悪役令嬢転生MBA~趣味は事業再生、特技は市場分析ですの~32
32・第八章:呪われた鉱脈
『ガラスの翼』と、リーザと名乗る謎の投資家との正式な契約は、静かに、そして、迅速に執り行われた。 場所は前回と同じ、酒場『迷い猫の止まり木亭』。契約書にアリアが震える手でサインをし、そして、リーザがこともなげに、約束の前金…金貨にして百枚という、B級パーティーが一生かかっても手にすることができないであろう大金をテーブルの上に置いた時、彼女たちの冒険は、もう、後戻りのできない新たなステージへと突入したのだった。
それからの、一週間。 『ガラスの翼』のメンバーたちは、まるで、夢の中にいるかのようだった。 リーザが費用を全額負担し、王都で最高クラスの武具職人や、魔術師を、次々と紹介してくれたのだ。 リーダーのアリアの、古びた魔法剣は、ミスリル銀を編み込んだ、軽量かつ、魔力伝導率の極めて高い最新のものに。盾役フレイヤの、傷だらけだった大盾と全身鎧は、衝撃を吸収する、特殊な合金で新調された。斥候キキの短剣や弓、賢者ルーナの杖、僧侶エララの聖印に至るまで、その全てが、これまで彼女たちが、ショーウィンドウの向こうから、溜息混じりに眺めることしかできなかった一級品へと生まれ変わった。
「…なんだか、身体が、ふわふわするよ」
「分かるわ。この杖、魔力の流れが今までとは比べ物にならない…」
「借金で首が回らなくなりそうだけどね…」
「大丈夫よ。あの、とんでもない『頭脳』が持ってくれる契約だし、きっと、それ以上に元を取らせてくれるわ」
彼女たちの間には、不安と、それを遥かに上回る高揚感が渦巻いていた。 そして、全ての準備が整った、ある晴れた朝。 一行は、ついに、『沈黙の森』へと続く古道に、その第一歩を踏み出した。
森は、その名の通り静かだった。 入り口を一歩くぐっただけで、外の世界の、あらゆる音が、ぴたりと止む。鳥の声も、虫の音も、風が、木々の葉を揺らす音さえも聞こえない。ただ、自分の心臓の鼓動と息遣いだけが、やけに、大きく耳に響く。 巨大な木々が空を覆い尽くし、昼間だというのに、森の中は薄暗い。地面には、何百年も陽の光を浴びていないであろう、湿った黒い土と苔が、絨毯のように敷き詰められている。時折、足元で青白い光を放つ、奇妙なキノコだけが、唯一の光源だった。
三時間が経過した。 一行は、まだ、森の入り口付近を進んでいるに過ぎない。だが、その空気は、明らかに、重く、そして、邪悪なものへと変質し始めていた。
その時だった。 「――待って!」 斥候のキキが、鋭く、短い声を上げた。そして、その場にぴたりと足を止める。 パーティー全員に、緊張が走った。
「…どうした、キキ」 「…匂うんだ。この先から…甘い、花の蜜のような匂いがする。それも、一つや二つじゃない。ものすごい数だ…」 甘い、花の蜜の匂い。 その、一見無害そうな言葉に、賢者のルーナと、僧侶のエララの顔から、さっと血の気が引いた。
「まさか…『マンドラゴラ』の、群生地…!?」
マンドラゴラ。 その根は、万病に効く霊薬として知られるが、同時に、その花は、生物の精神を蝕む、甘い香りの幻覚性の毒を撒き散らす。そして、ひとたび、引き抜かれれば、その断末魔の叫び声を聞いた者は、発狂して、死に至るという。 一体、一体でも、B級パーティーが苦戦する厄介な魔物。それが、群生している。
「…まずいな。迂回するしかない。だが、この先の道は…」
アリアが、苦々しげに、地図を広げる。 迂回するには、危険な、沼地を通らなければならない。どちらを選んでも、待っているのは地獄だった。 その、絶望的な状況の中で、リーザが静かに口を開いた。
「――突破しますわ」
「はあ!? あんた、正気かい!」
アリアが、素っ頓狂な声を上げた。
「ええ、正気です。この風向きと風速ならば、道の南側の、崖沿いギリギリを進めば、毒の有効範囲から僅かに外れることができるはず。そして、マンドラゴラは、根を張っているため、移動はできません。つまり、『音を立てずに、息を殺して走り抜ける』ことさえできれば、我々はノーリスクで、この場を突破できます」
「無茶だ!」 アリアが、叫んだ。 「一歩間違えれば、全員、お陀仏じゃないか! なんて無茶なリスクを取らせるんだ!」
その、賞賛と非難が入り混じったアリアの言葉に、リーザは、こともなげに首を横に振った。
「いいえ、アリアさん。無茶でもなければ、高いリスクでもありませんわ」
「はあ? 何を言って…」
「本当の『リスク』とは、本来、『不確実性』のことを言いますの。何が起こるか、分からないこと。それこそが、リスクなのです」
リーザはにっこりと微笑んだ。その笑みは、まるで、子供に難しい計算式を一つ一つ解き明かして聞かせる、家庭教師のようだった。
「私は、毒の拡散範囲と、あなた方の脚の速さを、事前に、正確に分析し、予測しました。そして、その結果、『成功確率、九割九分以上』と、判断できていた。――つまり、この作戦における『不確実性』は、ほぼ、ゼロですわ。見た目は派手な博打でも、その実態は、極めて安全な、『低リスク』な戦術ですのよ」
リーザは、マジックバッグから、水筒を取り出すと、呆気に取られている、アリアに、差し出した。
「リスクとは、ただ、恐れるものではありませんわ。正しく、分析し、計測し、そして、『制御(コントロール)』するものなのです」
その、絶対的な自信に満ちた、碧眼に見つめられ、アリアは、ぐっと、言葉に詰まった。 この娘の「知識」は、前回の、グレイウルフの狩りで、既に、証明されている。
アリアは、ごくりと、喉を鳴らすと、仲間たちの顔を見回した。 仲間たちは、恐怖に顔を引きつらせながらも、最後は、リーダーであるアリアに、その判断を委ねていた。 アリアは、大きく、息を吸い込むと、決然と言い放った。
「――分かった。あんたの、その狂った計算に乗ってやる。全員、準備はいいな! リーザの言う通り、絶対に、音を立てるなよ!」
一行は、息を殺し、崖沿いの僅かな道に足を踏み入れた。 すぐに、キキが言っていた、むせ返るような甘い匂いが鼻腔を突き刺す。頭がくらくらする。だが、リーザの言う通り、崖の縁を歩く限り、その濃度は意識を失うほどではなかった。 やがて、道の先に、開けた場所が見えてきた。 そこには、無数の、赤ん坊の頭のような、不気味な花が、咲き乱れていた。その花々が、ゆらゆらと揺れながら、甘い香りを、あたり一面に撒き散らしている。
(――行くわよ)
アリアの合図で、全員が一斉に駆け出した。 心臓が張り裂けそうだ。 肺が、焼けるように痛い。 だが、誰一人、声を上げず、ただ、ひたすらに、前だけを見て走り抜ける。 数十秒が、まるで、永遠のようにも感じられた。
そして、ついに一行は、その、悪夢のような花の群生地を完全に突破した。 全員がその場にへたり込み、荒い息を繰り返している。 誰も、傷一つ負っていない。
「…はあ…はあ…。嘘だろ…本当に、走り抜けちまった…」 アリアが、信じられない、といった表情で、リーザの顔を見た。 その顔は、相変わらず、涼しい顔をしていた。
だが、彼女たちは、まだ、知らない。 この、マンドラゴラの群生地は、この『沈黙の森』が、彼女たちに仕掛けた、最初の、そして、最も生易しい「罠」に過ぎなかったことを。 そして、この森の、さらに奥深く。 古代の、邪神の封印と、そして、呪われた鉱脈が、新たな、生贄の到着を静かに待ち構えていることを。 本当の、悪夢は、まだ、始まったばかりだった。
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