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藍色の共鳴――返らない手紙に、僕は返事を書いた 8

第八章:交叉
彼が正体不明の「染谷」として、灯からの問いかけに向き合う覚悟を決めてから、さらに数日が過ぎた。だが、覚悟とは裏腹に、彼のペンは依然として便箋の上を滑ることを拒んでいた。 その朝、研人はいつものように、始業前のブリーフィングに参加していた。 「おい、染谷。お前、大丈夫か? 目の下にすごいクマだぞ」 隣に立った同僚の田中が、心配そうに声をかけてくる。 「…ああ、少し、寝不足なだけだ」 「だろうな。幽霊でも見たみたいな顔してるぜ」 田中の軽口に、研人の心臓が小さく跳ねた。彼は、曖昧に笑って誤魔化すことしかできない。

「――染谷、これ頼む」 課長の声で、研人は我に返った。目の前に、一通の書留郵便が差し出される。 彼は、機械的にそれを受け取った。そして、宛名に記された名前を見た瞬間、全身の血液が凍り付くのを感じた。

秋山 灯 様

心臓を、冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃。なぜ。なぜ今日に限って。それは、抗うことのできない運命の力のように、あまりに悪質で、完璧な偶然だった。 断ることはできない。断れば、不審に思われるだけだ。 「…はい」 彼は、頷くことしかできなかった。

その日の配達業務は、記憶がほとんどなかった。配達鞄の中、他の郵便物とは別に仕舞われたその一通の書留だけが、鉛のような重さで彼の精神を圧し、その存在を主張し続けていた。彼は、まるで死刑執行の時間を待つ囚人のように、わざと彼女のマンションを最後の配達先に回した。

やがて、その時は来た。 夕暮れの光が差し込む、静かなマンションの廊下に、研人は立っていた。彼は、震える指でインターホンを押した。 数秒の後、ドアが静かに開く。 そこに、灯が立っていた。 研人は、彼女の顔を直視することができなかった。俯き加減に、練習してきた通りの言葉を口にする。 「郵便局です。書留をお届けにあがりました」

彼は、電子サインの端末と書留を、両手で差し出した。彼女が、無言でそれを受け取る。 サインが終わり、彼女がペンを返した。だが、彼女は、書留を受け取ろうとはしなかった。 研人が、訝しんで顔を上げる。彼女は、彼を見ていなかった。その視線は、彼の顔よりも少し下――制服の胸元に、真っ直ぐに注がれていた。 そこには、規定で定められた、彼の身分証明書がぶら下がっている。

日本郵便 職員 染谷 研人

時間が、引き伸ばされたゴムのように、極限まで伸長した。 彼女が探し求めていた、地図の上の名前。その名前の主が、今、目の前に立っている。 やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。そして、初めて、二人の視線が、正面から交差した。 彼女の瞳の中にあったのは、怒りでも、軽蔑でもなかった。驚愕。困惑。そして、あまりに複雑な感情が渦巻く、深い、深い森のような静けさ。

「…ありがとうございます」 ほとんど吐息のような声でそう言うと、彼女は彼の手から書留を抜き取り、音もなくドアを閉めた。 カチャリ、という無機質なロック音が響く。 その音は、研人の中で、一つの世界の終わりと、もう一つの世界の始まりを告げる、断頭台の刃が落ちる音のように聞こえた。 交叉は、終わったのだ。秘密は、もうない。 彼は、ただ、これから始まるであろう「現実」の重さに、押し潰されそうになりながら、その長いトンネルを歩いていくしかなかった。
 
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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。