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おかえりと言えるまで――「ただいま」を失った女と、十二歳年下の従弟の大人の恋 4

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第四章 椿の落ちる前に


 一月というのは、一年の中でもっとも嘘くさい月だと、莉子はずっと思っている。

 日付が変わっただけで、世界が刷新されたかのように振る舞う。街が「新年」という言葉を掲げ、人は「今年こそ」と言う。言わなければならない空気がある。昨日までの重さは、そのまま持ち越されているのに。

 今年は去年より、少し違うかもしれないとは思った。

 しかし何がどう違うのかを説明できるほど、莉子の中で何かが定まっているわけでもなかった。ただ、正月明けに出勤するとき、白糸屋の前を通ったとき、椿のポスターを見て足が止まった。

  一度だけ、丸ごとあなたに。

 このコピーを書いた人間が今、大阪に行くかもしれない。

 そのことを知ったのは、年が明けてすぐだった。

        *

 白糸屋との打ち合わせは、年明け最初の週に設定されていた。

 正月の閑散とした銀座を歩きながら、莉子は今日は渉が来るのかどうかを考えた。仕事として、中立に考えた。中立に考えようとした。

 会議室に入ると、長谷川部長と白糸屋の担当者がいた。渉の姿はなかった。代わりに、三上さんが一人で来ていた。

「本日は桐島が別件で来られず、私が代わりに参りました」と三上さんは言って、頭を下げた。

 打ち合わせは一時間で終わった。業務上の確認事項を片付けて、長谷川部長が先に出た。三上さんが荷物をまとめているのを、莉子は待った。渉のことを聞くつもりはなかった。聞かなければ、知らずに済む。知らずに済むことを、選ぶことができる。

 エレベーターの前で、三上さんが言った。

「汐見先生、少しだけよろしいですか」

 声に迷いがあった。仕事の声ではなかった。

「来月から、桐島さんが大阪のプロジェクトに入るかもしれないんです」

 莉子は三上さんを見た。

「大型の商業施設のキャンペーンで、半年から一年のプロジェクトです。本人は返事をまだ保留していますが、会社としては受けてほしいと思っているみたいで。白糸屋さんの担当も引き継ぎが必要になるので、先にお伝えした方がいいと思いまして」

「そう」と莉子は言った。

「業務上の連絡として、お伝えしておきたかっただけです。すみません、余計なことを」

「いえ」

 エレベーターが来た。二人で乗った。一階まで、会話はなかった。

 エントランスで「失礼します」と三上さんは頭を下げて、足早に出ていった。

 莉子はしばらく、その場に立っていた。

 来月から。半年から一年。大阪。

 言葉が、順番に頭の中に並んだ。感情としてではなく、まず事実として。事実を並べ終えてから、初めて、胸の奥が何かをするのがわかった。それが何かを確認する前に、莉子は外に出た。一月の冷気が顔を打った。

        *

 渉からは、年が明けてから何度かメッセージが来ていた。

 仕事の確認事項がほとんどで、一通だけ、「あけましておめでとうございます」という短いものもあった。莉子は全部、業務的な内容だけ返した。神楽坂の夜の、「電話が鳴らなかったら」という未完の文章に、莉子はまだ返していなかった。返せないまま、二週間が経っていた。

 渉は催促しなかった。

 催促しないことが、渉という人間の誠実さでもあり、莉子が踏み出せない理由でもあった。待たれると、待たせることへの罪悪感が積まれていく。

 大阪の話は、本人から聞いていなかった。

        *

 日曜日の午後、雅代が来た。

 前もって「行ってもいい?」とメッセージが来たのは昼前で、断れる雰囲気ではなかった。母が訪ねてくること自体は珍しくない。賢人が死んでから、月に一度か二度、雅代は来た。いつも差し入れを持ってくる。今日はタッパーに入った豚汁だった。

「寒いから、体が冷えていると思って」

 雅代は玄関で言った。六十五歳で、白髪が増えたが、立ち居振る舞いは若い頃と変わらない。莉子が子供の頃から、この人は動作が静かだった。

「ありがとう。上がって」

 雅代はコートを脱ぎながら、リビングを見た。視線が棚の上で、一瞬止まった。賢人のマグカップと、その隣に立てかけたレシートが見えたはずだ。莉子は気づいていたが、何も言わなかった。雅代も何も言わなかった。

 台所に立つと、雅代は自然に冷蔵庫を開けた。

「少し何か作ろうか」

「いい。豚汁があるから」

「野菜が少ないね」

 批判ではなく、観察として言った。莉子は「忙しかった」と答えた。本当のことだった。仕事が忙しかったのは本当で、それ以外のことが頭を占有していたことは、半分本当だった。

 二人でテーブルに向かい合って、豚汁を食べた。お茶を淹れた。雅代はいつも緑茶を好む。莉子は同じものを淹れた。

「お正月、一人だったの」

「うん」

「来てあげればよかった」

「いい。一人が楽だから」

 雅代は何も言わなかった。湯呑みを両手で包んでいた。

「聡子さんから、年末に連絡があって」

 莉子は湯呑みを持ったまま、少し構えた。

「渉くんのこと。大阪のお仕事が入りそうだって、心配していた」

「そう」

「長くなりそうなの」

「仕事の話なので、詳しくは」

「そう」

 雅代はそれ以上聞かなかった。お茶を一口飲んで、窓の外を見た。一月の空が低く、白かった。

「渉くん、昔からあなたのことを見ていたわ」

 雅代が言った。静かに、事実として。

「子供の頃から、あなたの方ばかり見ていた。気づいていたけど、何も言わなかった」

「お母さん」

「責めているんじゃない。ただ、知っていたということ」

 莉子は黙った。

 雅代は立ち上がり、空になった湯呑みを台所に運んだ。洗う音がした。タオルで拭く音がした。それだけのことが、今日の莉子には、少し遠い場所から聞こえた。

「賢人のもの、まだあるのね」

 帰り際、雅代が棚の上を見て言った。マグカップのことだった。

「捨てられない」

「捨てなくていい」と雅代は言った。「ただ」

 そこで止まった。

「ただ、何」

 雅代はコートを着ながら、莉子を見た。

「体、気をつけてね」

 それだけ言って、帰った。

 莉子は玄関が閉まる音を聞いた。

 廊下に一人で立って、「ただ」の先に何があったのかを考えた。考えても、わからなかった。でも、雅代が何かを言いたかったことは、わかった。

        *

 義父母が来たのは、雅代が帰った三日後だった。

 事前の連絡はあった。節子から「少し伺ってもいいかしら」というメッセージが来て、莉子は「もちろんです」と返した。断れなかったのではなく、断るべき理由がなかった。義父母は、賢人が死んでからも莉子を「うちの子」として扱ってきた。正月には食事をした。命日には必ず連絡をくれた。

 日曜日の午後、二人で来た。節子が煮物を持ってきた。賢人が好きだったひじきの煮物で、莉子もその味を知っていた。

「いつもありがとうございます」

「せっかく作ったから、もらってもらえると助かるの」

 節子はそう言って、タッパーを台所に置いた。孝雄は玄関で靴を脱ぎながら、部屋を一度だけ見た。何を確認したのかは、わからなかった。

 お茶を淹れた。三人でテーブルに座った。孝雄はほとんど話さなかった。節子が話した。

 賢人が子供の頃の話、今年の正月の話、近所の桜がそろそろという話。会話が途切れることなく続いた。莉子はそれを聞きながら、二人がここに来た本当の目的を待っていた。

「莉子さん」

 節子が言った。お茶を持ったまま、真っ直ぐに莉子を見た。

「渉くんのこと、聞いたの」

「はい」

「雅代さんから連絡があって」

「そうでしたか」

 莉子は湯呑みを置いた。膝の上で手を重ねた。

「責めているわけじゃないの」と節子は言った。「ただ、気になって」

「気になる、というのは」

「渉くん、ずっと莉子さんを見ていたでしょ。賢人と一緒に来るようになってからも、ずっと。賢人も気づいていたと思う」

「そう」

「そういうことは、賢人も黙っていたでしょうね。あの子らしい」

 孝雄がお茶を飲んだ。何も言わなかった。

「莉子さんに幸せになってほしい」と節子は続けた。「賢人の分まで、長く生きてほしいと思ってる。それは本当のことで、二人でいつも話していること。ただ」

 節子は少しだけ間を置いた。

「渉くんがね、まだ若くて、しかも莉子さんの従弟で。そういうことを、周りがどう見るか、心配で」

「そうですね」

「でも」と節子は言った。湯呑みを両手で包んだ。「一度だけ、賢人が言ったことがあって」

 莉子は息を整えた。

「入院して、しばらく経った頃に。渉くんのことを話したの。あの子は莉子のそばにいてくれているから、心強いって。それだけ言って、それ以上は言わなかった。でも」

 節子はお茶に目を落とした。

「賢人が人の名前を出すのは、珍しかったから。覚えていた」

 しばらく、誰も言葉を出さなかった。

 台所の壁に、煮物を入れたタッパーが置いてある。節子が作った、賢人の好きな味が。莉子はそれをここから見た。

「それを、今日、話してくれたのは」

「話した方がいいと思ったの」と節子は言った。「何かの助けになるかどうかはわからない。でも、莉子さんには知っていてほしかった」

 孝雄が立ち上がった。帰り際だと思ったらしく、節子も立った。

 玄関で靴を履きながら、節子が振り返った。

「莉子さんが自分で決めることだから、私たちがどうこう言えることじゃない」

「はい」

「ただ、幸せでいてほしい。それだけは、本当に」

 孝雄がドアを開けた。廊下に出て、莉子の方を一度だけ見た。何も言わなかった。でも、その目に何かがあった。怒りでも哀れみでもなく、もっと複雑な何かが、一瞬だけそこにあって、消えた。

 ドアが閉まった。

 莉子はしばらく、玄関に立っていた。

 賢人が、渉の名前を口にしていた。入院中に。莉子のそばにいてくれている、と。

 それが何を意味するのかを、莉子はすぐには考えられなかった。考えようとすると、胸の奥の、何かがまだ固いところに当たった。まだ、開けられない扉がある。

 台所に戻り、椅子に座った。

 棚の上のマグカップを見た。賢人のマグカップが、そこにあった。

 あの人は知っていた。知っていて、何も言わなかった。最期まで。

 莉子は目を閉じた。

 瞼の裏に、外苑前の枯れた並木が見えた気がした。今夜、渉と会う約束をしている。

        *

 その夜、渉にメッセージを送った。

「時間をもらえますか。会って話したい」

 返信はすぐに来た。

「いつでも」

 翌日の夜に、外苑前で会うことにした。仕事と関係のない場所を、莉子が選んだ。

 一月の外苑は、イチョウの葉がすべて落ちて、枝だけが空に向かっていた。並木は形を保っていた。葉を落としても、枝の配置は乱れない。骨格だけになって、かえって整然としていた。

 渉はすでにそこにいた。コートのポケットに両手を入れて、並木の入口近くに立っていた。莉子を見つけて、歩いてきた。

「寒いですね」

「うん」

「どこかに入りますか」

「少し歩きたい」

 二人で並木の中に入った。人が少なかった。枯れた銀杏の匂いがわずかに残っていた。

「大阪の話、聞きました」

 莉子は歩きながら言った。渉は一瞬、歩調が変わった。

「三上に聞きましたか」

「仕事上の連絡として。受けるの」

「まだ返事をしていません」

「でも、受けるつもりでいる」

 渉は答えなかった。その沈黙が、答えだった。

 並木の真ん中あたりで、莉子は立ち止まった。渉も止まった。灰色の枝が空に広がっていた。光がなかった。

「近づかないでほしい」と莉子は言った。

 渉は何も言わなかった。

「あなたと一緒にいると、また誰かを失うことが怖くなる。怖くなると、動けなくなる。だから」

「莉子さん」

 渉が言った。いつもより少し低い声だった。

「怖い、ということは、僕も同じです」

「あなたが」

「僕が失う側になる可能性を、莉子さんは考えましたか」

 莉子は渉を見た。

 穏やかだったが、いつもの穏やかさとは違っていた。

「莉子さんが怖いのは、わかります。でも、僕にも怖いことがあります」

「何が」

「莉子さんが、何も選ばないまま、時間だけが過ぎることです」

 渉は少しの間、黙った。外苑の奥を見た。乾いた枝が空に向かっていた。莉子から目を逸らしたのは、この会話を通じて初めてだった。

「一つだけ、聞いていいですか」

「なに」

「莉子さんは、僕が大阪に行ったら、どうすると思いますか」

 莉子は答えられなかった。

 渉が莉子を見た。目が、いつもの穏やかさとは違っていた。傷があった。十四年間ずっと落ち着いて見えた目に、今夜初めて、傷みたいなものが出ていた。

「どうにもしないんでしょうね」と渉は言った。自分で答えた。声が、一瞬だけ揺れた。「それが、一番怖い」

「渉」

「十四年、ここにいました」

 渉の声が落ち着きを取り戻した。「莉子さんが賢人さんと結婚している間も、賢人さんが亡くなってからも、ずっとここにいた。まだ待てます。でも同じ街で、このまま待ち続けることは、もう僕には難しい」

 莉子は何も言えなかった。

「大阪に行くことにします」

 渉は言った。感情的に言ったわけではなかった。決めてきた言葉を、ただ伝えた。

「それは」

「脅しじゃないです。選択です」

「いつ」

「来月の中頃に」

 来月の中頃。三週間もない。

 莉子の中で何かが、静かに崩れた。崩れる音がした気がした。

「それを言いに来たの」

「言いたかったわけじゃないです。でも、言わないまま行くことはできなかった」

 渉は立ったまま、莉子を見た。責めていなかった。怒っていなかった。ただ、見ていた。疲れた目で、それでも真っ直ぐに。

「一つだけ、聞いてもいいですか」

「なに」

「九月の雨の夜、覚えていますか」

 莉子は頷いた。

「あの日、会社で大阪の話を最初に聞きました。打ち合わせが終わって、一人で外に出て、気づいたら莉子さんのマンションの前にいた。なぜそこに来たのか、自分でもわかっていませんでした」

 莉子は、あの夜のモニターの映像を思い出した。雨に濡れた渉が、カメラの少し右を見ていた。

「遠くに行くかもしれないと思ったとき、行く前に会いたい場所が、莉子さんのところだった。それだけです」

 莉子は答えられなかった。

 答えれば、何かを認めることになった。認めれば、怖くなる。怖くなれば、また止まる。その連鎖を、莉子は知っていた。知っていながら、今夜は、止まることができなかった気もした。

「行きます」と渉は言った。今度は帰るという意味の方で。

 莉子は何も言えなかった。

 渉が一歩、引いた。もう一歩。並木の外に向かって歩き始めた。莉子は追いかけなかった。

 振り返ることもなく、渉は並木を出た。

 莉子は一人で、枯れた銀杏の並木の中に立っていた。冷たい風が来た。枝が揺れた。葉がないから、音が少なかった。

        *

 帰り道、白糸屋の前を通った。

 夜になると、椿のポスターはライトアップされて、昼間とは違う色になる。深紅が、夜の中でいっそう際立っていた。

  一度だけ、丸ごとあなたに。

 椿は散らない。形を崩さないまま、丸ごと落ちる。

 渉は来月、大阪に行く。形を崩さないまま、莉子の前からいなくなる。それは渉が選んだことだった。けれど、自分と無関係だとは思えなかった。

 電車に乗った。座席に座って、窓の外を見た。

 九月の雨の夜のことを考えた。

 大阪の話を聞いた日に、渉はやってきた。遠くに行くかもしれないと思ったとき、行く前に会いたい場所がここだったと、渉は言った。

 莉子は鍵を、開けた。

 あの夜から、何も変わっていないのか。あるいは、全部変わったのか。どちらとも言えないまま、三ヶ月が過ぎた。渉の髪の濡れ方を覚えている。スウェットの丈が少し短かったことを覚えている。レシートの二行を、まだ捨てていない。

 捨てていないのに、渉が去ろうとしている。

 家に帰り、コートを脱いだ。

 棚の上のマグカップを見た。隣のレシートを見た。二つは今もそこにある。並んでいることが、おかしくなかった。それは変わっていない。でも今夜は、そのことが莉子を少しだけ、苦しくした。

 椅子に座って、スマートフォンを持った。

 渉にメッセージを打つべきか、打たないべきか。打てば何かを認めることになる。打たなければ、渉は来月、大阪に行く。

 スマートフォンを、テーブルに置いた。

 画面が暗くなった。

 部屋が、静かだった。賢人が死んでから何度も経験してきた静けさと、同じようで、少し違う静けさだった。あの頃の静けさは、何もなくなった後の静けさだった。今夜の静けさは、何かが失われていく途中の静けさだった。

 まだ間に合う、という感覚があった。

 間に合う、という言葉が頭に浮かんだことが、莉子には少し意外だった。

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