小説・鉄(くろがね)のあかつき~傷のある鉄が、いちばん美しく光るまで 3
第2章 鉄の理屈(ロジック)
秋の気配が色濃くなり始めた頃、工房の空気が変わった。
原因は、新しい風――いや、正確で冷徹な「機械」のような男が入門してきたからだ。
カン、カン、カン。
昼下がりの鍛錬場に、軽やかで迷いのないリズムが響いている。
向こう槌を振るっているのは、一ヶ月前に入門したばかりの新人、西条拓海(さいじょう たくみ)だ。
二十八歳。大手製鉄会社の研究開発職を辞めてこの世界に飛び込んできた、いわゆる脱サラ組である。
彼は、汗ひとつかいていないように見えた。
源秀が小槌で合図を送るよりも早く、次の打撃点がわかっているかのように、正確に大槌を落とす。
無駄な力が入っていないから、長時間叩いても息が上がらない。
その姿は、五年間泥水をすするような修行をしてきた美咲よりも、遥かに「職人」らしく見えた。
「……筋がええのう」
休憩中、源秀が煙管(キセル)を吹かしながら漏らした言葉が、美咲の胸を刺す。
「あいつは鉄の組成(なかみ)を知っとる。何度で叩けば分子がどう動くか、頭の中でシミュレーションできとるんじゃろうな」
拓海は、休憩中もスマホで海外の冶金(やきん)学の論文を読んでいるような男だった。
「見て盗む」「体で覚える」という職人の不文律を、彼は「非効率です」と涼しい顔で切り捨て、師匠の技を動画で撮影して解析し、最短距離で吸収していく。
その成長速度は、恐怖を覚えるほどだった。
夕刻。
里子が工房の帳簿をつけている横で、美咲は日刀保玉鋼の小割り作業に難儀していた。
師匠が買い与えてくれた練習用の玉鋼だ。
タガネを当て、ハンマーで叩くが、硬い玉鋼はなかなか思うように砕けない。破断面がいびつになり、選別に時間がかかる。
「美咲さん、貸してください」
見かねた拓海が、横から手を伸ばしてきた。
「そこは結晶粒界(けっしょうりゅうかい)に沿って衝撃を与えないと、無駄な力が要るだけです。玉鋼の炭素含有量から見て、もう少し鋭角に……こうです」
カィン!
拓海が軽くハンマーを振るうと、玉鋼はまるでガラス細工のように、美しい断面を見せてパクリと割れた。
一撃だった。
美咲は、割れた玉鋼と、自分の手を交互に見つめた。五年間の苦労が、彼のたった一ヶ月の「理論」に否定されたような気がした。
「……すごいわね、拓海くんは」
乾いた声が出た。「やっぱり、製鉄会社にいただけあるわ」
「いえ。物理法則に従えば、鉄は素直なものですから」
拓海は淡々と言った。悪気はない。彼にとって、鉄とは「祈る対象」でも「生き物」でもなく、制御可能な「物質」なのだ。
「僕、効率化って冷たいことだと思ってないんです。無駄を減らせば、怪我も減るし、材料も無駄にならない。続けやすくなるでしょう」
「お父さん、聞いた?」
帳簿から顔を上げた里子が、嬉しそうに源秀に声をかけた。
「拓海さんなら、来年には戦力になるわ。包丁の生産ライン、彼に任せれば歩留まりも良くなるんじゃない?」
「……フン。器用なだけじゃ、刀は打てんぞ」
源秀はそっぽを向いたが、その口調には隠しきれない期待も混じっているように聞こえた。
美咲は居たたまれなくなり、作業場を離れた。
裏口を出て、井戸端で冷たい水を顔にかける。
水滴が滴る視界の端で、自分の手が震えているのが見えた。
焦り。嫉妬。そして、絶望的な劣等感。
井戸水が頬を流れ落ちても、手の震えは止まらなかった。爪の間に詰まった黒い粉だけが、まだここにいる証拠みたいだった。
私は、不器用だ。
SE時代もそうだった。要領よく立ち回る同期たちに追い抜かれ、バグ潰しのような泥臭い仕事ばかり押し付けられた。
ここに来れば、その「泥臭さ」が武器になると思っていた。
師匠は「不純物が味になる」と言ってくれた。
けれど、現実はどうだ。
里子が求めているのは、拓海のような「効率的でミスのない職人」だ。
源秀だって、本音では才能のある弟子が可愛いに決まっている。
『今の弟子は、真剣味が足りん』
いつか師匠がこぼしていた言葉を思い出す。
拓海は優秀だ。けれど、彼には「悲壮感」がない。スマートで、合理的で、失敗しない。
対して、私はどうだ。
失敗ばかりで、金ばかりかかって、自殺未遂までして、師匠に迷惑をかけ続けている。
……真剣味? 命懸け?
そんなものは、無能な人間の言い訳かもしれない。
「……逃げちゃ駄目だ」
美咲は濡れた顔を袖で乱暴に拭った。
拓海の理論が正解なら、私は間違いなのか。
日刀保の玉鋼という「正解」の前で、私は無力なのか。
工房に戻ろうとした時、スマホが震えた。
源秀からだった。
『明日は鍛錬を休め。備前長船刀剣博物館へ行ってこい。特別展をやっとる』
短いメッセージの後に、追伸があった。
『井の中の蛙になるな。本物の刀を見て、己の小ささを知ってこい』
師匠には、全てお見通しなのだ。
私が新入りに怯え、自分の殻に閉じこもろうとしていることが。
美咲はスマホを握りしめ、夜空を見上げた。
星は見えなかった。分厚い雲が、月を隠していた。
スマートフォンを握りしめたまま、美咲は裏口へと戻りかけた。
台所の明かりがついていた。
時刻は深夜十一時を過ぎている。里子さんは、もう寝ているはずだ。
足を止め、引き戸の隙間を、無意識に覗いた。
里子が、テーブルに肘をついていた。
手に、小さな椀を持っている。
深みのある朱に、金の蒔絵が施された漆の椀。輪島塗特有の重みと艶を、こんな薄暗い台所の明かりでも見て取れるほどの品だった。
里子はその椀を、計算書でも帳簿でもなく、ただ両手で包み込むように持って、じっと見下ろしていた。
「……私、漆だったのよ」
誰にも向けていない声だった。
帳簿に向かう時の、冷静で実務的なあの声ではない。震える息の隙間から、言葉が溢れ出しているようだった。
「工房も、職人仲間も、あの町も、全部」
里子の肩が、ゆっくりと落ちた。
声を上げて泣いているわけではなかった。もっと静かで、もっと深い。
美咲は引き戸の前で動けなくなった。
声をかけることも、見なかったふりをすることも、できなかった。
やがて里子は深く息を吸い、椀を静かにテーブルに置いた。電卓と帳簿の隣の、小さなスペースに。
照明が消えた。
美咲は廊下の暗がりに身を引き、気配を殺した。二階へと上がる里子の足音が遠ざかる。台所には、朱の椀だけが残された。
長い時間、その場に立ったまま、美咲は動けなかった。
里子さんも、一度全部失くしたのだ。
磨いてきた技術も、育てた関係も、拠り所にしていた場所も。それでも明日の朝になれば、彼女はまた帳簿を開き、電卓を叩き、冷静な声で「うちが先に潰れる」と言うだろう。
崩れることを知っている人間だけが、崩れないように立っていられる。
美咲はスマートフォンに視線を落とした。源秀からのメッセージが、画面の中で待っていた。
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