見出し画像

おかえりと言えるまで――「ただいま」を失った女と、十二歳年下の従弟の大人の恋 2


【この作品のマガジン】

第二章 金木犀、見えない花

 十月に入って最初の月曜日、莉子は引き出しの中のレシートをまだ捨てていなかった。

 捨てようと思ったことは、四回あった。朝、出勤前に引き出しを開けるたびに目に入り、その度に今日こそはと思った。思いながら閉めた。三週間が経った。単三電池と輪ゴムの間で、レシートは折り目ひとつなくそこにある。

 渉からの連絡は、何もなかった。

 コーヒーを補充する、と書いてあった。補充は来なかった。だからといって約束を破られたと思うほど莉子も子供ではなかったが、あの二行が果たして何だったのかを、通勤の電車の中で何度か考えた。あの夜、渉の目が少し遠いところを見ていたことも、考えた。飲み会の席から途中で出て、雨の中を来て、眠れないままコーヒーを飲んで、夜明け前に消えた。そういう夜に人に会いたくなることがある。そのことは理解できた。理解できても、なぜ莉子のところへ来たのかは、やはりわからなかった。

 仕事は忙しかった。

 莉子が勤める汐見・中川公認会計士事務所は、青山通りから一本入った雑居ビルの五階にある。所員十二名の小さな事務所で、会計監査から税務申告、経営相談まで手がける。莉子は入所八年目、会計士登録は四年前だ。担当先は十五社で、十月は決算期の法人が重なる。残業が続き、帰り道にコンビニに寄る体力もない日が連続した。

 それはある意味で、ありがたかった。忙しければ、余計なことを考えずに済む。余計なこと、が具体的に何を指すのかを、莉子はできるだけ検討しないようにしていた。

 その日の午前中、莉子は中堅食品メーカーの決算説明を四時間かけてやり直した。前担当者のミスで数字の一部が誤って計上されており、最初から積み直す作業だった。

 こういう仕事が、莉子は嫌いではなかった。

 数字には、感情が入り込む余地がない。ミスはミスで、正解は一つだ。どれほど時間がかかっても、どれほど疲れていても、最後には必ず答えが出る。それが安心だった。感情はそうではない。何時間向き合っても答えが出ないことがある。出たと思っても翌朝には変わっている。数字はそういうことをしない。

 昼前に所長の中川が「昼、出るか」と声をかけた。二十歳以上年上で、賢人が死んだとき「無理するな」と一言だけ言った人だ。それ以上は何も言わなかった。それが、当時の莉子には一番ありがたかった。

「今日は持ってきました」と答えた。

「そうか」と中川は言って、出ていった。

 それだけの会話だった。でも、それだけで充分だった。

 白糸屋から連絡が来たのは、そんな十月の半ばだった。

        *

 白糸屋は、創業八十二年の老舗百貨店だ。銀座の本店と郊外に三支店を持ち、莉子の事務所が長年担当してきた。莉子が引き継いだのは四年前で、賢人が入院する前の年だった。先輩が産休に入るタイミングで担当を受け取り、以来一人で窓口をしている。

 経理部長の長谷川という五十代の男性から電話が来た。

「広告費の処理確認で、少しお時間をいただけますか。今年から代理店を切り替えたので、先生にも同席いただけると助かります」

 代理店が変わったということは、契約形態や費用の分類が変わる可能性がある。莉子は手帳を開いて、十月二十二日の午後を押さえた。

 電話を切ってから、代理店が変わった、という事実を何となく頭の中で転がした。何かを思ったわけではなかった。思うべき理由がなかった。

        *

 打ち合わせは、白糸屋本店の六階会議室だった。

 十分前に着いて、受付で案内されるまでロビーの椅子に座っていた。窓から銀座の交差点が見えた。白糸屋の懸垂幕が、秋のギフトフェアの告知を掲げていた。赤と金色の派手なデザインで、この時期の百貨店らしい、人を引き寄せようとする色だった。

 長谷川部長が迎えに来て、会議室に入った。

 四人がけのテーブルに、すでに二人が座っていた。一人は白糸屋の若い担当者で、顔を知っていた。もう一人が代理店の人間だろうと思って視線を向けた瞬間、莉子は一瞬だけ、呼吸が止まった。

 渉が、こちらを見ていた。

 スーツを着ていた。あの雨の夜の濡れたジャケットではなく、きちんとした濃紺のスーツだった。姿勢がよかった。表情は、莉子がこれまで見てきた渉のどの顔とも違った。穏やかだが、どこか研ぎ澄まされている。仕事をしている人間の顔だった。

「はじめまして。アーチ・クリエイティブの桐島と申します」

 渉は立ち上がり、名刺を差し出した。

 莉子も名刺を出した。受け取る手が、わずかに遅れた。「はじめまして」と言いながら、これははじめましてではない、と思った。渉の目が一瞬だけ細くなったが、すぐに仕事の顔に戻った。驚いた様子は、なかった。

 驚いていないということは、知っていたということだ。

 白糸屋が莉子の事務所をどこに頼んでいるかを、渉は事前に調べた。そういうことだと、莉子は椅子に座りながら理解した。その理解は静かに、しかし確実に、胸の奥のどこかに落ちた。

        *

 打ち合わせは一時間かかった。

 広告宣伝費の計上方法、翌期への繰り越し、試供品費と交際費の区分。莉子はいつも通りメモを取り、確認事項を整理しながら長谷川部長の質問に答えた。渉は正面に座っていた。

 渉は、話がうまかった。

 数字の専門的な話になっても臆せず、わからない点はその場で認め、わかりやすい言葉で補足した。押しつけがましくなく、しかし自分の仕事に確信を持っていた。こちらが質問する前に、疑問になりそうな箇所を先回りして補足した。

 莉子は、自分が渉を観察していることに気づいて、資料に目を落とした。

「今季のメインキャンペーンですが」と渉が言った。「ビジュアルのコンセプトだけ、少しご説明させてください」

 タブレットを取り出し、画面を見せた。

 金木犀の写真だった。見上げるアングルで撮られた写真で、橙色の小さな花が枝に密集し、空に広がっている。花の向こうに薄い秋の青が透けていた。写真の下に、白い文字でコピーが書いてあった。

  気づいたときには、もう好きだった。

「今季のテーマは『贈る前に、気づく』です」と渉は言った。「贈り物というのは、誰かを大切に思う気持ちが形になったものです。でもその気持ちに気づくのは、案外ずっと後になってから。金木犀の香りを感じてから、花の在り処を探すように」

 長谷川部長が「なるほど」と頷いた。

 莉子はコピーを読んだ。

 気づいたときには、もう好きだった。

 誰に向けて書いたのか、と聞きたかった。聞けなかった。

 会議が終わり、長谷川部長と白糸屋の担当者が先に出た。莉子が資料を鞄にしまっていると、渉がまだ会議室にいた。

「ご存知でしたか」と渉が言った。「白糸屋さんが莉子さんの事務所に依頼していることを」

「知らなかった」

「そうですか」

「あなたは」

 渉は少しの間、答えなかった。

「知っていました」

「なぜ調べたの」

「お会いしたかったので」

 莉子は渉を見た。渉は莉子を見た。

「仕事の場で会いたいと思ったの」

「仕事の場でしか会えないと思ったので」

 腹を立てるべきかもしれなかった。でも、その気になれなかった。

「次の予定がある」と莉子は言って、ドアに向かった。渉は一歩引いてドアを開けた。

「莉子さん」

 廊下に出かけて、振り返った。

「お時間をいただけますか。今日、このあと」

「仕事の話なら」

「仕事の延長として、最初だけ」

 莉子はしばらく考えた。考えている間に、考えることをやめる気がした。

「一時間だけ」

        *

 渉が連れて行ったのは、白糸屋から歩いて五分の小料理屋だった。

 カウンターに七席だけの小さな店で、昼間から開いているが夜も使える。渉は常連らしく、入ると店主の年配女性が「いらっしゃい」とだけ言って、二人分の席を示した。

 莉子は最初、お茶を頼むつもりだった。

 でも渉が「少しいいですか」と言って日本酒を頼んだとき、莉子は「一合だけ」と言った。仕事の延長という言葉に免じて、それくらいはいいだろうと思った。

 一合が、いつの間にか二合になった。

 渉との会話は不思議と弾んだ。仕事の話から始まり、莉子の事務所のこと、渉の担当しているほかのクライアントのこと、最近おもしろいと思ったものや場所の話になった。渉はよく聞いた。莉子が話すと、先を促すでも結論を急ぐでもなく、ただ聞いた。聞かれると、莉子は話した。話すうちに、気づいたら二合が空になっていた。

「もう一合だけ」と言ったのは、莉子からだった。

 渉は何も言わずに、三合目を頼んだ。

 日本酒に強いほうではなかった。三合飲んで、店を出た頃には、莉子の足元が心なしか定まらなかった。タクシーを拾って、渉が莉子のマンションの住所を告げた。番地まで、迷わずに。

 莉子は聞かなかった。先月の雨の夜、渉はここに来た。住所を覚えているのは当然だ。当然のことだと思いながら、迷わずに言えたという事実が、理由とは別の何かとして、どこかに刺さった。

 タクシーが走り出した。

 夜の銀座が窓の外を流れた。橙色の街灯が、ガラスを濡らすように流れた。莉子は目を閉じた。閉じるつもりはなかったのに、閉じていた。


 ふと気づくと、頭が傾いていた。

 渉の肩に、頭が当たっていた。

 意識はあった。かろうじてあった。意識があるまま、動けなかった。動かなかった、という方が正確かもしれない。渉の肩は莉子が思っていたより広く、コートの生地が頬に触れていた。渉は動かなかった。窓の外を見ているのか、目を閉じているのか、莉子には確認できなかった。

 体温が伝わってきた。

 誰かの体温が自分に届くという感覚を、莉子はいつ以来持っただろうと思った。思いながら、考えるのをやめた。日本酒がそうさせているのか、自分がそうしたいのか、判断できなかった。できないまま、タクシーは走った。

 マンションの前で止まり、渉が「着きましたよ」と言った。

 莉子はすぐに頭を上げられなかった。一秒か、二秒か、渉の肩の上にいた。渉も動かなかった。タクシーのメーターが止まる音がした。

「着きました」と渉がもう一度言った。今度は、さっきより少しだけ普通の声だった。

 莉子は頭を上げた。起き上がりながら、頬にコートの生地の感触が残っていることに気づいた。渉は莉子を見ていた。特別な顔はしていなかった。ただ、見ていた。

「ありがとう」と莉子は言った。

「気をつけて帰ってください」と渉は言った。

 莉子はタクシーを降りた。ドアが閉まり、タクシーが走り去った。

 しばらく、夜の道路の前に立っていた。

 酔いのせいで頬が温かかった。酔いだけのせいかどうかは、確認しないことにした。

 部屋に帰り着き、コートを脱いで、椅子に座った。引き出しを開けるつもりはなかったのに、なぜか開けた。レシートがあった。渉の字で、「コーヒー、飲み切っちゃった。補充しておきます」と書いてある。

 莉子はレシートを取り出して、テーブルの上に置いた。

 見た。

 しばらく見て、また引き出しにしまった。

        *

 翌週の土曜日、奈緒のサロンに寄った。

 予約はしていなかったが、閉店間際に電話すると「今日は空いてるから来な」と奈緒は言った。北参道の小さなサロンで、夜になると外から中の様子が見えた。奈緒が一人で片付けをしていた。

 シャンプー台に仰向けになって、天井を見た。お湯が頭皮に当たる温かさが、思ったより気持ちよかった。

「最近どう」と奈緒はシャンプーを泡立てながら言った。

「普通」

「莉子が普通って言うときは、普通じゃないんだよね」

 奈緒の指が頭皮を押す感覚が、心地よかった。莉子は目を閉じた。

「渉くん、どうなの」

「仕事で会った」

「仕事以外では」

「ない」

「仕事で会ったって、どういうこと」

 目を閉じたまま、話した。白糸屋の打ち合わせで渉が現れたこと。渉が事前に調べていたこと。そのあと二人で飲みに行ったこと。

「飲みに行ったの」奈緒の手が止まった。「二人で」

「仕事の延長として」

「それ仕事じゃないよ」

「最初の口実が仕事だっただけで」

「莉子」

 奈緒は再び泡を立てながら、続けた。

「タクシー、どうだった」

「なぜタクシーの話が出てくるの」

「飲んで帰ったなら、タクシーでしょ。二人で乗ったでしょ。何かあったでしょ」

 莉子はお湯の音を聞きながら、少し間を置いた。

「肩に、頭が当たった」

「ほら」

「日本酒のせいで眠くなっただけ」

「渉くんは」

「動かなかった」

 奈緒は何も言わなかった。指が動き続けた。泡が耳の後ろを流れた。

「動かなかったことが、どうだった」

 莉子は答えなかった。答えられなかった、と言う方が正確だった。

「嫌だった?」

「嫌じゃなかった」

「うれしかった?」

「……わからない」

「わからないって言うのは、わかってるってことだよ」

 お湯が止まり、タオルで包んでもらった。椅子に座り直して鏡を見た。タオルを頭に巻いた自分の顔は、化粧が取れていて年齢通りに見えた。三十六歳の、少し困っている顔。

「賢人くんに、似てる?」

「違う。全然違う。顔も、しゃべり方も、いる雰囲気も。何一つ似ていない」

 奈緒は鏡の中の莉子を見た。

「じゃあ、逃げ道ないじゃん」

 莉子は答えなかった。

 ドライヤーを持ち上げる前に、奈緒が一瞬だけ手を止めた。鏡の中で、奈緒の目が窓の方を向いた。何かを思っている間があって、それから電源を入れた。

 莉子は知っていた。奈緒と夫の間に、ここのところ小さなすれ違いが続いていることを。大した問題ではないと奈緒は言う。ただ話す時間が減った、それだけのことが積み重なっている、とも言った。奈緒が莉子に「動け」と言うとき、もしかすると半分は自分に向かって言っているのかもしれないと、莉子はふと思った。

 ドライヤーの風音が会話を遮った。それがむしろよかった。もうしばらく、考えたくなかった。

        *

 十一月に入った頃、白糸屋の前を通った。

 懸垂幕が変わっていた。秋のギフトフェアの赤と金が消えて、白地に金木犀の写真が出ていた。打ち合わせで見たあのアングルの写真で、橙色の花が枝に密集し、空に広がっている。白い文字でコピーが書いてある。

  気づいたときには、もう好きだった。

 莉子はその前で、一度だけ立ち止まった。

 このコピーを書いたのが渉だということを、今は知っていた。誰に向けて書いたのかを問えば、渉は答えるだろう。答えることがわかっているから、聞けなかった。

 人が後ろから来て、莉子は避けるように動いた。

 金木犀の花は、十月の末にもう散っていた。今は枝だけが残っている。でも懸垂幕の中の花は、まだそこに咲いていた。

 気づいたときには、もう好きだった。

 誰のことが、と莉子は思った。

 考えた。考えてしまった。

 駅に向かって歩き始めた。コートの前を合わせ、マフラーを巻き直した。十一月の風が、頬を冷やした。頬が温かくなるのは、寒いからだけではないかもしれないと、一瞬思った。一瞬だけ思って、電車に乗った。

 渉から、その夜、一通のメッセージが来た。

「白糸屋のポスター、街に出ました。見ましたか」

 莉子はしばらく画面を見た。

「見た」とだけ打った。

 渉からの返信は、来なかった。

 それが、なぜか少し悔しかった。引き出しの中のレシートのことを思った。レシートは今もそこにある。三週間どころか、もうすぐ二ヶ月になろうとしていた。

←もくじ・第一章

 第三章→

【この作品のマガジン】

#創作大賞2026 #恋愛小説部門 #大人の恋愛 #年の差 #死別 #ヒューマンドラマ

いいなと思ったら応援しよう!

金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。