二十歳の約束 ~愛を、皿に盛る仕事~ 7
エピローグ 愛の証明
三年後の春。
東京の空は、霞がかった柔らかな青色をしていた。
窓を開けると、川沿いの桜並木から、甘い花の香りと、陽だまりの匂いを含んだ風が吹き込んでくる。
高村麻耶は、文京区にあるマンションのリビングで、その風を胸いっぱいに吸い込んだ。
かつて、彼女の部屋には仕事の資料と、最低限の家具しかなかった。生活感など無縁の、ただ眠るためだけの場所。
だが今は、窓際に大きなキャットタワーが鎮座し、床には爪研ぎの段ボールが散らばっている。
「……ルナ、ご飯よ」
麻耶が声をかけると、ソファの陰から、黒い毛玉のような塊が飛び出してきた。
ルナ。推定四歳の元保護猫。
片耳が少し欠けていて、決して「映える」容姿ではない。だが、その金色の瞳は、麻耶を世界で一番の存在として見つめてくる。
麻耶はキッチンの棚から、藍色の箱を取り出した。
『二十歳』。
発売から三年。会員数は十万人を超え、今やプレミアムフードの代名詞となった。類似商品はいくつも出たが、この藍色の箱が持つ「信頼」を揺るがすものは現れなかった。
袋を開ける。
あの時、工場のテストキッチンで嗅いだ、芳醇な出汁の香りがふわりと舞う。それは、変わらない「約束」の香りだ。
陶器の皿にカリカリと音を立てて盛り付けると、ルナは待ちきれない様子で鼻を寄せ、夢中で食べ始めた。
ハフ、ハフ、カリッ。
その咀嚼音を聞いていると、麻耶の胸の奥にある、硬く強張っていた場所が、ゆっくりと解けていくのを感じる。
ふと、テーブルの端に置いていた封筒が目に入った。昨日、会社に届いた郵便物の中に一通だけ、手書きの宛名のものがあった。持ち帰ったまま、開けそびれていた。印刷された文字の中に紛れ込んだそれは、春の光の中でかすかに異質な存在感を放っていた。
封筒を手に取る。裏面の差出人欄を見た瞬間、麻耶の指先が止まった。
佐々木アキコ。
三年前、世田谷の年季の入ったマンションで向かい合った、あの女性だ。「インサイト」を求めて押しかけた夜、彼女は最後に「救われます」と言って、涙ぐんだ。
封を開けると、便箋が一枚だけ入っていた。万年筆で書かれた静かな文字が、紙の上に並んでいる。ところどころ、わずかに滲んでいる箇所があった。
高村様
以前、インタビューにお伺いした佐々木アキコです。突然のお手紙、大変失礼いたします。
今年の春、レオが十七歳になりました。
獣医さんには「よくここまで」と言われましたが、ご飯の時間になると今も私の足元に来てくれます。足腰はだいぶ弱くなりましたが、「二十歳」を開ける音だけは聞き逃しません。
あの夜の話を聞いてくださって、ありがとうございました。お試しセットに入っていた手紙のことも、ずっと覚えています。あれを読んで、泣いてしまいました。私の話が、ちゃんと届いていたんだと知りました。
最近、残業を少し減らしました。それだけのことですが。
レオとの残り時間を、ちゃんと数えるようになりました。二十歳まで、一緒にいたいと思っています。
佐々木アキコ
麻耶は、便箋を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
ルナが食事を終え、ふらりと麻耶の足元に歩み寄ってきた。温かな体が、すねに押しつけられる。
三年前、アキコの部屋を出た夜、麻耶は歩きながら自分を責めた。人の心の傷口を見つけ出し、そこに値段をつける行為。それは、ハゲタカと何が違うのか、と。
今も、その問いへの完全な答えはない。
だが、この手紙が一つのことを示している。
アキコの生活は劇的には変わっていない。孤独が癒えたとも、仕事が楽になったとも書いていない。ただ、「残業を少し減らした」。それだけだ。そして、レオとの残り時間を数えるようになった。
小さな変化だ。麻耶の仕事がそれをもたらしたのか、それとも全く別の理由なのか、知るすべもない。
それでも麻耶は思う。あの夜アキコが流した涙は、この手紙の万年筆の滲みと、同じ場所から来ている、と。
そして、「お試しセットの手紙」がアキコに届いたように、アキコの手紙が今、自分に届いた。
言葉は、皿に盛れない。だが、人から人へ渡ることができる。
麻耶はそっと、便箋を折りたたんだ。
(私、変わったな)
麻耶はルナの背中を優しく撫でた。指先に伝わる体温。鼓動。
三年前、自分は数字しか見ていなかった。猫を「市場」と呼び、飼い主を「ターゲット」と呼んだ。
だが今はわかる。
この小さな命が、どれほど愛おしく、そして儚いものか。
一日でも長く、一緒にいたい。二十年、いや、もっと長く。
かつて自分が書いたコピー『二十年、共に生きる』は、ただの宣伝文句ではなく、今の麻耶自身の、切実な祈りとなっていた。
マーケティングとは、誰かの心を操作する技術ではない。
それは、誰かの「愛したい」という願いに名前をつけ、形を与え、届けること。
その単純な真理に気づくために、随分と遠回りをした気がする。
けれど、同時に思うのだ。
私たちは、すべての孤独に値札をつけられたわけではない、と。
救えなかった夜、届かなかった声も、きっと無数にある。その無力さを、私は一生、この商品の成功と共に背負っていくのだろう。
それでも――。
ガチャリ。
玄関で鍵が開く音がした。
「ただいまー。……うわ、いい匂い。今日は俺も『二十歳』にするかな」
軽い冗談と共にリビングに入ってきたのは、湊航平だった。
少し大人びたスーツ姿だが、愛嬌のある笑顔は変わらない。彼は今、ライフメイト・フーズのマーケティング部長として、麻耶の右腕――いや、それ以上のパートナーとして、公私共に彼女を支えている。
「おかえりなさい。……貴方には、本枯れ節のお茶漬けなら作ってあげるわよ」
麻耶が苦笑すると、航平はルナの隣にしゃがみ込み、その頭を撫でた。
「お、いい食いつき。……乾工場長、また味を微調整したな? 出汁の配合、少し変えただろ」
「わかる?」
「わかりますよ。俺たち、この味と一緒に生きてきたんですから」
航平は顔を上げ、麻耶を見た。その瞳には、穏やかな光が宿っている。
言葉にしなくても、通じ合うものがある。
戦友として背中を預け合い、同じ景色を見てきた時間。それは、猫と飼い主の絆にも似た、言葉を超えた信頼だった。
「さ、人間もご飯にしましょうか」
麻耶は立ち上がり、キッチンへと向かった。
西日が差し込むリビングで、猫の食事の音と、航平が鼻歌交じりにジャケットを脱ぐ音が重なる。
それは、かつての麻耶が知らなかった、ありふれた、けれど奇跡のような「幸福」の音色だった。
私は、マーケター。
価値を創り、愛を届ける仕事。
そして、この愛おしい日常を守るための、一人の生活者。
麻耶は窓の外を見やった。
風に舞う桜の花びらが、黄金色に輝きながら、どこまでも高く昇っていく。
その行方を、ルナと航平と一緒に、いつまでも見つめていた。
(了)
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