【日本には寄付文化がないって本当ですか?③】
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前回、「寄付」という言葉の下に、複数の異なる論理が埋もれていることを見ました。
でも、もっと根深い問題があります。
その論理を支えていた"土台"自体が、もう失われている、ということです。
経済人類学者カール・ポランニーは、こう説明しています。
前近代の経済は、贈与・再分配・交換のすべてが、 社会関係の中に埋め込まれて(embedded)いました。
売買という行為さえ、地縁や身分、互酬の網の中で行われていました。
資本主義がしたことは、 贈与を交換に置き換えたことではありません。
交換だけを、社会関係から切り離し(disembed)、独立させたことです。
売買という行為さえ、地縁や身分、互酬の網の中で行われていました。
少し具体的に考えてみます。
頼母子講は、同じ村・同じ講に属する人間関係の中でしか成立しません。
布施は、僧と信者という、信仰でつながった関係の中でしか成立しません。
初穂は、氏子と神社という、その土地に根ざした関係の中でしか成立しません。
つまり、それぞれの行為が独自の"型"を保てていたのは、 それぞれを包んでいた、別々の人間関係という"容れ物"があったからです。
ポランニーの言う「経済が社会に埋め込まれていた」とは、まさにこの状態のことです。 取引は単体で存在するのではなく、 村・信仰・氏子といった具体的な人間関係の中に包まれて存在していました。
資本主義で起きたのは、 贈与を交換に置き換えたことではありません。
この、取引を包んでいた人間関係を、取引そのものから引き剥がしたことです。
引き剥がされた取引は、 「誰の関係の中で行われるか」を問わない、 どこでも同じ意味を持つものに変わりました。
これは、前回見た「均質化」の、経済構造としての正体です。
前回は、勧進・頼母子講・初穂・布施が、 「寄付」という一つの言葉に整理されていく様子を見ました。
これは単なる呼び方の変化ではありません。 それぞれの行為を包んでいた人間関係という容れ物そのものが失われ、 型を保つ土台をなくしたことで、 性質の異なる行為が、抽象的な一つの行為へと均されていった、 ということなのです。



グレーバーの『負債論』の議論はこうです。
前近代の負債は、質的・関係的なものでした。 誰に、どんな文脈で、いつ返すか――決まっていません。 だから関係が続きました。
貨幣と市場が持ち込んだのは、 負債の量的・非人格的な清算です。
金額が確定し、支払えばその場で関係が終わります。
清算できるようになった瞬間、 関係は「終わってよく」なりました。
これは、第1話で見た「3つの容れ物」の崩壊にも直結しています。
家族の介護、会社の終身雇用、国家の社会保障―― これらが機能していたのは、いずれも「いつ・どんな形で返ってくるか決まっていない、 続いていく関係」を前提にしていたからです。
でも今、家族は単身化し、会社は雇用を流動化させ、 国家は給付と負担を厳密に計算しようとしています。 関係が、少しずつ"清算可能"な取引に置き換わっているのです。 だからこそ、3つの容れ物は、閉じていくのではなく、 壊れていくという形で表れます。



宮台真司は、人が「言葉・法・損得勘定」に閉じ込められ、 「言外・法外・損得外でのシンクロ」の経験を失ったことを、 感情の劣化の核心に置いています。
森を長く一緒に歩くと、暗闇や獣の声に、 誰もが自動的に同期してしまいます。 祭りも、同じ機能を果たしていました。
その森が、その祭りが、消えました。
代わりに、地域が空洞化すると家族に頼り、 家族が空洞化すると市場・行政に頼る――という代替の連鎖が起きました。
そして今、その連鎖の終着点自体が、機能不全を起こしています。
これは、第2話で見た「非計算」側の論理(お裾分け・喜捨・布施)が なぜ簡単には戻せないかも説明しています。
損得を超えて与える、という行為は、 制度や言葉として存在するだけでは成立しません。 損得を忘れられるだけの、身体的な巻き込まれの経験が必要でした。 それを支えていたのが、森や祭りのような場です。
四象限そのもの(論理の型)は、頭で理解して復元できます。 でも、その論理を実際に「生きる」ための身体的な条件は、 制度を掘り起こすのとは別に、失われてしまっているのです。

社会心理学者・山岸俊男は、これを別の角度から数字で示しています。
「たいていの人は信頼できる」と考える人の割合―― アメリカ人は47%。日本人は26%。
山岸はこれを、 閉じた集団内の相互監視が「安心」を供給する代わりに、 「一般的信頼」という能力を育てる必要をなくしてしまった、と説明しています。
この数字、実は第1話で既に見ています。
第1話では、日本人が「安心」の中に留まり続けてきたこと、 その安心の中身こそが家・会社・国家という3つの容れ物だったことを見ました。
ここで分かるのは、その安心への留まりが、 単なる好みの問題ではなく、能力の問題でもあるということです。 まだ知らない相手を信頼するには、リスクを取って賭けに出る、 訓練された心理的能力が要ります。 3つの容れ物に留まり続けてきたことで、 日本人は、その能力を鍛える機会そのものを持てずにきました。
これらを重ねると、掘り起こしが効かない理由が見えてきます。
多様な論理を成立させていた社会関係の埋め込みが失われた(ポランニー) →第2話で見た多様な論理の"土台"の話
関係を続けるための負債の質が失われた(グレーバー) →第1話で見た3つの容れ物が崩れていく理由の話
損得外に出るための身体的な経験が失われた(宮台) →第2話で見た「非計算」側の論理を、実際に生きるための条件の話
リスクを取って賭ける心理的な能力が育っていない(山岸) →第1話で見た「安心に留まり続ける」ことの、能力面での裏付けの話
掘り起こすべき対象は、「昔のやり方」ではありません。 それを成立させていた"条件"そのものです。
だが条件は、地面の下に眠っているわけではありません。 もう一度、作り直すしかないのです。



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