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おかえりと言えるまで――「ただいま」を失った女と、十二歳年下の従弟の大人の恋 7


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第七章 鍵を渡す


 三月の終わり、出勤の道で街路樹が変わっていることに気づいた。

 先週まで枝だけだったイチョウに、小さな葉が出ていた。まだ閉じかけている。でも確かに、そこにある。冬の間ずっとそこにあった枝が、内側から変わっていた。

 いつ変わったのかはわからなかった。気づかなかっただけで、ずっとそうなっていたのかもしれない。

 三月の終わりに、渉から電話があった。

 夕方で、莉子は事務所の自分の机に座って申告書を見ていた。スマートフォンが鳴って、渉の名前が出て、莉子は一度だけ息を整えてから出た。

「会社から返事がありました」

「うん」

「今回のプロジェクト、別の人間が担当することになりました。大阪には行きません」

「そう」

「はい」

 少しの間があった。

「じゃあ」と莉子は言った。「今夜、来てください」

 渉が黙った。一秒か、二秒か。

「伺います」と言った。

「仕事が終わるのが八時頃になるので、その後で」

「わかりました」

 電話が切れた。

 莉子は申告書に視線を戻した。数字が並んでいた。どこまで見ていたかわからなくなっていて、最初から確認し直した。手は動いた。頭の中で別のことが動いていても、手は仕事を続けた。そういう人間だと、莉子は自分のことを知っていた。

        *

 八時半に事務所を出た。

 コートを着て、マフラーを巻いた。三月の終わりは、まだ夜になると冷えた。でも冬の冷たさとは違った。何かが終わりかけていて、何かが始まりかけている、その境目の温度だった。

 家に向かう前に、一度だけ立ち止まった。

 鞄の中の財布を開けた。レシートを取り出した。コンビニの紙で、端が少し丸まっていた。渉の字で二行書いてある。六ヶ月以上、持ち歩いてきた。

 それをコートのポケットに入れた。

 財布ではなく、ポケットに。理由は説明できなかった。ただ、今夜はここに持っていたかった。

 キーケースの中を確認した。スペアキーが一本、かかっていた。賢人が使っていたもので、賢人が死んでから引き出しにしまってあったものを、一度だけ取り出した。取り出して、キーケースにかけたのはいつだったか。はっきりは覚えていなかった。

 鍵を取って、鞄に入れた。

        *

 駅の改札を出てすぐのところに、渉がいた。

 コートを着て、両手をポケットに入れて、莉子が来る方向を見ていた。莉子を見つけると、ポケットから手を出した。笑わなかった。ただ、待っていた顔をしていた。

「待った?」

「少しだけ」

 二人で並んで歩いた。マンションまで、徒歩で五分かかる。九月の雨の夜も、渉はこの道を歩いてきたはずだった。あの夜は雨が降っていた。今夜は晴れていた。街灯が舗道を照らしていた。

「大阪の話、ありがとう」と莉子は言いながら歩いた。

「何がですか」

「教えてくれて」

「電話一本のことです」

「それでも」

 渉は何も言わなかった。莉子の左側を、道路側を、歩いていた。

 マンションのエントランスに着いた。莉子がオートロックを開けた。エレベーターに乗った。三階のボタンを押した。二人で上がった。

 廊下を歩きながら、莉子は鞄から鍵を取り出した。

 玄関の前で立ち止まった。自分の鍵ではなく、スペアキーの方を持っていた。

 渉に差し出した。

 渉は見た。

「これは」

「持っていて」

 問いでもなく、命令でもなかった。ただ、渡した。

 渉は鍵を受け取った。両手で、確かめるように。九月に絆創膏を貼ってもらった時の手が、今は莉子の鍵を持っていた。

「使っていいですか」と渉は言った。

「もう聞かなくていい」

 莉子は自分の鍵で玄関を開けた。

        *

 部屋に入った。

 電気をつけた。コートを脱いだ。渉もコートを脱いで、莉子が示した場所にかけた。

「コーヒー、飲みますか」

「淹れます」

 渉が台所に向かった。莉子はリビングに座って、渉がコーヒーを淹れる音を聞いた。水の音、豆を挽く音、ドリップの音。小さな音が続いた。誰かが台所にいるということが、部屋の空気を変えた。九月の夜に気づいたことが、今夜また確かにあった。

 棚の上を見た。

 賢人のマグカップが、そこにあった。

 ポケットに手を入れると、レシートがあった。取り出して、テーブルに置いた。

 渉がコーヒーを持って戻ってきた。テーブルの上のレシートを見た。何も言わなかった。コーヒーを置いて、莉子の向かいに座った。

 二人でコーヒーを飲んだ。

「賢人さんのもの、まだあるんですね」

 渉が棚の上を見ながら言った。

「捨てられない」

「捨てなくていいと思います」

「雅代も言ってた」

「そうですか」

「仕事の方は、大丈夫なの」と莉子は聞いた。

「来月のプロジェクトのリードを、別の人間に譲りました」と渉は言った。「それだけです」

「それだけ、って」

「その分、次を取ればいい。仕事はそういうものなので」

 莉子は答えなかった。「それだけです」という言葉の軽さが、却って重く聞こえた。渉が何かを選んだということが、あの短い一言の中にあった。

 莉子はコーヒーカップを持ちながら、渉を見た。

「賢人が死んでから、ここに誰かがいる夜というのが、ほとんどなかった。奈緒が泊まったことが一度あったくらい。あなたが来た九月の夜が、初めてに近かった」

「そうでしたか」

「眠れないかと思ったら、眠れた。誰かがいるというだけで、部屋の空気が変わるということを、あの夜また知った」

 渉は静かに聞いていた。

「怖かった。それが嬉しいことなのか、悲しいことなのか、わからなかった。賢人がいた頃の温度に、少し近くなる気がして、怖かった」

「今は」

「今も、少し怖い」と莉子は言った。「でも、怖いままでいいと思っている」

 渉は何も言わなかった。

 莉子はテーブルの上のレシートを取って、立ち上がった。棚に向かった。賢人のマグカップの横に、レシートを置いた。引き出しではなく、財布でもなく、棚の上に。

 二つが、並んだ。

 賢人のマグカップと、渉が書いたレシート。どちらも、ここにある。どちらも、莉子の部屋にある。

「渉」

「はい」

「来てくれてよかった。九月も、今夜も」

 渉は立ち上がった。

 莉子の方へ来た。一歩、二歩。莉子は動かなかった。

 渉が莉子を抱きしめた。

 急ではなかった。確認するように、ゆっくり腕が来た。莉子は止めなかった。止める気にならなかった。渉の胸に顔が当たった。コートではなく、シャツの生地だった。下の体温が伝わってきた。渉の手が、莉子の背中にあった。

 体温があった。

 どれくらいそうしていたか、わからなかった。

 渉が莉子の背中の手を、静かに離した。莉子も離れた。どちらも何も言わなかった。言わなくていい沈黙が、部屋にあった。

        *

 渉が帰ったのは、十一時を過ぎた頃だった。

「また来てもいいですか」

「どうぞ」

 ドアを閉めて、鍵をかけた。

 しばらく玄関に立っていた。

 棚の上に目をやった。マグカップとレシートが、並んでいた。そこにあることが、今夜は静かだった。荒れていなかった。賢人がここにいない事実は変わらない。渉がここにいた事実も変わらない。どちらも本当で、どちらも莉子の部屋にある。

 電気を消した。

 寝室に向かいながら、コートのポケットが空になったことに気づいた。レシートは、棚の上にある。六ヶ月以上持ち歩いて、今夜やっとそこに置いた。

 それでいいと思った。

        *

 翌朝、目が覚めるとコーヒーの匂いがした。

 六時半だった。昨夜渡した鍵を、渉は使ったらしかった。玄関に靴があった。台所から音がした。

 莉子は立ち上がった。台所に向かった。

 渉がいた。窓から三月の光が入って、その中に渉がいた。コーヒーを淹れていた。コーヒーメーカーの横に、新しい缶が置いてあった。

 
莉子は小さく言った。

「ただいま」

 渉が振り返った。

「おかえりなさい」

 コーヒーの匂いが、部屋に広がっていた。

(完)

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。