その人がこう言います。

「寺子屋に、コンピューターのことを聞きたい
という子が来ているようですよ」

また別の日には、こう教えてくれます。

「集会所に、囲碁を打ちたいけど相手がいない
という方が来ているようですよ」

私は、コンピューターを教えたいと名乗り出たわけでも、
碁を打ちたいとアピールしたわけでもありません。
でもその人は、
「あなたが行けば、『いい出会い』につながるかもしれませんね」
と、そっと知らせてくれるのです。

私の中にある小さな関心や余白を、
誰かの願いと、うまく結びつけてくれる。

そんなふうに、「つながる可能性」を見つけてくれる存在がいたなら、
わたしたち一人ひとりにとって、
世界との関係が今より少しだけ、
「豊か」になるかもしれません。


次回は3つ目の視点として
思考の深化:「わたし」にとっての「確かな」知を体系化していくこと
について考えてみます。


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