【日本には寄付文化がないって本当ですか?①】



最近、こんな話をよく見かけます。
「日本には寄付文化がない」
日米英韓、個人寄付の総額を並べてみます。

アメリカの個人寄付総額は、日本の約29倍です。
経済規模も人口も違う国同士なので、単純な金額比較がすべてではありません。
でも、この桁違いのインパクトは、まず素直に受け止めていいと思います。


では、経済規模の違いを差し引いて、名目GDPに占める割合で見たらどうでしょうか。(上図参照)
日本:0.33%
韓国:0.50%
イギリス:0.54%
アメリカ:2.00%
金額を経済規模で正規化しても、日本は主要国の中で最も低い水準です。
アメリカとの差は縮まっても、韓国・イギリスの6割程度にとどまります。
つまり「日本が経済規模の割に寄付が少ないのは、単に国が大きいから」ではありません。
規模を揃えてもなお、ギャップは残ります。
たしかに、数字だけ見れば圧倒的です。
でも――
その数字は、何を測っていないのかを、まず考えてみたいと思います。



シンシンとライライ。
2頭の名前を、続けて読んでみてください。
シンシン、ライライ。
「信」+「頼」=「信頼」。
この2頭は、もともとひとつの言葉が分かれてできています。



シンシンとライライを合わせると、「信頼」になります。
でも、この「信頼」という言葉、実はもう少し分解できます。
社会心理学者・山岸俊男は、 私たちが普段まとめて「信頼」と呼んでいるものの中に、 性質のまったく違う「安心」と「信頼」が 混ざっていることを指摘しました。
「安心」とは、 すでに知っている相手、 すでに保証された関係の中で感じる、心地よさです。
「信頼」とは、 まだ知らない相手に、 リスクを取って賭けに出る力です。
山岸の実験では、驚くべき結果が出ています。
「たいていの人は信頼できる」と考える人の割合―― アメリカ人は47%。 日本人は、たった26%。
日本人は、信頼していないのではありません。 "安心"の中に、留まり続けているのです。
では、その「すでに保証された関係」とは、具体的に何を指すのでしょうか。



家(イエ)。 会社(カイシャ)。 国家。
戦後日本は、この3つの容れ物の中に、 与え合いのエネルギーを、ずっと溜め込んできました。
家族の中の、介護や仕送り
会社の中の、住宅手当や慶弔金、終身雇用という支え合い
国家の中の、税と社会保障
家・会社・国家。 これはまさに、山岸の言う「すでに知っている相手、すでに保証された関係」、 つまり"安心"の中身そのものです。
与え合いのエネルギーは、消えたわけではありません。 まだ知らない相手を信頼する必要のある「非営利セクター」にではなく、 すでに安心できる、この3つの容れ物の中に、 居心地よく溜め込まれ続けてきたのです。


そもそも、なぜ「家・会社・国家・非営利セクター」の4つなのでしょうか。
これには社会福祉の学術分野に、ちゃんと元ネタがあります。
イギリスの研究者ハッチとモクロフト(Hatch & Mocroft, 1983)は、 人々の暮らしを支える福祉・保健サービスの供給源を、 行政・営利(市場)・非営利(ボランタリー)・インフォーマル(家族・親族・隣人) という4部門に整理しました。これは「福祉多元主義(welfare pluralism)」と呼ばれます。
似た発想に、政治学者ヴィクター・ペストフの「福祉の三角形」(1992年)があります。 国家・市場・家族/地域(コミュニティ)という3つの主体を三角形の頂点に置き、 それらをつなぐ役割として、中心にサードセクター(非営利セクター)を位置づけました。
つまり、人がよく生きるための社会は、 行政に任せきりでも、市場に任せきりでも、家族に任せきりでも、 NPOに任せきりでも成り立たない、という前提があります。 どの部門が主にその役割を担うかは、国や時代によって配分が変わる、というのが 福祉多元主義の基本的な考え方です。
これを、この漫画の言葉に置き換えると――
国家=行政
会社=市場
家=インフォーマル
非営利セクター=ボランタリー
という対応関係になります。


正直に言うと、この4分類がすべてを説明できるわけではありません。
「会社(カイシャ)」は、実は少し特殊な存在です。 本来の福祉多元主義でいう「市場(営利)」は、モノやサービスを売買する場のことを指します。 だが日本の「カイシャ」は、住宅手当や慶弔金、終身雇用のように、 市場でありながら、家族的な支え合いの機能まで肩代わりしてきた、 かなり日本に特有のハイブリッドな存在です。 つまりこの漫画での「会社」は、市場とインフォーマルの中間にある、 独自の容れ物として扱っています。
地域コミュニティやコモンズ(共有資源の自治)を、どこに位置づけるかも議論があります。 経済学者エリノア・オストロムは、国家でも市場でもない 「コモンズ(共有資源を共同管理する仕組み)」を、独立した第5の領域として論じました。 地縁的な結や頼母子講は、本来この「コモンズ」的な性質を強く持っており、 「家(インフォーマル)」の枠だけでは、少しこぼれ落ちる部分があります。
つまり4つの容れ物というのは、 「これで全部」という完成された地図ではなく、 "与え合いのエネルギーが、今どこに偏って溜め込まれているか"を見るための、 実用的な作業仮説として使っています。
先ほど見た通り、日本は家・会社・国家という3つに偏ってエネルギーを溜め込み、 残る4つ目の容れ物――非営利セクター――は、相対的に育ってきませんでした。
国際比較研究でも、日本は 「行政が主導し、非営利セクターがその下請けとして機能する」タイプ (=statist型)に分類されてきました。
これは、レスター・サラモンとヘルムート・アンハイアーによる 「社会起源理論(Social Origins Theory)」という国際比較の枠組みです。 政府の社会保障支出の大小と、非営利セクターの規模の大小、 この2軸で各国を4タイプに分けています。
🇺🇸 アメリカ・🇬🇧イギリス=「リベラル型」: 政府の社会保障支出が小さい分、非営利セクターが大きく育ってきました。 個人が第三者組織に寄付するチャネルが、歴史的に太いのが特徴です。
🇰🇷 韓国=「コーポラティスト型」: 政府と大規模な非営利組織が、パートナーとして協働します。 ドイツやフランスと同じ系譜に位置づけられます。
🇯🇵 日本=「ステイティスト型」: 政府の社会保障支出も、非営利セクターの規模も、両方小さいのが特徴です。 実はこの理論、当初は日本だけのために作られた特殊カテゴリーでした。
ただし、ここで一つ注意が必要です。
単純な総額だけを比べると、この並びにはなりません。 日本の総額2兆261億円は、額面上、韓国の1兆1,770億円より多いからです。
「米>英>韓>日」の並びが成立するのは、次の2つの見方をしたときです。
①ふるさと納税の"寄付性"を差し引いてみる
日本の2兆261億円のうち、1兆2,728億円はふるさと納税が占めています。 だが、ふるさと納税は返礼品という明確な対価が伴う点で、 純粋な寄付とは性質が異なります。
ふるさと納税を除いた「寄付(ふるさと納税以外)」だけを見ると、 日本の実質的な寄付額は7,533億円。 これは韓国の1兆1,770億円を下回ります。
②名目GDP比で見る
前のページで見た通り、名目GDP比では 日本(0.33%)<韓国(0.50%)<イギリス(0.54%)<アメリカ(2.00%)となります。
経済規模の違いを調整すると、日本ははっきり最下位になります。
つまり「米>英>韓>日」という並びは、 額面の総額そのものではなく、 寄付の"純度"を揃えるか、経済規模を揃えるかした時に現れる並びであり、 それがこの類型の並びとも、おおよそ重なります。
リベラル型の国ほど、非営利セクターという「受け皿」が大きく、 寄付が向かう先が制度として整っています。 日本だけが、受け皿となる非営利セクターも、政府の支出も、 どちらも小さいという、他に類を見ない組み合わせにあります。
つまり日本の低い寄付額は、 「与え合う心がない」から低いのではありません。
与え合うエネルギーが、家・会社・国家という、 別の容れ物にすでに注ぎ込まれていたから、 "寄付"という統計に出てこなかっただけなのです。

終身雇用は、もう約束されません。 家族は、核家族化し、単身化していきます。 国家財政は、逼迫し続けています。
与え合いを溜め込んでいた容れ物が、 静かに、しかし確実に、壊れ始めています。
だとすれば、問うべきことは、こうです。
「日本人は、寄付をしない国民なのか?」 ではなく――
「これまで別の容れ物に注がれていたエネルギーを、 これから、どこに、どうやって注ぎ直すのか?」



さて、あなたにとって「安心」と「信頼」、 どちらが多い毎日でしょうか。
日本に寄付文化がないのではありません。 別の名前で、別の場所に、それはずっとありました。
次回、その「別の名前」たちの正体を、歴史から辿っていきます。
