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二十歳の約束 ~愛を、皿に盛る仕事~ 2

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第1章 食卓のインサイト

1

 会議室の空調は壊れているのかと思うほど効きすぎていたが、そこに漂う空気は淀んでいた。
 プロジェクターのファンが回る低い音だけが、沈黙を埋めている。

「――以上が、現状の3C分析およびSWOT分析に基づく、我が社の立ち位置です」

 麻耶はレーザーポインターをホワイトボード上のスライドに向けたまま、凛とした声で締めくくった。

 スクリーンには、残酷なまでの「現実」がグラフ化されている。

 市場シェアは右肩下がり。競合他社の伸長率との圧倒的な乖離。そして、自社製品のポートフォリオがいかに陳腐化しているかを示すマトリクス図。

 徹夜で仕上げた完璧な資料だった。誰も反論できないはずだ。

 しかし、反応は皆無だった。

 長机を囲む十数名の社員たちは、あくびを噛み殺したり、手元のボールペンをカチカチと鳴らしたりしている。営業部長の権藤に至っては、腕を組んで目を閉じていた。

「……何か、ご質問は?」

 麻耶が問いかけると、部屋の隅から低い、しゃがれた声が上がった。

「あのさ、あんた」

 声の主は、作業服姿の男だった。
 白髪交じりの短髪に、深い皺が刻まれた顔。油と粉塵が染み込んだその作業服は、ここがホワイトカラーの聖域ではないことを主張していた。

 開発部長兼工場長、乾源三郎(いぬい げんざぶろう)。五十八歳。
 この道三十年のベテランだが、本社からの出向者には徹底して非協力的だと聞いている。

「その『スウォット』だか何だか知らねえが、その分析とやらで、美味いもんが作れるのか?」

 乾は面倒くさそうに頬杖をつき、濁った目で麻耶を見た。

 麻耶は眉をひそめないよう努めながら答える。

「美味しいものを作る以前の問題です、工場長。市場環境と競合の動きを知らずに商品を投入するのは、地図を持たずに砂漠を歩くようなものです。これはビジネスの基本であり――」

「地図ならあるぞ」

 乾は麻耶の言葉を遮り、親指で工場の方向を指した。

「現場だ。あんた、ここに来て一週間、一度でもラインに顔を出したか? 原料の魚粉の匂いを嗅いだか? 釜の温度を見たか?」

「それは……これから視察する予定ですが、まずは戦略を固めるのが先決で……」

「だから、それが『頭でっかち』だって言ってんだよ」 
 乾は鼻で笑い、椅子を蹴るようにして立ち上がった。

「会議室でこねくり回した理屈で、猫が喜ぶと思ってんのか。猫はな、あんたの作ったパワポなんて食わねえんだよ」

 その言葉を合図にしたかのように、権藤が目を開けて下卑た笑い声を上げた。

「ガハハ! 違いない。高村マネージャー、工場長の言う通りだ。MBAだか何だか知らんが、そんなもんより、一円でも安く作る方法を考えてくれよ。それがウチの『戦略』なんだからさ」

 会議は、散々な結果に終わった。

 麻耶が提示した「高付加価値路線への転換」という提案は、「コストがかかる」「ウチの客層に合わない」「現実を見ろ」という現場の総意によって、検討の土俵にすら上げてもらえなかった。

 会議室を出ていく社員たちの背中を見ながら、麻耶は奥歯を噛み締めた
 悔しさで指先が震える。
 論理が通じない。共通言語がない。
 彼らは「思考停止」というぬるま湯に浸かりきっている。

(でも……)

 麻耶は手元の資料に目を落とした。

 乾の言葉が、棘のように刺さっていた。『あんたの作ったパワポなんて食わねえ』。

 確かに、自分はまだ「商品」を見ていない。数字としてしか捉えていない。

 敵を知り、己を知れば百戦危うからず。

 己の商品を知らずして、彼らを説得できるわけがない。

 麻耶はパソコンを閉じると、決意を秘めた瞳で顔を上げた。

「……ええ、食べてやろうじゃないの」

2

 その日の深夜。
 誰もいなくなった開発室の一角で、異様な光景が繰り広げられていた。

 長机の上には、数十種類のキャットフードの袋が並べられている。
 自社の主力『ニャンパック』。
 国内競合の『ねこ元気堂』。
 そして、市場を席巻している外資系大手『ロイヤル・グルメ』。
 価格帯も、パッケージの雰囲気もバラバラだ。

 麻耶はミネラルウォーターを一口飲み、口の中を清めた。
 そして、おもむろに『ロイヤル・グルメ』の袋を開けた。

 強烈な匂いが鼻をつく。香ばしいというよりは、どこか人工的な、脂っこいスナック菓子のような匂いだ。これが、猫たちを夢中にさせている「魔法の香り」らしい。

 麻耶は躊躇なく、その茶色い粒を指でつまみ、口に放り込んだ。

「……ッ」

 反射的に吐き出したくなる衝動を抑え、奥歯で噛み砕く。
 ガリッ、ボリッ。

 硬い。乾燥した段ボールを噛んでいるようだ。
 そして、すぐに口の中に広がったのは、舌にまとわりつくような不自然な油膜感と、強烈な化学調味料の旨味だった。塩気はないが、妙に後を引く「濃さ」がある。

(これが、高級フードの正体……?)

 表面に吹き付けられたエキスパウダーと油脂。その味だけで、中身のスカスカな穀物を誤魔化している。
 人間で言えば、安いスナック菓子を主食にしているようなものだ。

 次に、自社の『ニャンパック』を手に取った。
 一キロ三百円の激安フード。

 口に入れる。

「…………」
 噛んだ瞬間、眉間が寄った。
 味がしない。

 いや、正確には「古い油の匂い」と「粉っぽい穀物の味」しかしない。旨味もコクもない。ただの固形物だ。

 これを、猫たちは毎日食べているのか?
 「ご飯だよ」と言われて、喜んで駆け寄ってくる猫たちに、飼い主たちはこれを与えているのか?

 麻耶は次々と他社製品を口に運んだ。
 あるものは苦く、あるものは酸っぱい匂いがした。

 共通しているのは、どれも「素材の味」などしないということだ。すべては添加物と香料の化粧で塗り固められた、工業製品だった。

 気持ちが悪い。
 胃の奥から、冷たい怒りがこみ上げてくる。

 私は今まで、こんなものを売ろうとしていたのか。数字合わせのために、この「欺瞞(ぎまん)」の塊を、家族同然のペットに食わせろと命じていたのか。

「……オエッ」
 限界が来て、麻耶は手元の紙コップに吐き出した。
 急いで水を飲むが、口の中に残った不快な油膜は消えない。

「おい」

 突然、背後から声をかけられた。

 ビクリと肩を震わせて振り向くと、入り口に乾が立っていた。
 警備員の見回りかと思って身構えたが、乾は忘れ物を取りに来たのか、私服のジャンパー姿だった。

 彼は机の上に散乱するキャットフードの袋と、麻耶の口元についた食べカスを見て、目を丸くした。

「あんた……何やってんだ?」

「……競合調査です」

 麻耶はハンカチで口元を拭いながら、平静を装って答えた。

「成分表やデータだけでは分からない、官能評価を行っていました」

「官能評価って……お前、それを食ったのか?」

 乾の声が裏返った。

「猫の餌だぞ。人間が食うもんじゃねえ」

「毒が入っているわけではありません。法的には食品衛生法の対象外ですが、ペットフード安全法で守られていますから」

 麻耶は淡々と言い返し、睨みつけるように乾を見た。

「それに、乾さん。あなたが言ったんじゃないですか。『パワポなんて食わねえ』って。だから、実物を確かめたんです」

 乾は呆気にとられた表情で、しばらく口を開けていた。

 やがて、その顔に微かな、しかし今までとは違う色が浮かんだ。侮蔑ではなく、奇妙な生き物を見るような目。

「……味はどうだった」
 乾が低い声で訊いた。

「最悪でした」
 麻耶は即答した。

「外資の『ロイヤル』は、表面の油と添加物の味しかしません。中の粒はスカスカです。そして我が社の『ニャンパック』は……論外です。酸化した油と、紙粘土を食べているみたいでした」

 乾は短く鼻を鳴らした。

「当たり前だ。一キロ三百円で作るにゃ、肉なんて使えねえ。トウモロコシの搾りカスに、肉骨粉(にくこっぷん)を混ぜて固めてるだけだ。猫が喜ぶように、最後に強烈な匂いのオイルを吹き付ける。それがこの業界の『常識』だ」

「そんな常識、間違っています」
 麻耶は机を叩いた。

「猫は、飼い主にとって家族です。こんな……こんな騙し絵みたいな食事を、一生続けさせるなんて」

「じゃあどうする。一キロ三千円の肉を使うか? 誰も買わねえよ」

「買います。価値があれば、必ず」

 麻耶の目には、鬼気迫るものがあった。もはやエリートの余裕などない。髪は乱れ、口紅は落ちているが、その表情は今までで一番、生気に満ちていた。

「私は見つけます。猫が本当に求めているものと、飼い主がお金を払ってでも手に入れたいと思う価値を。この舌が覚えている不快感を、感動に変える商品を」

 乾はしばらく無言で麻耶を見つめていたが、やがてポケットから煙草を取り出し、くわえずに弄んだ。

「……フン。言うだけならタダだ」
 そう言い捨てて背を向けたが、去り際に一言だけ残した。

「明日の朝、開発室に来い。昔作った、没になった試作品がある。……それよりはマシな味がするはずだ」

 足音が遠ざかる。

 麻耶は椅子に深くもたれかかり、大きく息を吐いた。
 口の中はまだ気持ち悪い。
 だが、その不快感こそが、彼女にとっての最初の「現場(リアル)」だった。

(まずは、敵を知った)

 次は、顧客を知る番だ。

 麻耶は手帳を開き、翌日の予定に太い文字で書き込んだ。

 『FGI実施』。

 彼女の戦いは、まだ始まったばかりだった。

3

 三日後。都内のリサーチ会社のインタビュールームには、重苦しい空気が流れていた。

 マジックミラーで仕切られた観察室から、麻耶はガラスの向こうの光景を凝視していた。隣には、無理やり連れてきた乾が、不機嫌そうに腕を組んで座っている。

 実施しているのは、FGI。
 ターゲット層と思われる三十代〜四十代の猫飼育女性、六名を集めた座談会だ。

「――では、皆さんがキャットフードを選ぶ際、最も重視することは何でしょうか?」

 プロのモデレーターが笑顔で問いかける。

 参加者たちは顔を見合わせ、一人が口を開くと、堰を切ったように優等生的な意見が続いた。

「やっぱり、健康ですね。無添加のものが安心です」

「そうそう。長生きしてほしいから、成分表示は必ずチェックします」

「私は国産にこだわってます。安いフードは怖くて買えません」

 ガラスの向こうでは、「愛猫家たちの意識高い会話」が繰り広げられている。

 麻耶はメモを取りながら頷いた。
(やはり、健康志向へのシフトは間違いない。プレミアムフードの需要はある)

 だが、隣の乾が鼻で笑った。

「くだらねえ」

「何がですか?」

 麻耶がムッとして振り返る。

「あいつらの言ってることと、カバンの中身が違うじゃねえか」

「え?」

 乾は顎でガラスの向こうをしゃくった。

「右端の奥さん、さっき休憩時間に『特売のチラシ』をチェックしてたぞ。真ん中のOL風の女は、ブランド物のバッグを持ってるが、靴のかかとはすり減ってる。……みんな、見栄張ってんだよ」

 乾の言葉に、麻耶はハッとした。

 集団の心理。

 他人の目がある場所では、人は無意識に「良い人」「賢い消費者」を演じようとする。ましてや「ペットへの愛」を問われる場だ。「安い餌でいい」などと口走れば、非情な飼い主だと思われる恐怖がある。

(建前だ……。このデータは使い物にならない)
 麻耶は唇を噛んだ。
 このままでは、「健康に良ければ売れる」という、ありきたりな結論しか出ない。だが、市場には既に「健康に良いフード」は溢れている。それでも売れない理由が、ここには出てこない。

 インタビュー終了後、麻耶は参加者リストに目を走らせた。
 FGIの中で、一人だけ、少し浮かない顔をしていた女性がいた。

 佐々木アキコ(仮名)、三十八歳。出版社勤務。独身。
 彼女は「健康が大事」という周りの声に頷きながらも、どこか遠い目をしていた。

「……彼女に、もう一度会います」

 麻耶はリストを指差した。

「一対一で。彼女の自宅で。本当の『現場』を見ないと、何も始まらない」

4

 週末の夕方。麻耶は世田谷区にある年季の入ったマンションを訪れていた。

 佐々木アキコの部屋は、綺麗に片付いてはいるものの、テーブルの上には読みかけの資料や校正刷りが山積みになっていた。激務が日常化していることが見て取れる。

「急に押しかけてすみません。どうしても、個人的にお話を伺いたくて」

「いえ、構いませんけど……大した話はできませんよ」

 アキコは恐縮しながら、コンビニで買ってきたと思われるペットボトルのお茶を出してくれた。

 部屋の隅に、立派なキャットタワーがある。その頂上で、アメリカンショートヘアの雄猫が、けだるそうに寝そべっていた。名前は『レオ』というらしい。

 麻耶は単刀直入に切り込んだ。

「佐々木さん、先日のインタビューで、皆さんが『健康第一』とおっしゃっていた時、少し複雑な表情をされていましたね。あれは、なぜですか?」

 アキコは驚いたように麻耶を見た後、視線を逸らした。

「……観察眼が鋭いんですね」

 彼女はため息交じりに、レオの方を見た。
「健康が大事なのは、わかってるんです。だから私も、一缶五百円もするプレミアムフードを買っています。オーガニックで、無添加のものを」

「素晴らしいことだと思います」

「でも……」

 アキコは言葉を詰まらせた。
「レオは、それを食べてくれないんです」

 麻耶は身を乗り出した。

「食べてくれない?」

「ええ。最初の数回は食べたんですが、すぐに飽きてしまって。お皿に出しても、匂いを嗅いだだけでプイッと離れていく。……その瞬間、私、すごく惨めな気持ちになるんです」

 麻耶はここが勝負所だと直感した。
 マーケティング・リサーチの手法「ラダリング」。
 「なぜ?」を繰り返すことで、事象の奥にある深層心理へと降りていく。

「惨め、というのは? 高いお金が無駄になったからですか?」

「いいえ、お金の問題じゃありません」

 アキコは首を横に振った。その目元が少し潤んでいる。

「私は毎日、仕事ばかりで……帰るのは深夜です。レオと遊んであげる時間なんて、ほとんどない。この子が私の帰りを玄関で待っていてくれる時だけが、私が『独りじゃない』と感じられる瞬間なんです」

 アキコの言葉が、熱を帯びていく。

「だから、せめて食事だけは最高級のものをあげたい。それは、私の罪滅ぼしなんです。『遊んであげられなくてごめんね』『一人で留守番させてごめんね』っていう、詫び石(わびいし)みたいなもので」

 麻耶の胸に、鈍い衝撃が走った。

 詫び石。罪滅ぼし。

「なのに、レオがそれを食べてくれないと……まるで『お前の愛なんていらない』って、拒絶されたような気がして。健康のためだってわかっていても、つい、食いつきのいいジャンクなオヤツをあげてしまうんです。食べてくれる顔が見たくて。……そしてまた、体に悪いものをあげてしまったと自己嫌悪に陥る。その繰り返しです」

 アキコは自嘲気味に笑った。
「矛盾してますよね。長生きしてほしいのに、ジャンクフードをあげてるなんて。私は、ダメな飼い主です」

「……いいえ」
 麻耶の声は震えていた。
 彼女の中に、アキコの痛みが流れ込んでくるようだった。

 組織の中で戦い、疲れ果てて帰宅し、コンビニ弁当で空腹を満たす日々。誰かに認められたい、誰かと繋がりたいと思いながら、孤独を抱えて生きる現代の女性。

 目の前の彼女は、鏡に映った自分自身だ。

 麻耶は確信した。
 これは、単なる「ペットの餌」の話ではない。

「佐々木さん。あなたはレオ君を愛しています。ただ、その愛を伝える手段が、今は『食べてくれない健康食』か『体に悪いジャンクフード』の二択しかない。それが苦しいんですね」

「……はい。そうです」

「もし……」

 麻耶は言葉を選びながら、しかし力強く言った。

「もし、レオ君が夢中になって食べてくれて、しかも健康を害することのない、あなたの『罪悪感』を完全に消し去ってくれる食事が生まれたら……それは、あなたを救うことになりますか?」

 アキコは顔を上げ、麻耶を真っ直ぐに見つめ返した。

「救われます。……もしそんな魔法みたいなものがあるなら、いくら払ったっていい」

アキコの部屋を出ると、外は既に夜だった。

 駅へと向かう道すがら、麻耶はふと足を止めた。

 掌(てのひら)に残る、アキコの震える手の感触。彼女は最後に「救われます」と言って涙ぐんだ。

​(私は、卑しい人間だ)
​ 麻耶は胸の内で独りごちた。

 彼女の孤独を、深夜に猫に詫びる痛切な時間を、私は今、「インサイト」というマーケティング用語に変換し、商品化しようとしている。人の心の傷口を見つけ出し、そこに値段をつける行為。それは、ハゲタカと何が違うのか。

​ 胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げる。
 だが、麻耶はそれを強引に飲み込んだ。
 綺麗事では救えない。同情では、彼女の罪悪感は消せない。
 商品という形にして、対価を受け取ることでしか、あの夜の孤独を変えることはできないのだ。

​「……やるしかない」

​ 麻耶は夜空を見上げた。

 かつてMBAの教科書で学んだ定義が、音を立てて崩れ落ち、書き換わっていく。

​ マーケティングとは、単に物を売る技術ではない。
 誰かが口に出せなかった罪悪感に、名前を与えてやる仕事だ。
​ その名前が『二十歳』なら、私はその名前に命を懸ける。

 麻耶はヒールの音を高く鳴らし、再び歩き出した。その背中には、冷徹なエリートの仮面の下に、微かな、しかし消えない「後ろめたさ」という名の覚悟が宿っていた。

5

 翌週の月曜日。

 ライフメイト・フーズの会議室で、麻耶はホワイトボードの前に立っていた。
 聴衆は、乾と数名の開発部員だけ。営業部の人間は呼んでいない。

「ターゲットを変更します」
 麻耶は宣言し、ボードに大きく書き殴った。

 【Needs(顕在ニーズ):猫の健康】
 【Insight(潜在インサイト):飼い主の罪悪感の払拭と、愛の証明】

「私たちはこれまで、『猫の体にいいもの』を作ろうとしてきました。間違いではありませんが、それだけでは勝てません。競合は既にそこにいますし、何より、猫が食べなければ意味がないからです」

 麻耶は、アキコへのインタビュー内容を語った。

 深夜の帰宅。食べ残された高級フード。拒絶されたと感じる孤独。そして、ジャンクフードを与えてしまう自己嫌悪。

 話を聞いていた若手社員の一人が、小さく頷いている。彼もまた、猫を飼っているのだろう。

「ターゲットは、都市部で働く忙しい単身者や共働き世帯。彼らにとって、キャットフードはただの栄養補給ではありません。『不在の時間を埋め合わせる、愛のコミュニケーション・ツール』なんです」

 麻耶は乾の方を向いた。
 乾は腕を組み、難しい顔をして聞いていたが、目は逸らしていなかった。

「工場長。以前、私は言いましたね。市場には『健康だけど不味い』か『美味しいけど不健康』しかないと」

「ああ」

「私たちは、その真ん中を行くのではありません。両方を突き抜けます。『圧倒的に美味しくて、罪悪感がゼロになる食事』。これが、私たちの目指すKSF、重要成功要因です」

 乾が口を開いた。
「簡単に言うな。添加物まみれのジャンクフードより食いつきが良くて、しかも無添加で作る? 科学的に矛盾してるぞ。そんな魔法の粉は存在しねえ」

「魔法の粉はありません。でも……」

 麻耶は一歩前に出た。

「私たちには、親会社(帝都フーズ)があります。そこには、人間用の最高級食材の調達ルートがあります。化学調味料(グルタミン酸ナトリウム)ではなく、本物の食材が持つイノシン酸やグルタミン酸を使えば……理論上、猫の嗅覚を刺激できるはずです」

 乾の目が、ピクリと動いた。

「……本物の、出汁か」

「はい。コストは度外視してください。まずは『猫が狂ったように食べる無添加フード』ができるかどうか。それだけに賭けたいんです」

 沈黙が流れた。

 工場の現場を知る乾にとって、それがどれほど無茶な要求かは明白だった。原価率は跳ね上がり、製造ラインの工程も複雑になる。

 だが、乾はニヤリと笑った。それは、会議室で麻耶を馬鹿にした時の嘲笑とは違う、職人の不敵な笑みだった。

「コスト度外視、ねえ……。権藤の野郎が聞いたら卒倒するぞ」

「責任は私が取ります。クビになるのは私一人で十分ですから」

「はん。……面白れえ。やってやるよ」

 乾は立ち上がり、作業着のポケットから手帳を取り出した。

「ただし、条件がある。中途半端な材料は使わねえぞ。俺が指定する『枕崎の本枯れ節』と『羅臼の昆布』を持ってこい。話はそれからだ」

 麻耶は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」

 部屋に漂っていた停滞した空気は、もう消えていた。
 そこにあるのは、未踏の峰に挑む登山隊のような、静かな熱気だった。

 論理(ロジック)が感情(エモーション)を捉え、技術(テクノロジー)に火をつけた瞬間だった。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。