おかえりと言えるまで――「ただいま」を失った女と、十二歳年下の従弟の大人の恋 5
第五章 氷点下の春
一月の終わりを、莉子は数えながら過ごした。
正確には、数えていたわけではない。でも気づくと日付を確認していた。今日が何日で、渉が大阪に発つまであと何日か。二十日、十九日、十七日。数字が減っていくことに、仕事の締め切りを見るのとは違う感触があった。仕事の締め切りは、近づくにつれて何かが完成していく。でも今は、何も完成しないまま、数字だけが減っていく。
渉からの連絡は、仕事に関わるものだけが来た。
白糸屋の春キャンペーンの引き継ぎについて、後任の担当者の名前と連絡先が一通のメールに入ってきた。件名は「担当変更のご連絡」で、署名は「桐島渉」だった。業務上の丁寧なメールで、それ以外のことは何も書いていなかった。莉子は「承知しました」と返した。
「電話が鳴らなかったら」という未完の文章は、まだ渉とのトーク画面に残っていた。莉子は返せないまま、三ヶ月近くそれを抱えてきた。
引き出しの中のレシートを、ある朝、財布に移した。
なぜそうしたのか、自分でも説明がつかなかった。引き出しにあれば、開けたときだけ目に入る。財布に入れれば、毎日持ち歩くことになる。それがどういう意味を持つのかを、考えないようにしながら、莉子はレシートを財布の奥に差し込んだ。
*
奈緒から電話が来たのは、一月の最終週だった。
夜の九時過ぎで、莉子は仕事の資料を広げていた。
「最近どう、渉くん」と奈緒は言った。
「仕事の引き継ぎが来た。来月、大阪に行くことになったって」
「え」
「半年か一年のプロジェクト。先月、本人に会って聞いた」
奈緒はしばらく黙った。
「莉子、動くの」
「動くって」
「渉くんのところに行くとか、来てほしいって言うとか」
「それは」
「黙るってことは、動かないってことでしょ」と奈緒は言った。
声がいつもと少し違った。やさしくなかった。
「あたしね、ずっとやさしく言ってきたけど、もうやさしく言えない。後悔するよ、莉子。動かなかったことを、ずっと後悔すると思う。それだけ言いたくて電話した」
「奈緒」
「あたしは行くね」
電話が切れた。
莉子はスマートフォンを持ったまま、しばらく動かなかった。奈緒がいきなり電話を切ることは、今まで一度もなかった。それが奈緒の本気だった。
資料を閉じた。
窓の外の夜を見た。一月の夜は暗く、深く、何も映さなかった。
*
翌日の昼、三上さんからメッセージが来た。
「少しだけお時間をいただけますか。仕事のことではないのですが」
莉子は少し考えてから、「今日の夕方、一時間なら」と返した。
待ち合わせは、莉子の事務所の近くのカフェだった。三上さんは先に来ていた。仕事の格好ではなく、私服だった。ウールのコートが、彼女の年齢よりも少し大人に見えた。
「わざわざ、ありがとうございます」と三上さんは言った。
「余計なことかもしれないので、余計なら無視してください」
「聞きます」
三上さんはコーヒーを一口飲んで、テーブルに置いた。
「渉さんに、去年の夏に気持ちを伝えたことがあります」
莉子は表情を変えなかった。
「直接言いました。好きだって。渉さんは、すごく丁寧に、でもはっきりと言いました。申し訳ないけれど、違います、って」
「そう」
「それだけならよかったんですが」と三上さんは続けた。
「その後も何度か渉さんの仕事を間近で見ていて、気づいたことがあって」
「何を」
「渉さんが、誰かを見ている目がある、ということです。会議でも、資料の前でも、ときどきそういう目になる。その人のことを考えている目です。誰かは言わなかったけど、教えてもらわなくてもわかりました」
莉子は三上さんを見た。三上さんは莉子を見ていた。
「渉さんのコピーって、いつも誰か一人に向けて書いている感じがするんです」
三上さんは少し間を置いた。
「少なくとも、私じゃなかった」
三上さんは立ち上がった。
「余計なことでしたら、忘れてください。ただ、渉さんが大阪に行く前に、言った方がいいと思って」
頭を下げて、カフェを出た。
莉子はしばらく、空になった向かいの席を見ていた。
金木犀も、椿も。全部、同じ人に向けて書いていた。それは莉子も知っていた。知っていて、受け取れなかった。
財布の中のレシートを、莉子は触らなかった。触らなかったが、そこにあることを確かめた。
*
二月三日の朝、莉子は七時に家を出た。
電車を二本乗り継いで、霊園の最寄り駅に着いた。冬の空が白く低かった。雪になるかもしれないと天気予報が言っていたが、降っていなかった。
参道を歩いた。手桶に水を汲んで、奥の区画に向かった。花立てに白い菊を挿した。線香に火をつけた。風がないから、煙が真っ直ぐ上がった。
手を合わせた。
去年と同じように、何を言えばいいかわからなかった。去年は「元気です」と言った。今年は、何かを言わなければならない気がした。何かを、賢人に言わなければ、前に進めない気がした。
「賢人」
声が出た。
「渉のことを、好きになってしまったかもしれない。まだわからない。でも、たぶんそう」
霊園が静かだった。
「あなたを裏切っているのかどうか、今でもわからない。わからないまま、時間だけ過ぎていく。渉が来月いなくなる。私が動かなかったから」
涙が出た。
泣いていた。声が出た。みっともなかった。それでも止まらなかった。今日の涙は、これまで一人の夜に出てきた涙とは、少し違った。静かで、正直だった。
「どうしたらよかったのか、教えてほしかった。でも、あなたはそういうことを教えてくれる人じゃなかった。知ってた。だから聞かない。聞かないけど、来てくれていたら、少し楽だったかもしれない」
煙が横に流れた。少し風が出てきた。
莉子は立ったまま泣いた。みっともなかった。でも止まらなかった。
*
「莉子さん」
声がした。
振り返ると、渉が立っていた。コートを着て、片手に白い小菊を持っていた。
「なんでいるの」
「わかりません。来てしまいました」
渉は一歩近づいて、花立てに小菊を添えた。それから長く手を合わせた。莉子は聞かなかった。何を言っているのかわからなかったが、静かにそこにいた。
二人で、しばらく墓の前に立った。
「毎年来てるの」と莉子は言った。
「はい」
「去年も」
「はい」
「知らなかった」
「莉子さんと時間をずらして来ていました。でも今年は、会ってもいいかと思って」
莉子は泣き止んでいた。泣き止んだことに、自分で少し驚いた。
「近くに、温かい場所があります」と渉は言った。
「寒いですから」
莉子は頷いた。
*
霊園の近くに、小さな喫茶店があった。地元の人間しか来なそうな、古い店だった。コーヒーを頼んで、向かい合わせに座った。
渉は何も言わなかった。莉子も言わなかった。コーヒーが来て、二人で飲んだ。
窓の外で、霙が降り始めていた。半分が雨になっている、中途半端な白いものが、静かに落ちていた。
「渉」
「はい」
莉子はコーヒーカップを置いた。財布を取り出した。
レシートは奥にあった。指が触れた。取り出せなかった。窓の外で霙が続いていた。渉はコーヒーを飲んでいた。莉子の動きを見ていなかった。
もう一度、指をレシートにかけた。
取り出した。
コンビニのレシートの裏だった。
テーブルの上に、渉の方へ向けて置いた。
渉は見た。
自分の字で書かれた二行を、読んだ。
コーヒー、飲み切っちゃった。補充しておきます。
長い沈黙があった。
「まだ、持っていたんですか」
渉の声が、かすかに揺れていた。
「うん」
「九月から」
「九月から」
渉はレシートを見たまま、動かなかった。窓の外で霙が続いていた。
「捨てようと思ったことは」と莉子は言った。
「何度かあった。でも、捨てられなかった」
「なぜ」
「わからない。わからなかった。ずっと」
莉子はコーヒーを一口飲んだ。温度がちょうどよかった。
「渉が来月、大阪に行く。それはわかった。あなたの選択だから、止める権利はない。でも」
渉が顔を上げた。
「まだ間に合いますか」
渉は莉子を見た。
莉子は渉を見た。
どちらも動かなかった。霙の音が、小さく聞こえた。
「まだです」と渉は言った。
それだけだった。「何が間に合うか」とも「どうするつもりか」とも聞かなかった。ただ「まだです」と言った。
莉子はテーブルの上のレシートを、元通り財布に戻した。返さなかった。渉も返してとは言わなかった。
「もう少しだけ、ここにいていいですか」と莉子は言った。
「もちろん」
二人でコーヒーを飲んだ。向かいに渉がいた。賢人が逝ってから、誰かと向かい合わせに座ってコーヒーを飲んだことが、何度あっただろうかと莉子は思った。数えようとして、やめた。今ここにあることを、過去と比べなくてよかった。
霙が少しずつ、雨に変わっていった。
窓の外の白いものが減って、透明なものが増えた。それでも、まだどちらとも言えない時間が続いた。
*
霊園からの帰り道、渉が並んで歩いた。
いつもと同じように、道路側を歩いた。莉子の左側を。今日は何も言わなかった。言葉が必要な場面ではなかった。
駅の手前で、渉が立ち止まった。
「大阪の件、少し待ってもらえるか、確認します」
莉子は渉を見た。
「確認、というのは」
「返事をもう少し待ってもらえるかということです。会社に」
「それは、私のために」
「はい」
莉子は何も言えなかった。
「ただ、待ってもらえるかどうかはわかりません。プロジェクトの都合があるので」
「そう」
「莉子さんが持っていてくれたなら、待てる気がしました」
渉は先に改札に向かった。
莉子はその背中を見た。コートの背中が、人込みの中に入っていった。消えた。
莉子は動かなかった。
改札の前で、少しの間立っていた。霙はもう止んでいた。空が、少しだけ明るくなっていた気がした。
スマートフォンを開いた。
奈緒にメッセージを打った。
「動いた」
それだけ打った。
すぐに既読がついた。返信は一文字だった。
「◎」
莉子はスマートフォンを鞄にしまって、改札を通った。
電車に乗りながら、財布の中のレシートのことを思った。九月の雨の夜から、五ヶ月が経った。あの夜、莉子は鍵を開けた。今日、莉子はレシートを渡さなかった。渡さなかったことが、渡した言葉になった。
まだ間に合いますか、と莉子は聞いた。
まだです、と渉は答えた。
それだけで充分だった。今日は。
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます!
これからも頑張ります。