二十歳の約束 ~愛を、皿に盛る仕事~ 1
「マーケティングとは、誰かの罪悪感に名前をつけてやる仕事だ」
左遷されたエリート女性が挑んだのは、1キロ2500円の超高級キャットフード開発。
武器はMBAと、一匹の猫への愛。
競合の安売り攻撃、社内の反発、そして「正しさ」への葛藤。
働くすべての人の心を震わせる、痛快かつ切実なビジネス・エンターテインメント!
【あらすじ】
大手食品商社のエリート・高村麻耶は、正義を通した結果、お荷物子会社のペットフード部門へ左遷される。
そこで目にしたのは、安さと効率だけを求めた「餌」の山と、諦めきった社員たちだった。
「こんな場所、半年で抜け出してやる」
復活を賭けて彼女が企画したのは、業界の常識を覆す「1キロ2500円」の超高級キャットフード『二十歳(ハタチ)』。
しかし、立ちはだかるのは「原価の壁」「市場規模の罠」、そして「大手競合の模倣」だった。
頑固な職人・乾工場長と、SNS世代の若手・航平。
寄せ集めのチームで挑む中、麻耶は一人のユーザーへのインタビューを通じて、マーケティングの残酷で美しい真実にたどり着く。
これは、単なる商品開発の物語ではない。
数字という無機質な世界で、私たちが失ってしまった「愛」を取り戻すための戦いの記録だ。
【目次】
プロローグ 左遷されたエリート
第1章 食卓のインサイト
第2章 二十歳の約束
第3章 価値を売る
第4章 広がる共感
第5章 戦わずして勝つ
エピローグ 愛の証明
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プロローグ 左遷されたエリート
東京・丸の内。帝都フーズ本社ビル、二十八階。
全面ガラス張りの役員応接室からは、眼下に皇居の緑と、その先に見渡す限りのビル群が一望できた。それは高村麻耶(たかむら まや)にとって、入社以来十年間、見慣れてきた「勝者の景色」だった。
だが今日、その景色はいつもより冷たく、どこか他人行儀に見えた。
「――それで、異動先は決まったのかね」
革張りのソファに深々と体を沈めた常務取締役が、手元の書類に目を落としたまま言った。
麻耶は膝の上で拳を握りしめ、努めて冷静な声を絞り出した。
「はい。人事部より内示をいただきました。グループ会社である『ライフメイト・フーズ』への出向。役職は、企画開発部のマネージャーとのことです」
「そうか。ライフメイトか。あそこは……まあ、のどかないい会社だよ」
常務の口元が、わずかに歪んだのを麻耶は見逃さなかった。
ライフメイト・フーズ。
十年前に帝都フーズが買収した、中堅のペットフード専業メーカーだ。買収当時はシナジー効果が期待されたが、現在は業績不振が続き、グループ内では「お荷物」と揶揄されている。
そして何より、そこは「出世コースから外れた人間の墓場」として知られていた。
「常務、納得がいきません」
麻耶は背筋を伸ばし、相手の目を真っ直ぐに見据えた。
「先日の件です。私はコンプライアンス委員会のホットラインに通報すべき手順を踏みました。『キング・ダイニング』の権田原社長による、私の部下へのセクシャルハラスメント行為は明白でした。証拠の音声データも提出しています」
「高村くん」
常務が面倒くさそうに片手を挙げて、麻耶の言葉を遮った。
「君の正義感は素晴らしい。だがね、ビジネスには『全体最適』というものがあるんだよ。キング・ダイニングは、我が社の業務用食材部門にとって最大の顧客だ。年間三十億円の取引が、君のその『正義』ひとつで消し飛ぶリスクがあった。わかるね?」
麻耶は唇を噛んだ。
わかっていた。組織の論理。数字の暴力。
部下の女性社員は、接待の席で太ももを執拗に撫で回された。麻耶はその場で社長の手を払いのけ、「失礼ですが、おやめください」と毅然と抗議した。さらに後日、正式にコンプライアンス委員会へ通報した。
それが、間違いだったというのか。
「君は優秀な営業マンだ。数字も作れる。MBAも持っているそうじゃないか」
常務は立ち上がり、窓の外へ視線をやった。
「だが、君には『柔軟性』が足りない。今回の異動は懲罰ではない。冷却期間だと思ってくれたまえ。少し頭を冷やして、世の中の清濁(せいだく)というものを学んでくるといい」
清濁。
それはつまり、理不尽を飲み込めということだ。
麻耶は深く一礼し、部屋を出た。ドアが閉まった瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになったが、ヒールの音を高く響かせて廊下を歩いた。
誰にも弱みは見せない。それが、三十ニ歳にして営業課長まで登り詰めた、高村麻耶のプライドだった。
翌週の月曜日。
麻耶が降り立ったのは、丸の内のオフィス街ではなく、江東区の倉庫街にある最寄駅だった。
海からの湿った風が、整えられた髪を乱す。トラックの排気ガスと、どこか生臭い潮の匂い。
駅から徒歩十五分。古びた灰色のビルが、麻耶の新しい職場だった。
『ライフメイト・フーズ株式会社』と書かれた看板は、雨風に晒されて薄汚れている。自動ドアは開くたびに不穏な機械音を立てた。
「おい、邪魔だぞ!」
エントランスに入った途端、段ボールを抱えた作業服の男性に怒鳴られた。
ロビーというよりは、荷捌き場(にさばきじょう)の延長のような空間だ。床のリノリウムは剥げかけ、至る所に「キャットフード」「ドッグフード」と書かれた箱が山積みになっている。
本社のような、洗練されたアロマの香りも、静寂もない。ここにあるのは、動物性タンパク質の独特な匂いと、現場の喧騒だけだった。
「帝都フーズから出向して参りました、高村です」
奥の事務スペースに進み、声をかけると、数人の社員が気だるげに顔を上げた。
その中から、一人の初老の男がのっそりと近づいてきた。
権藤(ごんどう)。この会社の営業部長だ。
ヨレたワイシャツの袖をまくり上げ、ネクタイは緩んでいる。日に焼けた肌と、鋭いがどこか卑屈な光を宿した瞳。典型的な、叩き上げの現場人間という風貌だった。
「ああ、あんたか。噂のジャンヌ・ダルクは」
権藤は名刺交換もせず、ニヤニヤと麻耶を値踏みするように見た。
「本社で大口客の社長に噛み付いて、ここに飛ばされたってな。とんだお姫様がいらっしゃったもんだ」
周囲の社員から、クスクスと乾いた笑いが漏れる。
麻耶は表情を崩さずに名刺を差し出した。
「企画開発部のマネージャーとして着任しました。微力ながら、御社の業績回復に貢献したく……」
「御社じゃねえよ。今日からここが、あんたの会社だ」
権藤は名刺をひったくるように受け取ると、近くにあった段ボール箱を蹴飛ばした。
中から、茶色い袋がいくつか転がり出た。
「見ろよ、これ。ウチの主力商品『ニャンパック』だ。一キロ三百円。ホームセンターの特売用だ。あんたが本社で扱ってたフォアグラやトリュフとは訳が違うぞ」
麻耶はその袋を拾い上げた。
パッケージのデザインは古臭く、猫のイラストもどこか安っぽい。裏面を見ると、原材料のトップには「穀類(トウモロコシ等)」とあり、肉類は申し訳程度しか入っていない。
「これが……今の主力ですか」
「そうだ。安くなきゃ売れねえんだよ、ペットの餌なんてのは」
権藤は麻耶の顔に顔を近づけ、低い声で言った。
「いいか、お嬢ちゃん。ここはあんたみたいなエリートが、MBAだのマーケティングだのを振りかざして遊ぶ場所じゃねえ。泥水すすって、一円の利益を削り出す現場だ。余計なこと考えずに、おとなしくしてな。そうすりゃ、そのうち本社に戻してもらえるだろ」
権藤はそう吐き捨てると、踵(きびす)を返して去っていった。
残された麻耶は、手の中にある安っぽいキャットフードの袋を握りしめた。
袋の中で、乾燥した粒がジャラジャラと音を立てる。それはまるで、彼女の今の価値を嘲笑う音のように聞こえた。
(おとなしくしていろ、ですって?)
麻耶の胸の奥で、冷たい炎が揺らめいた。
丸の内を見下ろすあの部屋で、常務に言われた言葉が蘇る。『柔軟性が足りない』『世の中の清濁』。
そして、この倉庫のようなオフィスに漂う、諦めと停滞の空気。
冗談じゃない。
私はここで終わるつもりはない。
たとえここが「墓場」だとしても、私はゾンビのように徘徊するつもりはない。
麻耶は顔を上げ、薄暗いオフィスを見渡した。
視線の先には、やる気のなさそうな社員たちと、山積みの在庫。
宝の山には見えない。ただのゴミの山かもしれない。
だが、ビジネスの基本は常に同じだ。価値のないものに価値を与え、誰かに届けること。
「……やってやるわよ」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、麻耶は呟いた。
その瞳には、かつて数億の商談をまとめ上げた時以上の、鋭い光が宿っていた。
これは、高村麻耶の敗北から始まる物語ではない。
ここから始まる、逆襲の物語だ。
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