二十歳の約束 ~愛を、皿に盛る仕事~ 4
【この作品のマガジンはこちら】
第3章 価値を売る
1
七月の湿った熱気が、アスファルトを陽炎のように揺らしていた。
だが、ライフメイト・フーズの応接室には、静謐な冷涼さが漂っていた。テーブルの上に置かれた「それ」が、場の空気を支配していたからだ。
「……これが、最終デザイン案ですか」
麻耶の目の前に置かれているのは、桐箱を模した貼り箱だ。
表面には、手漉き和紙のような凹凸のある質感。色は、夜明け前の空を思わせる深く淡い藍色(あいいろ)。
そして中央に、箔押しではなく、墨文字のようなマットな黒で、たった三文字だけが刻まれている。
『二十歳』
猫の写真は一枚もない。キャッチコピーすらない。
隣に座る外部のアートディレクター、長谷川が静かに口を開いた。
「要素を極限まで削ぎ落としました。売り場で目立とうとして叫ぶのではなく、静かに佇む。その品格こそが、二十年という時間の重みを表現すると考えました」
麻耶は指先で箱の表面を撫でた。
ざらりとした和紙の感触。それは、派手なプラスチック包装にはない「体温」を感じさせた。
蓋を開ける。中には、個包装されたアルミパックが整然と並んでいる。その裏面には、QRコードと共に、生産者の名前と、乾工場長のメッセージが記されていた。
「完璧です」
麻耶は息をついた。
「これなら、リビングのテーブルに置きっぱなしにしても絵になる。インテリアにこだわる彼女たちの美意識を、決して邪魔しません」
だが、対面のソファに座る権藤は、顔を真っ赤にしてテーブルを叩いた。
「ふざけるな! 葬式饅頭じゃあるまいし、こんな地味な箱で売れるか!」
権藤の怒号が、静寂を引き裂く。
「猫の写真がないキャットフードなんて前代未聞だ。客が売り場で『これは何だ?』と迷うだろうが。それに、『二十歳(ハタチ)』だ? 誰が読むんだそんなもん!」
「迷わせていいんです」
麻耶は権藤を射抜くように見据えた。
「違和感こそがフックになります。金色の派手なパッケージが並ぶ棚の中で、この静寂は逆に異彩を放ちます。そして……」
麻耶は箱を両手で包み込むように持ち上げた。
「猫の写真を入れなかったのは、飼い主それぞれに、自分の愛猫の顔を思い浮かべてほしいからです。これは不特定多数の猫のための餌ではありません。その人の、世界でたった一匹のパートナーのための『お守り』なんです」
2
デザインは通した。だが、本当の闘争はそこからだった。
翌日の経営会議。議題は、ビジネスの根幹を揺るがす「プライシング(価格設定)」に移っていた。
スクリーンには三つの棒グラフが映し出されている。
1.原価志向:3,200円
2.競争志向:1,800円
3.需要志向:???円
経理部長が、電卓を叩きながら苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「高村君。乾工場長が最高級の本枯れ節だの、比内地鶏だのを使いまくったせいで、原価率は異常な数値だ。会社の規定通りの利益を乗せれば、キロ単価は三千円を超える。……キャットフードの値段じゃない」
すかさず権藤が吠える。
「だから言ったんだ! 競合の『ロイヤル・グルメ』ですら二千円だぞ? 後発の無名ブランドがそれより高くてどうする。千八百円……いや、赤字覚悟で千五百円にして、特売で数を捌(さば)くしかない!」
「それは、自殺行為です」
麻耶は静かに、しかし断固として否定した。
「安売り競争に巻き込まれれば、私たちは資本力のある大手にすり潰されます。それに、安くすれば『品質もそれなり』だと思われます。……私が提案する価格は、これです」
麻耶は手元のボードを掲げた。
『2,500円』
会議室がざわめく。
「二千五百円……? 原価を考えれば赤字ギリギリ、競合と比べれば高すぎる。どっちつかずだ」
「いいえ。これが、顧客が『痛み』を感じつつも、『愛の対価』として支払えるギリギリのラインです。これ以上高ければ富裕層の道楽になり、これ以上安ければ特別感が消える」
「だが、利益が出ないじゃないか!」
経理部長が悲鳴を上げた。「卸問屋と小売店にマージンを払ったら、完全に赤字だ!」
「ですから」
麻耶は一呼吸置き、爆弾を投下した。
「流通は使いません。店舗販売は一切行いません」
会議室の空気が凍りついた。
食品メーカーにとって、卸と小売店は命綱だ。それを切るという発言は、タブーに等しい。
「全量を、自社ECサイトでの直販とします。さらに、単発販売もしません。『年間契約のサブスクリプション』のみで販売します」
麻耶は身を乗り出した。
「中間マージンをカットすれば、二千五百円でも十分な利益が出ます。それに、私たちのコンセプトは『二十歳まで生きる』こと。毎月の定期便は、その長い旅路を伴走するペースメーカーになります」
権藤が呆れたように天を仰いだ。
「夢物語だ。店に置かずに、どうやって客に知ってもらうんだ? 誰がわざわざネットで検索してまで、無名の高い餌を買うんだよ!」
反論しようとした麻耶の声を、気だるげな、しかしよく通る若い声が遮った。
「検索なんてさせませんよ。向こうから『出会わせる』んです」
3
全員の視線が、部屋の隅に向けられた。
そこにいたのは、営業部の末席に座る若手社員、湊航平(みなと こうへい)だった。
二十七歳。いつもパーカーの下に社章を隠し、会議中はスマホばかりいじっている「ゆとり社員」の代表格だ。
だが今、彼がスマホから目を上げて麻耶に向けた視線は、猛禽類のように鋭かった。
「湊、お前なに勝手に喋って……」
権藤の怒声を無視し、航平は立ち上がった。
「部長の言う通りっすね。今どき、わざわざ検索窓に『キャットフード』なんて打ち込む人は、安さを求めてる層だけです。でも、高村課長の狙ってる層は違う」
航平はポケットに手を突っ込んだまま、麻耶の近くまで歩み寄った。
「彼女たちは、夜中にベッドの中で、インスタやTikTokを眺めてる。そこで偶然流れてきた『とんでもなく美味そうに食べる猫の動画』を見て、指を止める。……商品は、そこで売るんです」
「SNSだと? そんなお遊びで……」
「お遊びじゃない。『ULSAS』です」
航平はホワイトボードの空きスペースに、指で直接書き殴った。
・UGC(ユーザー投稿)
・Like(いいね)
・Search(検索)
・Action(購買)
・Share(拡散)
「広告費なんていりません。必要なのは、最初の火種になる『熱狂的なファン』の投稿だけです。麻耶さん……あ、いや、課長の作った『二十歳』には、その熱量がある」
航平は麻耶の方を向き、ニッと笑った。
「俺、実はSNSで猫アカウントやってて、フォロワー五万人いるんすよ。課長のプレゼン聞いてて、ずっと鳥肌立ってました。これ、絶対にバズります」
麻耶は驚いて、目の前の若手を見上げた。
だらしない服装。軽い口調。だが、その瞳の奥には、自分や乾と同じ「熱」があった。
彼は、この閉塞した会議室の中で、唯一、未来を見ていたのだ。
「……湊くん。あなたの力を貸してくれる?」
「もちろん。俺をチームに入れてください。あんな美味そうな餌、世界中に自慢したくてウズウズしてるんです」
航平は麻耶の目を真っ直ぐに見つめ、少しだけ声を落として付け加えた。
「それに、アンタみたいな人が負けるところ、見たくないんで」
その言葉に含まれた微かな熱量に、麻耶の心臓がトクンと跳ねた気がした。
だが、今はそれを分析している暇はない。
麻耶は役員たちに向き直った。
「聞きましたか? これが、新しい時代の『売り方』です。店舗はいりません。広告もいりません。必要なのは、本物を作る技術と、それを届ける情熱だけです」
役員たちは顔を見合わせ、やがて渋々といった体で頷き始めた。
権藤だけが、苦虫を噛み潰した顔で沈黙している。
商品はできた。
価格も決まった。
流通はネットに絞った。
そして今、最強の拡散担当を手に入れた。
マーケティング・ミックス、4Pのすべてが揃った。
あとは、市場という荒野へ打って出るだけだ。
#創作大賞2026 #お仕事小説部門 #マーケティング #猫のいる暮らし #ビジネス小説 #働き方 #商品開発
【この作品のマガジンはこちら】
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます!
これからも頑張ります。