親父と俺(26)週末の星飛雄馬
さて、今年の年頭の話から、小学校時代に戻りましょうかね。親父の単身赴任の2年目。私が小学4年生の頃。私はスポーツ少年団に入団した。
「リトルジャイアンツ大洲(通称「リトル」」
かっこいい名前でしょ。僕が小学2年生の頃に誕生した。その前もあったのだが、名前はただの「大洲小」だったと思う。要は、大洲小学校の男子の部活って感じだったが、新しい名前になっていた。その経緯はよくわからないが、まあ、かっこよかった。
名前は、当時の日本では、プロ野球のテレビ中継は「巨人戦」しかやってなかったので、基本的にみんな巨人好き。
「小さな巨人」
と名乗るのは、ある意味自然だったと思う。リトルタイガースとか、リトルドラゴンズでは、みんなまとまれないというかね(笑)。
リトルジャイアンツの結成というのは、当時結構大きな意味があったんじゃないかなと思う。なぜなら、2つ上の学年って、大洲南中野球部として四国大会準優勝した。今思えば、明らかにレベルが一段上がったわけで、それは小学校の時のソフトボールの強化の本格化がベースになったんじゃなかろうか。
1つ上の学年には、近所のお兄ちゃん・元永知宏さんがいた。
今、売れてます。買ってね(笑)。
4年生になって、リトルに入団した。背番号は自分で選べるので
「14」
にした。「1番」にせんのかとか親父に言われたような気がするが(笑)、
「澤村栄治」
の14番だったんです。自分なりのこだわりはあった。後から、この番号にしなきゃよかったと思うことになるのだが(涙)。
親父は、学校の先生だったせいか、私らの学年のコーチの1人になった。最初は名前だけで、なにもするつもりはなかったようだが。。。
最初の大洲市の夏の大会は、4年生だけのチームは1回戦を勝って、2回戦で負けた。僕はライトで8番だったんですよね。
まあ、補欠がたくさんいたので、レギュラーで出るだけで大したものだったのだが、脇役扱いだった。自分もほとんどこの大会のことは覚えてない。
ところが、親父は松山に単身赴任中だったのだが、ほぼ毎週末大洲の家に帰ってきていた。その親父が、どういう経緯だったか名前だけのコーチだったのに、週末グラウンドに来て、私らの学年のチームの指導をするようになった。
ご存じの通り、大洲の小学校のサッカーなどの大会で、山の小さな小学校のチームを率いて、市の中心校の強豪チームを破る
「ジャイアント・キリング」
を得意技にしていた親父だ。指導はうまい。私を含む子どもたちの目の色が変わった。
ただ、親父は家に帰ると、あることを私にやらせ始めた。
ソフトボールのピッチング練習をさせ始めたのだ。
例によって、最初はうまくできないのだが、親父はあきらめない。
毎週末、毎週末、家の前の広場で、親子2人の投球練習が続く、続く、続く。。。。。
私は、親父がやれというまま、投球練習を続けた。それはまるで
「週末の星一徹・飛雄馬親子」
であった。まあ、時は昭和。親父は多分に「巨人の星」を意識していたと思う(笑)。
そのうち、リトルのコーチになっていた親父は、リトルの練習でも、私をマウンドに立たせるようになった。
それでは、またね。
