鉄(くろがね)のあかつき~傷のある鉄が、いちばん美しく光るまで 2
第1章 黒い砂、赤い火
中国山地の背骨から流れ出す吉井川の支流は、昨夜の雨で白く泡立ち、猛り狂っていた。
ごうごうと唸る水音に包まれながら、美咲は川岸の黒ずんだ砂地に、あの巨大な磁石を叩きつける。
ズン、という重い手応え。
ハンドルを握る腕に、砂の中の「鉄」が吸い寄せられる感触が伝わってくる。引き上げると、磁石の底面には、びっしりと黒い針のような砂鉄の房が垂れ下がっていた。
「どうじゃ、採れたか」
上流で作業していた源秀が、腰を叩きながら下りてくる。その手にあるバケツは、すでに黒い山盛りになっている。
「はい。……重いです」
「当たり前じゃ。それが鉄の重さじゃ」
源秀は美咲の磁石から砂鉄をかき集め、掌に乗せて広げた。そして、老眼鏡越しに目を細める。
「よう見ろ。角張ってキラキラしとるのが『真砂(まさ)』じゃ。花崗岩が削れてできた、一番純粋な鉄じゃな」
源秀の太い指が、砂粒をより分ける。
「で、こっちの少し赤っぽくて、丸っこい粒。これが『赤目(あこめ)』じゃ」
「赤目……」
「そうじゃ。チタンなんかの不純物を多く含んどる。普通の製鉄じゃあ、脆くなるから嫌われる『毒』じゃな」
不純物。嫌われる毒。
その言葉に、胸の奥がチクリと痛む。研修会での視線を思い出す。
男社会の純度を乱す異物。伝統を汚す女。私は、この赤目砂鉄と同じだ。
美咲が俯きかけると、源秀はニヤリと笑って、その「赤目」を愛おしそうに指先で転がした。
「だがな、日刀保(きょうかい)の連中は知らんのじゃ。この赤目が少し混じることで、鉄に粘りが出る。焼き入れた時に、えも言われん景色……『映(うつ)り』が出ることをな」
「不純物が……美しさになるんですか?」
「おうよ。純粋すぎりゃあ、面白くねえ。人間も鉄も、少しぐらい泥を飲んで、傷を持っとる方が、強くてええ味が出るもんじゃ」
源秀は美咲の目を真っ直ぐに見て言った。
その言葉は、研修会で負った美咲の心の火傷に、冷たい軟膏のように染み渡った。
「さあ、日が暮れる。帰るぞ」
◆
長船(おさふね)にある「備前源秀鍛錬場」の勝手口をくぐると、出汁の煮える甘辛い匂いが、鉄の鋭い臭気を和らげるように漂っていた。
土間に置かれた長机。そこには、湯気を立てる大鍋と、三人分の食器が並べられている。
師匠の源秀は、弟子から月謝を取らない。それどころか、「腹が減っては槌も振れん」と、朝昼の食事を自ら振る舞うのが日課だった。
「お帰りなさい、お父さん。それに美咲さんも」
台所から顔を出したのは、里子(さとこ)だった。
源秀の一人娘であり、この鍛錬場の実質的な経営者だ。彼女はかつて輪島塗の塗師(ぬし)として嫁いだが、先日の能登半島地震で工房も家も失い、この長船に戻ってきた。
小柄だが、その背中には、一度すべてを失い、瓦礫の中から立ち上がった者特有の、静かで強靭な芯が通っている。
「今日の採れ高はどうだったの?」
里子が手際よく煮物を椀に盛り付けながら尋ねる。
「ボチボチじゃな。最近は川も綺麗になりすぎて、ええ砂が減った」
源秀は手ぬぐいで顔を拭いながら、どかりと椅子に腰を下ろした。美咲もそれに倣い、手を合わせる。
今日の献立は、里子が作った筑前煮と、源秀が漬けた古漬け。質素だが、労働で乾いた身体にはどんなご馳走よりも染みる。
箸を動かしながら、源秀が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……また、協会の雑誌か」
机の隅に積まれた会報誌を顎でしゃくる。
「最近の刀工は、刀を飾りもんだと勘違いしとる。刃文が派手ならそれでいい、肌が綺麗ならそれでいい。……ケッ。あんなもんは、刀じゃねえ。ただの鉄の鏡だ」
源秀の持論だ。
『刀は美術品である前に、武器であれ』。
源秀自身、居合道七段の腕前を持つ武人でもある。斬れない刀、脆い刀は、どれほど美しくても決して認めない。
かつて大手メーカーの技術者だった源秀は、脱サラしてこの世界に入った。金属工学の知識と、武道の身体感覚。その二つを車の両輪として、半世紀近く鉄と格闘してきたのだ。夜な夜な大学教授と電話をし、成分分析のデータについて議論している姿を美咲は知っている。
「いいじゃない、お父さん。売れるなら」
里子が冷ややかに言った。
「インバウンドのお客さんは、切れ味なんて求めてないわ。彼らが欲しいのは『サムライの魂』という物語と、インスタ映えする刃文よ」
「馬鹿野郎。魂ってのは、斬れるという事実に宿るんじゃ」
「はいはい。でも、お父さんのそのこだわりのせいで、今月の電気代もギリギリなのよ。……わかってる? うちの経営を支えてるのは、お父さんが馬鹿にする『日刀保玉鋼』で打った包丁のネット販売なんだからね」
里子の言葉は鋭利な刃物のように、食卓の空気を切り裂く。
里子は帳簿の端を指で押さえたまま、しばらく顔を上げなかった。電気代、炭代、配送費。赤字の欄に引かれた線が、食卓の上でも消えていないようだった。
源秀は言い返さない。それが紛れもない事実だからだ。
美咲は黙って煮物を噛み締めた。里子の言葉の棘は、間接的に美咲にも刺さっている。
金にならない刀作りを目指し、源秀の脛をかじっている居候。それが今の相沢美咲という存在だ。
「……美咲さん」
不意に、里子が視線をこちらに向けた。
「お父さんは甘いから言わないけど、私は経営者として言わせてもらうわね」
「おい、里子」
源秀が制止しようとするが、里子は構わずに続けた。
「次で駄目だったら、考え直して。夢を折れと言ってるんじゃないの。うちが先に潰れるって言ってるの」
それは、最後通告だった。
工房の経営状態は、美咲が考えている以上に深刻なのだろう。能登から戻った里子は、傾きかけた家業を立て直すために必死なのだ。彼女に悪意はない。あるのは、生き残るための冷徹な計算だけだ。
「……嫌です」
美咲は箸を置き、顔を上げた。
「私は、包丁を作るためにここに来たんじゃありません」
「でも、あなたの刀は一銭にもなっていない」
「これから……なります。必ず試験に受かって、師匠の刀を継ぎます」
里子は美咲の瞳をじっと覗き込み、やがてふっと息を吐いた。
「……頑固ね。お父さんと同じ。脱サラ組はみんなこうなのかしら」
里子は立ち上がり、空になった源秀の茶碗にご飯をよそった。
「わかったわ。次の試験まで、衣食住は保証する。その代わり、落ちたら即刻、包丁部門の工場長になってもらうから」
源秀は何も言わず、ただ黙々と漬物を噛んでいた。
その横顔には、かつて妻子を抱えて安定を捨て、修羅の道を選んだ男の、深い皺が刻まれていた。
美咲は拳を膝の上で握りしめた。
この工房に残るためだけではない。この不器用で偉大な師匠が、生涯をかけて証明しようとしてきた「武器としての刀」の正しさを、私が証明しなければならないのだ。
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