今更ながら、芥川賞とは何か?:「時の家」、「叫び」レビュー
web上に、こうした文章をあげるようになってから夏冬の文春芥川賞掲載時に、レビューを書き続けてきた。そしてここ数年、ずっと心に沁み入る作品に出会えないことを嘆き続けてきた。「新しい人」の登場に関心を有し、期待もしているのだが、受賞結果と自身の感性とが重ならず、数えで古希を過ぎた自分の感受性の衰えを自覚するしかないのかと思うようにもなっている。
芥川賞とは何か。今期の芥川賞2作品を読了後、今更ながらあらためて、そうした問いを自分自身に投げかけて、いくつかのことを考えてみた。
そもそも芥川賞とは、新人の登竜門。傑出した作品が選ばれるわけでは決してない。将来性、執筆の動機、新たな視点、そうした可能性への期待がこめられ授与されるものだろう。何年かのスパンで入れ替わる選者たちからして、そうしたスタンスで候補作に接しているはずである。筆力を有していて新味や将来性さえあればよし。作品としての面白さより、優先されるべきは内在すると見込まれた創作力、未来への予感のはずである。そのことを私はずっと見誤っていたのかも知れない。今回の2作品に接し、そうした感想を強く持った。
鳥山まこと「時の家」、畠山丑雄「叫び」、この2作品が令和7年下半期第174回芥川賞受賞作である。佇まい、2作品とも立派な印象である。ひたすら内向的な「時の家」と大阪弁を交えてスピード感あふれる「叫び」。選評を読む限り、選者一致して2作を評価してはいないが、それでも2作の質の高さへの受け止めかたは概ね共通している。
なるほど「時」を内側に向けて掘り下げた「時の家」と、歴史に結びつけながら大きく拡げていく「叫び」と、一見対照的な「時間」への凝視が主題の2作で、結果そのものからして興味深い面白さである。読んでいて分からない、ということはない。どう書こうとしているのか、何を訴えようとしているのか、それはハッキリと読み取れる。しかし、2作品とも、やはり、ここ数年の同賞受賞作と同じく、個人的には刺さるものがない。読み終わっての感動、いい読書時間だったな、というものがやってこない。あぁ、そうですか、これが今期の芥川賞なんですね、という感想でしかない。これは、やはり老いによる感性の衰えなのだろうか。
「時の家」は、難解な仕上がりの作品であると思う。家仕舞いをまかされた「青年」が、その家に内在する三世代の暮らしを思い描き、その思い描いているに過ぎないはずの時空が、あたかも実際の過去として立ち現れる。時制も人物も、何の断りもなく融通無碍に作品内を行き来する。読みながら、この母は、あの母と同じか、別か、と考えさせられる。時空のパズルは、本来そうしたもので、その手触りを文字として、物語として定着させている。しかし、そのようにして、「青年」自身と何の関わりも持たない三つの世代の住人たちに思いを馳せることに何の意味があるのか。それを語り聞かされる読者は、どこに共鳴すればいいのか。選者の山田詠美は、谷川俊太郎の詩が引用されて以降、作者の狙いを理解し、後半「心に沁みる部分にぶつか」ったと選評に記している。しかし個人的には、そうは読めなかった。そもそも谷川俊太郎の詩の使い方が、あまりにとってつけたようにしか受け取れなかった。谷川俊太郎の詩の世界への深い共振や尊敬が感じられなかった。もっと切実に向き合ったのでなければ、引き合いに出す必然性が見出せない。安易に寄りかかるだけなら引用などしないで欲しかった。「時」の実相を描き出そうとする意欲とその意匠には敬意を表する。
一方の「叫び」、自分の周囲には、本作を力作として評価する同好の士が複数いる。熱く読後感を語られもした。土着の歴史時間を、今日性に彩られた「万博」と繋ぎ合わせ、戦後史とも連結させて、しかも銅鐸による「音」まで響かせる。筆者の力量の深さを感じさせる作品世界で、メッセージも明瞭。・・・そうなのかなぁ。選者吉田修一は「圧巻」、「饒舌の底の知的な寡黙が響いてくる」候補作である、「手際はエレガント」とまで書いて、激賞である。しかし、この作品が描く「聖」とか、とくに結末部とか、本作を評価する読者たちは、みな共鳴し、納得しているのだろうか。とりとめがなさ過ぎはしないか。「聖」を語るなら、もっと深く、真摯に熟考し、「聖」なるものが象徴するものを深く豊かに構築して欲しかった。あれこれ詰め込めこんでおけばいい、というものではないだろう。そしてなんのためのラストシーンなのか、あちこち飛び跳ねて行き着いた場所の風景を、理解はしよう、しかし個人的には全く納得できなかった。
だったら、自分の好きなものだけ読んでいればいいでしょ、と言われるかも知れない。ブツクサ言うなら読まなきゃいいのに。そんな声が聞こえてくる。確かに。しかし、自分は誰にも引けを取らない新しもの好きだし、心から「新しい人」の登場を待望している。このたびの「芥川賞」は、どんなだろう。そうした関心を消すことはできない。だったら、どんな小説がいいって言うんだ、という問いには、すでに何度も答えを返している。芥川賞作品ではなかったが、ある日突然松家仁之の『火山のふもとで』が目の前に現れて、心酔した。そういう出会いを待っている。答えはいつも同じ。
芥川賞とは何か、を改めて考えてみると、いつも不平不満になるのは致し方ない。自分自身が求めているものとの乖離を深く認識しなければならない。私は、文弱なのだろう。老いは、どうもなにやら「偏屈」と同義のようである。やれやれ(笑)。
参考
松家仁之『火山のふもとで』レビュー
https://note.com/kamakurah/n/n2d9844b99302?sub_rt=share_b
