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【日本には寄付文化がないって本当ですか?②】

第1話はこちら

「寄付」という言葉は、実はかなり新しいものです。

明治41年、渋沢栄一が中央慈善協会の初代会長に就任し、 アメリカ由来の「フィランソロピー」という形式を日本に持ち込みました。

でも、それより前から、与え合う行為そのものはずっとありました。

奈良時代の勧進。江戸の結・頼母子講。 神社への初穂・奉加。仏教の喜捨・布施

これらは全部、近代以降「寄付」という一つの言葉に整理・統合される過程で、 それぞれ固有だった論理が、均質化されてこぼれ落ちていきました。

人類学者ジョナサン・パリーは、モースの贈与論批判として指摘しています。

仏教的な布施は、実は功徳・因果という別の会計系に接続されています。 「無償の贈与」というのは、近代的な理想化にすぎません。

これは重要な指摘です。なぜなら、こういう理屈が成り立ってしまうからです。

「寄付」を捉え直そうとする議論では、しばしば 「本来、与え合いとは無所有・無執着の心から生まれる、見返りを求めない行為だった」 という前提が置かれがちです。そして、その理想像の根拠として、 仏教的な布施の論理が持ち出されます。

でも、パリーの指摘が正しいなら、この前提そのものが崩れます。 布施は、そもそも「見返りを求めない無償の行為」ではなかったからです。 「昔は無所有の心から与え合っていたのに、今はそれが失われた」 という物語は、最初から存在しなかった黄金時代を掘り起こそうとしている、 ということになります。

ここで、少し言葉を整理しておきます。 「無所有・無執着の心を持てばいい」という理想像は、 厳密には布施というより、喜捨(見返りへの期待をそもそも持たない、 より無心な施し)に近いイメージです。 つまり元々の議論は、性質の違う布施と喜捨を一緒くたにして、 「無所有の心」という一つの理想像に押し込めていたとも言えます。

だとしても、問題の根はもう一段深いところにあります。 仮に「本当に無所有の心で与えられる人」が増えたとしても、 それはあくまで個人の心構えの話です。

心構えは、他人に強制できませんし、制度として設計することもできません。 「もっと無所有の心を持とう」というのは、個人への呼びかけであって、 社会の仕組みへの提案ではないのです。

でも実際に地域コミュニティが必要としているのは、 個々人が立派な心を持つことではなく、 むしろ頼母子講のような、計算可能で共同体に閉じた仕組み―― つまり、心構えに依存せずに機能する、制度設計の話です。

この図の2つの軸、もう少し補足しておきます。

縦軸:計算可能/非計算

これは、「見返りが、あらかじめ予測できる形で決まっているか」という軸です。

頼母子講は、いつ・いくら返ってくるかが、かなり厳密に計算できます。 だからこそ「回転信用」、つまり保険に近い仕組みとして機能します。

結(田植えや屋根葺きの労働を融通し合う仕組み)も、同じ計算可能側に入ります。 お金ではなく労働のやり取りなので、頼母子講ほど厳密に金額や時期が 決まっているわけではありません。でも、「今日助けたら、いつか自分も 助けてもらえる」という返礼への期待は、はっきり存在します。 計算の"精度"は頼母子講より緩いものの、 「見返りを見込んでいる」という性質そのものは共通しています。

一方、喜捨や布施は、この軸で見ると少しねじれた位置にあります。

上記で見た通り、布施には功徳・因果という帳簿があります。 だとすると、「見返りが予測できる」という意味では、 実は完全な非計算とは言い切れません。 ただしその帳簿は、人間には計算できない帳簿です。 いつ、どんな形で自分に返ってくるかを、当人が予測することはできません。

つまり布施は、 「宇宙的には計算されているが、人間の目には非計算に見える」、 という独特の位置にあります。頼母子講のような、 当人が見返りを見積もれる計算可能性とは、性質が違うのです。

喜捨は、これと少し毛色が異なります。 見返りへの期待をそもそも持たない、より無心に近い施しとされることが多く、 その意味では布施よりもさらに「非計算」寄りです。 ただし実際の使われ方では、喜捨と布施はほぼ同じ意味で 使われることも多く、明確に線を引くのは簡単ではありません。

この図では、布施も喜捨も同じ「非計算・超越的」の枠に入れていますが、 厳密には、布施の方がわずかに"計算可能"側に寄っている、 というのが正確なところです。

実は、同じ問題が神への返還(初穂・奉加)にもあります。 今年の収穫が来年の豊作につながるかどうかを、人間が正確に計算することはできません。 その意味では、初穂も布施と同じく「人間には計算できない」対象のはずです。

では、初穂と布施の違いはどこにあるのでしょうか。

ポイントは、「見返りを正確に計算できるか」ではなく、 「見返りへの期待が、決まった周期・決まった形で制度化されているか」、 という点だと考えると、一貫して整理できます。

初穂は、収穫のたびに繰り返される、ルーティン化された儀礼です。 「今年も納めれば、来年もまた恵みがある」という、 いわば年払いの保険料のような、構造として予定調和的な取引です。

一方、布施や喜捨には、そうした決まった周期がありません。 いつ、どんな形で自分に返ってくるかという、取引の"型"自体が定まっていないのです。

つまりこの軸で言う「計算可能」とは、 正確な金額や成果を計算できることではなく、 "取引の構造が、制度としてルーティン化されているかどうか"、 という意味で捉え直すと、四象限すべてに一貫した基準になります。

横軸:対面的/超越的

これは、「差し出したものが、誰に向かっているか」という軸です。

頼母子講や結は、顔の見える、同じ共同体のメンバーに向かっています。 返してくれるのも、その場にいる誰かです。

一方、初穂や布施は、神仏や因果という、この世の関係の外側にある存在に向かっています。 返礼があるとしても、それは人間関係を介さない、別の回路(豊作、功徳など)を通じてです。

この2軸を組み合わせると、 同じ「与える行為」でも、性質がまったく異なる4つのタイプに分かれることが見えてきます。

つまり、「寄付という言葉の下に、与え合いが埋もれている」という表現は、 半分正しくて、半分ちょっと危ういものです。

埋もれているのは、ひとつの本来の与え合いではありません。 性質のまったく違う、複数の論理が埋もれています。

これを一緒くたに「掘り起こせばいい」としてしまうと、 本当に必要な処方箋を見誤ってしまいます。

次回は、この均質化がなぜ起きたのか、 そして単純な掘り起こしでは再生できない、 もっと根深い構造の話をしていきます。

第3話はこちら


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