おかえりと言えるまで――「ただいま」を失った女と、十二歳年下の従弟の大人の恋 1
夫を亡くして二年。
雨の夜、十二歳年下の従弟が、亡夫の服を着て眠った。
何も告げずに去っていった朝、台所にレシートが一枚残っていた。
【あらすじ】
夫を亡くして二年、三十六歳の会計士・莉子は、亡夫との記憶が残る部屋で静かに暮らしていた。
ある雨の夜、十二歳年下の従弟・渉が訪ねてくる。
亡夫の服を着て夜を明かし、何も告げずに去った渉は、やがて仕事の場で莉子の前に現れる。
渉が莉子を想い続けてきたのは、十四年だった。
莉子が別の人と結婚した日も、夫が病に倒れた日も、ずっと。
死別、年齢差、親族という距離を、それでも越えていく。
もう一度「おかえり」を自分の声で言えるまでの、大人の恋。
【もくじ】
第一章 雨の夜の鍵
水が、思ったより冷たかった。
台所の蛇口をひねるたびに、季節の変わり目がわかる。夏の間は微かに温みを持っていた水が、九月の終わりになると急に体温を失う。指先に来るその冷たさが、暦よりも正直に秋を告げた。
洗っているのは一枚の皿だ。
コンビニで買ったロールキャベツを電子レンジで温めて、それをのせただけの皿。食べたという証拠、今日も生活を続けたという証拠。プラスチックの容器のまま食べなかったのは、二年かけて身につけた習慣だった。皿を出す。箸を揃える。テーブルに座って食べる。テレビはつけない。それだけのことを守り続けてきた。やめてしまったら、どこか遠いところへ行ってしまう気がした。どこかへ、というのが具体的にどこを指すのか、莉子にはわからなかったが、そこへは行きたくなかった。
賢人の誕生日まで、あと十二日。
生きていれば三十七歳になる。一緒にどこかへ行こうと言えたはずの三十七歳だ。どこへ行くかは、まだ決めていなかった。決める前に、逝ってしまった。
布巾で皿を拭いて、食器棚の定位置に戻した。ティーカップを出してハーブティーを淹れた。賢人は花の匂いのするお茶が苦手だった。「ハーブティーって要は草のお湯だよな」と言っていた。その言葉も、その声の低さも、今は部屋のどこにも落ちていない。
ソファに腰を下ろして、資格試験の参考書を膝に乗せた。一ページも、開かなかった。
十二時まで十分あった。
窓の外で雨が降り始めたのは、昼過ぎからだった。夜になってから強くなり、排水管がどこか詰まっているのか、部屋にいてもかすかに水音が聞こえた。莉子はハーブティーの湯気を見ながら、何も考えないようにしていた。何も考えないようにすることと、何も考えないことは違う。でも、どちらかしかできない夜というのがあって、今夜はそういう夜だった。
インターホンが鳴ったのは、十二時を少し回った頃だった。
*
最初、聞き違いだと思った。
宅配便の時間ではない。来客の予定もない。もう一度鳴って、莉子はソファから立ち上がり、玄関横のモニターを見た。
渉だった。
七センチ四方の画面に、桐島渉がいた。髪が頭皮に貼りついている。ジャケットが数段濃い色になっている。ずぶ濡れで、雨粒がレンズを歪ませるほど降りしきる中、渉はカメラの少し右を見ていた。莉子の顔ではなく、インターホンのパネルのあたりを。
口が動いた。
〝泊めてほしい〟
声は聞こえなかった。口の形で、そう読んだ。
莉子はモニターの前に立ったまま、動かなかった。
三十秒、というのは後から数えたことで、その時間の中で莉子が何を考えていたかは、自分でも正確にはわからない。従弟が雨の中に立っているという事実。終電があるはずの時間帯だということ。泊めるべきでない理由が、指で数えればいくつかは並ぶということ。ただ、指で並べながら、莉子はそのどれも信じていないとわかっていた。断る理由になっていない。断ることそのものが、噓みたいだった。
渉は急かさなかった。もう一度押しもしなかった。ただ、そこにいた。玄関の外で、雨に打たれながら、カメラのわずか右を見続けていた。
莉子は解錠ボタンを押した。
廊下の電気をつけて、ドアを開けて待った。エレベーターを使わず、階段を上がってくる足音がした。三階だから時間はかからない。
渉が廊下に現れた。
近くで見ると、ひどい濡れ方だった。モニター越しでは伝わらなかった量感が、目の前に迫ってきた。スーツの肩から水が滴り、革靴の色が変わっていた。前髪が額に張り付いている。それでも渉は莉子の目を見た。申し訳なさそうでも、困っているふうでも、なかった。
「入って」
莉子が言うと、渉は「すみません」と言って靴を脱いだ。革靴の内側にも水が入っているらしく、脱ぐときに、くちゅ、という小さな音がした。
バスルームからタオルを二枚取ってきた。一枚を渡すと、渉はすぐには使わず、ただ持った。
莉子は洋室に向かいながら言った。
「どこから来たの」
「会社の近くで、飲み会がありました」
「会社の近く」
「はい」
「ずっと外にいたの、雨の中」
「いいえ。途中まで屋根のある場所にいました」
クローゼットを開けながら、莉子はその答えを聞いた。途中まで、屋根のある場所に。それはつまり、どこかから出てきたということだ。飲み会の店から出て、雨の中に入って、こちらに向かった。なぜそうしたのかは、聞かなかった。
賢人の服が、奥に何着か残っていた。
整理しようと思ったことは、何度かある。でも順番が来なかっただけだ、と莉子は思っている。本当にそうかどうかは、あまり考えないようにしている。薄いグレーのスウェット上下を取り出した。肩幅が近そうだと判断した。賢人と渉を、体格で比べたことは一度もなかったはずだが、手は動いていた。
「これ使って。シャワー浴びていい」
渉はスウェットを受け取り、一瞬、手の中で確かめるように触れた。
「ありがとうございます」
それだけ言って、バスルームに向かった。
*
シャワーの音が聞こえる間、莉子は台所でお茶の用意をした。渉が何を好むかわからなかったから、緑茶にした。急須に茶葉を入れながら、手が落ち着いていることに気づいた。動揺しているのか、していないのか、自分でも判断できなかった。
渉が突然来ることは、これが初めてではなかった。
賢人が入院してから退院できなくなった年の秋、渉は何度か莉子のいる場所に来た。病院にではなく、莉子のところへ。「お見舞いは僕が行くから、莉子さんはたまには休んでください」と言って、差し入れを置いていった。莉子が受け取らなかった日も、玄関の前に置いて帰った。あの頃は、そういうことをされる意味を深く考える余裕がなかった。
今は余裕がある。
それが、問題かもしれなかった。
水音が止まった。しばらくして、渉がリビングに戻ってきた。賢人のスウェットは丈が少し短かったが、渉の体格に思ったより似合っていた。タオルを首にかけたまま、リビングの入口で一瞬立ち止まった。入っていいか、という確認の間があった。
「座って」
テーブルに急須と湯呑みを置いた。向かいに座って、両手で湯呑みを包んだ。緑茶の湯気が細く上がった。渉はタオルを首にかけたまま、湯呑みを手に取った。
「飲み会でした」
「知ってる」
「終電、逃した」
「近くに住んでる友達、いないの」
「います」
莉子は湯呑みを持ったまま、渉を見た。渉は視線をテーブルに落としていた。
「いるけど、来てしまいました」
雨音がしばらく続いた。莉子は何も言わなかった。渉も言わなかった。怒鳴りたいわけでも、詰問したいわけでも、泣きたいわけでもなかった。ただ、確認しておかなければならないことがあった。
「泊まっていい。それだけ」
渉が顔を上げた。
「わかってます」
その言葉に嘘はないと思った。渉がそういう人間だということは、莉子は長い時間をかけて知っていた。賢人の病床に来るとき、渉は一度も「大丈夫ですよ」と言わなかった。大丈夫でないことを、ちゃんと知っていたのだと、後から理解した。
渉は湯呑みを一口飲んで、テーブルに戻した。その動作が、妙に静かだった。
今夜の渉に、何かある。
雨に濡れていること、終電を逃したこととは別の、もう少し奥にある何かが。莉子はそれに気づいたが、聞かなかった。今夜の渉の目は、いつもより少し遠いところを見ていた。自分の内側を、見ているような目だった。そういう夜に人に会いたくなることがある、ということを、莉子は知っていた。知っているから、聞かなかった。
「ソファに毛布出す。明日、仕事は」
「午後からです」
「早めに出てって。私は八時には出るから」
「はい」
押し入れから毛布と肌掛けを引っ張り出した。枕はクッションで代用するよう伝えると、渉は「充分です」と言って両手で受け取った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、莉子さん」
寝室のドアを閉めた。
*
ベッドに横になって、天井を見た。
眠れないと思っていたが、そうではなかった。眠れない夜というのは、何かを考え続けてしまう夜だ。同じところを、何度も何度も回り続ける。この夜は違った。頭が静かだった。ただ、リビングに誰かがいるという事実だけが、部屋の空気をわずかに変えていた。
賢人が逝ってから、ずっと一人だった。
正確に言えば、一人でいることを選んできた。引っ越しも考えたが、やめた。ここで二人で暮らした時間が、場所を変えれば消えてしまう気がした。消えてほしくないのか、消えてしまいたいのかも、よくわからないまま、二年が経った。
リビングから物音はしなかった。渉はもう眠っているのかもしれなかった。靴下も濡れていたはずで、替えを出し忘れた。今さら出ていくのも変だと思い、そのままにした。明日謝ろうと思い、そんなことでもないかとも思った。
天井を見ていたら、病室の天井を思い出した。
賢人が逝ったのは、二年前の二月だった。診断が出てから八ヶ月。当初の余命宣告より三ヶ月長く生きた。医師は「よく頑張られました」と言った。莉子は頷いたが、何を頑張ったのかを、今もわかっていない。賢人は病気と闘ったわけではなかった。ある日から食べられなくなり、ある日から歩けなくなり、ある日から声が出なくなった。そして二月の朝、莉子が少しだけ眠った隙に、一人で静かに逝った。
最後の夜、賢人は莉子の手を握った。指に力はなかった。それでも確かに、握っていた。何かを言おうとしていた。莉子は顔を近づけた。息の音だけがして、言葉は来なかった。
「言わなくていい」と莉子は言った。「わかってるから」
本当はわかっていなかった。でも、そう言うしかなかった。何が言いたかったのかを、もう聞けないまま、二年が経つ。
賢人が生きていた頃、夜中に冷蔵庫を開ける音がした。
水を飲みに行く音だった。それで一度目が覚めて、また眠る。そのくり返しを、何年も続けた。うるさいと思ったことがある。今から思えば、なぜそんなことを思ったのかわからない。音がするということは、誰かがいるということだった。誰かがいるということが、当たり前すぎて聞こえていなかった。
今は、何も聞こえない夜だけがある。
どこかから、金木犀の香りがした。
窓を細く開けていたせいだろう。雨の中を通り抜けてきた香りは水気を含んでいたが、それでも甘かった。マンションの駐輪場の横に一本だけある金木犀の木は、毎年この季節に莉子の気づかないうちに咲いていて、気づいた頃には散っている。
香りだけが先に届く花だ。
姿を探して見上げても、橙色の小さな花は木の葉に隠れてなかなか見つからない。気配だけのもの、存在を主張しないもの、形より先に感触だけが来るもの。莉子は大学生の頃から、そういうものが好きだった。
目を閉じた。
雨音が少しずつ遠くなった。
壁の向こうに渉がいるという意識が、眠る直前まで消えなかった。それが怖くなかった。怖くない理由を考える前に、莉子は眠っていた。
*
目が覚めると、六時二十分だった。
カーテンの隙間に光は見えなかった。薄い空だろう。起き上がり、寝室のドアをそっと開けた。
静かだった。
ソファに毛布が畳まれていた。クッションの上に、四角くきれいに重ねてある。渉はいなかった。台所に目をやると、コーヒーメーカーの横に、小さな紙切れが置いてあった。コンビニのレシートの裏に、ボールペンで書いてある。
*
コーヒー、飲み切っちゃった。補充しておきます。
*
それだけだった。署名もなかった。
莉子はコーヒーの缶を開けた。確かに空だった。昨日の朝の時点で、まだ三杯分はあったはずだった。渉は何杯飲んだのだろう。眠れなかったのかもしれない。今夜の渉の目が、少し遠いところを見ていたことを思い出した。飲み会から途中で出て、雨の中を来て、眠れないままコーヒーを飲んで、夜明け前に帰った。
その夜に何があったのかを、莉子はまだ知らなかった。
紙切れを持ったまま、台所に立っていた。
捨てるべきか考えた。考えながら、引き出しを開けた。単三電池と輪ゴムと、家電の取扱説明書の切れ端が入っている引き出しに、レシートを差し込んだ。
後でゴミと一緒に捨てればいい、と思った。それがいつになるかは、わからなかった。
*
出勤の準備をして、玄関を出た。
廊下の、昨夜渉が立っていた場所は乾いていた。革靴が滴らせた水は、跡形もなかった。時間というのはそういうものだと思った。残るものと、消えるものがある。消えたものが大切でなかったことにはならない。残っているものが大切だということにもならない。
一階に下りてエントランスを出ると、道路が濡れていた。雨は止んでいた。金木犀の香りがした。昨夜より濃かった。駐輪場の横の木を、少し離れたところから見た。橙色の花が、枝という枝に密集して咲いていた。風もないのに、ほんのわずか揺れているように見えた。
莉子は近づかなかった。
金木犀は、気づいた頃には終わっている花だ。見つけたと思った瞬間に、もう終わりが始まっている。
駅に向かって歩き始めた。電車の中でスマートフォンを開いた。渉からのメッセージはなかった。通知も何もなかった。当たり前だと思った。あの人はそういう人だ。来たいから来て、静かに消えていく。置いていくのはコーヒーの空き缶と、レシートの裏に書いた二行だけだ。
それがなぜか、少しだけ悔しかった。
窓の外の景色が、段々と白んでいく空の下を流れた。引き出しの中のレシートのことを、乗り換えの駅まで三回考えた。四回目に考えるのをやめた。
*
あの夜、鍵を開けたことが始まりだったと、莉子が気づくのはずっと後になってからだ。
あの夜、鍵を開けなければよかったとは、一度も思わなかった。
それが、問題だった。
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