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藍色の共鳴――返らない手紙に、僕は返事を書いた 10

第十章:夫の影
公園のベンチでの告白の後、研人と灯の間には、奇妙な静けさが訪れた。 研人は、いつ下されてもおかしくない「判決」を待っていた。だが、彼女からの連絡は、数日間、ぷつりと途絶えた。その沈黙は、研人にとって、嵐の前の静けさよりも、さらに心臓を締め付けるものだった。

連絡があったのは、それから五日後の夜。灯からだった。 『少しだけ、お話ししたいことがあります』 そのあまりに穏やかな文面に、研人は翌日の夜、前回と同じ公園で会う約束を取り付けた。

ベンチに現れた灯の表情は、硬かった。だが、それは怒りによるものではなく、何か大きな決意を固めた人間のそれのように見えた。 「あなたの話を聞いて…夫のことを、もう一度ちゃんと調べなければいけないと思いました」 彼女は、ぽつりぽつりと語り始めた。 七年間、夫の失踪の真相に深く踏み込むのが怖かったこと。彼が生きているという希望にすがるあまり、彼が置かれていた厳しい現実から、無意識に目を逸らしていたこと。

「でも、あなたの手紙…あれは嘘だったけれど、不思議なことに、私に時間をくれたんです。心の準備をするための、時間を」 そして、彼女は少しだけ口元を緩めた。「それに、一人じゃありませんでした。あれだけ『詐欺だ』と騒いでいた友人が、私が本気で真実と向き合おうとしていると知って…『本当のことが知りたいなら、私も最後まで付き合う』と言って、色々と手伝ってくれたんです」

それから、二人の奇妙な対話が始まった。 数日おきに、彼女は研人を呼び出した。研人は、ただ黙って彼女の話を聞く。彼女は、友人の助けも借りながら、夫が残した書斎の扉を、七年ぶりに本格的に開けていた。古いパソコン、段ボールに詰められたままの書類、弁護士との過去のメールのやり取り。

彼女は、研人をカウンセラーのように使った。いや、あるいは、共犯者への報告のように。 「夫の会社の元社員に会いました。やはり、大手企業との間に、特許を巡る深刻なトラブルがあったそうです」 「夫の古い日記を見つけました。そこには、私には決して見せなかった、彼の弱音や恐怖が書かれていました」

研人は、ただ相槌を打つことしかできなかった。 彼の目の前で、彼が作り上げた「偽りの夫」の姿が、少しずつ剥がれ落ちていき、代わりに、苦悩し、恐怖に怯え、それでも妻を愛していた、一人の生身の人間の姿が浮かび上がってくる。それは、彼が犯した罪の重さを、改めてその身に刻みつける、苦しい時間だった。

そして、その日は来た。 いつものベンチで待っていると、現れた灯の表情が、以前とはまったく違うことに、研人はすぐに気づいた。そこには、憑き物が落ちたような、不思議なほどの静けさと、深い疲労の色が浮かんでいた。 彼女は、研人の隣に座ると、一枚の紙を取り出した。失踪宣告の申立書だった。

「…見つかりました。夫のパソコンの奥に、パスワードのかかったファイルがあって。弁護士に頼んで、開けてもらったら…遺書、のようなものでした」 彼女の声は、凪いだ水面のように穏やかだった。 「私に宛てたものでした。会社のトラブルのこと。反社会的な勢力から、脅迫を受けていること。警察も頼りにならないこと。そして…『君を巻き込むわけにはいかない。だから、僕は消える。僕のことは忘れて、幸せになってくれ』と」
彼女は、空を見上げた。その瞳は、もう潤んではいなかった。 「彼は、もうどこにもいない。ずっと前から、分かっていたのかもしれません。ただ、認めたくなかっただけで」 彼女は、研人の方に向き直った。「これで、区切りをつけようと思います。七年間、ずっと止まっていた時間を、進めなければいけない」

その言葉は、研人にとっても、一つの時代の終わりを告げるものだった。 彼が、彼女を救いたい一心で、息を吹き込んだ亡霊。その亡霊は今、彼女自身の手によって、静かに弔われようとしている。 彼の嘘から始まったこの奇妙な関係は、皮肉にも、彼女が本当の過去と向き合い、決別するための、儀式となっていたのだ。

「…ありがとうございました、染谷さん」 灯は、そう言って、小さく頭を下げた。 その言葉に、どんな意味が込められているのか。それは、まだ研人には分からなかった。 ただ、夫の影が消え去った今、このベンチには、喪失という同じ傷を持つ、男と女が二人、残された。 そして二人の間には、これから始まるべき、全く新しい物語以外の、何もかもが存在しなかった。
 
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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。