鉄(くろがね)のあかつき~傷のある鉄が、いちばん美しく光るまで 1
〖作者からのお断り〗
本作には、自傷行為および自死に関わる描写が含まれます。
これは、志半ばで早逝した一人の女性刀工に着想を得た、ひとつのifの物語です。
もし彼女が生き延び、もう一度、鉄と火の前に立つことができたなら――。
そんな祈りを込めて書いた、レクイエムです。
同様の痛みを抱えた方は、どうかご自身の心身を第一に、ご自身のペースで読み進めてください。
【あらすじ】
東京でシステムエンジニアとして働いていた相沢美咲は、社会に適応できず心身を壊した末、岡山の小さな刀鍛冶工房へ辿り着く。
五年間の無給修行を経て挑むのは、刀工として独り立ちするための八日間の最終試験。
だがそこには、合理性と完璧さを武器にする若き天才、業界に根深く残る女性への偏見、そして「売れるもの」を求める市場の現実が立ちはだかる。
失敗続きで、不器用で、傷だらけの自分は間違いなのか。
美咲が選ぶのは、効率でも理論でもなく、痛みごと鉄に向き合い続ける道だった。
不純物を抱えた鉄が、炎と水を越えて光を放つまでを描く、お仕事小説。
【目次】
序章 錆ついた部屋
第1章 黒い砂、赤い火
第2章 鉄の理屈(ロジック)
第3章 硝子のケースの向こう側
第4章 ハッカーと鍛冶屋
第5章 八日間の戦争
終章 映(うつ)りの刻(とき)
序章 錆(さび)ついた部屋
鉄の匂いがした。
それは本来、相沢美咲(あいざわ みさき)の心を鎮める香りだったはずだ。焼けた松炭の香ばしさと、赤熱した鋼が放つ鋭い金属臭。それらが混じり合う鍛冶場の空気こそが、彼女が東京でのシステムエンジニアとしての生活を捨ててまで求めた、生きるための酸素だった。
けれど今、鼻孔にまとわりついているのは、そんな神聖な匂いではない。
雨に濡れて放置された古釘のような、あるいは乾きかけた血液のような、湿った錆の匂いだった。
カーテンを閉め切った六畳のアパートは、昼間だというのに深海のように薄暗い。
散らかったコンビニのゴミ。脱ぎ捨てられた衣服。そして、部屋の隅に置かれたまま埃をかぶり始めた、研ぎかけの小刀。
部屋の隅の小刀の横には、試験のために書き溜めたノートが伏せられていた。表紙には炭の指跡が残り、ページの端は何度もめくったせいで柔らかくなっている。
美咲は万年床の上に座り込んだまま、右手にあるものを握りしめていた。
日本刀ではない。コンビニで百円で買える、プラスチック製の安っぽいカッターナイフだ。
カチ、カチ、カチ。
刃を出し入れする乾いた音が、静寂の中で異様に響く。そのリズムが、記憶の蓋をこじ開ける。
『女が火床(ほど)に入ると、火が腐るんだよ』
耳の奥で、粘着質な男の声が蘇る。
一ヶ月前。島根県奥出雲町で行われた、美術刀剣刀匠技術保存研修会。
刀鍛冶になるための国家試験とも言える、八日間の地獄。
五年間、師匠の下で無給の修行に耐え、爪の中まで炭の粉を染み込ませて、やっと掴んだ切符だった。それなのに。
『生理中の女は穢(けが)れだ。神聖な場の空気を吸うな』
『お前の師匠は協会(あっち)に逆らってる変人だろ? どうせ受かりっこねえよ』
直接言われるならまだいい。彼らは、美咲が火床に向かう背中に向かって、聞こえるか聞こえないかの音量で囁くのだ。
相槌(あいづち)を打つタイミングを、わざと半拍ずらされる。リズムが狂えば、鋼は歪む。歪んだ鋼を見て、彼らは鼻で笑う。「やっぱり女には無理だ」と。
研修所の宿泊施設で、生理用品がゴミ箱から漁られ、あろうことか神棚の前に置かれていた時の、あの全身の血が逆流するような恥辱と怒り。
――私は、穢れているのだろうか。
カッターの刃先を、手首の静脈に当てる。ひやりとした冷たさが、熱を持った肌に心地よかった。
師匠は言った。「鉄は正直だ」と。
でも、その鉄を扱う人間たちは、どうしようもなく不純で、残酷だった。
東京のオフィスビルで心をすり減らし、逃げるようにこの世界に飛び込んだ。けれど、ここもまた、男たちの強固な壁に囲まれた牢獄だった。
もう、疲れた。
このまま深く引けば、錆びついた私の時間も、ようやく止まることができる。
カチ。
刃を、もう一目盛り、長く出した。
深く息を吸い込み、腕に力を込める。血管の上を、冷たい刃が滑ろうとした。
その時だった。
ドオンッ!!
アパートの薄い鉄扉が、爆発したかのような音を立てて震えた。
心臓が跳ね上がる。カッターナイフが手から滑り落ち、畳の上に転がった。
「美咲(みさき)ッ! 生きとるか!」
野太い、だみ声。
鍵などかかっていないかのように、ドアノブが乱暴に回され、扉が開け放たれる。
逆光の中に立っていたのは、よれよれの作務衣を着た小柄な老人だった。
備前長船の異端児、源秀(げんしゅう)。美咲の師匠だ。
「し、師匠……どうして……」
震える声で尋ねる美咲を、源秀は土足のまま踏み込んできて、じろりと見下ろした。
その視線が、畳に転がったカッターナイフと、美咲の手首に残る赤い押し跡を捉える。
怒鳴られる。そう思って美咲は身を竦(すく)めた。
だが、源秀は短く鼻を鳴らしただけだった。
「……ケッ。そんなペラペラの刃物じゃ、大根も切れんわ」
源秀は、背負っていた道具袋から、何かをごそごそと取り出した。
それは、花束でも、慰めの手紙でもなかった。
直径二十センチ、厚さ五センチはあろうかという、巨大な円盤状の磁石だった。表面には無骨な鉄製のハンドルが垂直に取り付けられており、まるで巨大な握力計か、漬物石のようだ。
「顔を洗え。行くぞ」
「い、行くって……どこへ」
「川じゃ。今日は雨上がりで水嵩(みずかさ)が増しとる。上流からええ砂が流れてきとるはずじゃ」
源秀は美咲の腕を掴んだ。七十八歳とは思えない、万力のような力強さだった。
温かい、分厚い手のひら。炭と鉄の匂いが染み付いた、職人の手。
「ボサッとするな。それを持て。日刀保の玉鋼なんぞ当てにするな。俺たちの鉄は、俺たちで探すんじゃ」
有無を言わせぬ勢いに、美咲は半ば引きずられるようにして立ち上がった。
足元に転がるカッターナイフを、源秀が踏みつけて跨(また)いでいく。
開け放たれたドアから、初夏の眩しい光と風が、淀んだ部屋に一気に流れ込んできた。
その強引な光に目が眩みながら、美咲は思った。
死ぬのは、明日にしよう。
とりあえず今日だけは、この人と磁石を引きずりに行かなければならないらしいから。
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