悪役令嬢転生MBA~趣味は事業再生、特技は市場分析ですの~41
41・第十六章:記憶なき愛の告白
『翠玉の間』は混沌の坩堝(るつぼ)と化していた。 アークライト公爵の、あまりにも衝撃的な告白。それは、この国の秩序という名の分厚い氷を、根底から打ち砕く一撃だった。 重臣たちは誰一人、言葉を発することができない。ある者は蒼白な顔でうなだれ、ある者は信じられない、といった表情で玉座と、公爵の顔を交互に見つめている。 国王アルブレヒト三世は、玉座の上で、ただ深く目を閉じている。その、彫りの深い顔に、どのような感情が浮かんでいるのか、誰にも窺い知ることは、できなかった。
その全ての喧騒の中心で。 イザベラ・フォン・アークライトは、ただ、一人立ち尽くしていた。 彼女の耳には、もう、何も入っていなかった。 父の悲痛な叫びも。 周囲の重臣たちの動揺も。 彼女のサファイアのような青い瞳が見つめているのは、ただ、一人。 この、残酷なまでのチェスゲームを、完璧に制した勝利者。 ――エリザベート・フォン・リヒトハーフェン。 彼女の、唯一無二の親友であるはずの少女の、その、あまりにも冷たい横顔だけだった。
(…ああ…あなたは…)
イザベラの胸を締め付けていたのは、父への失望ではなかった。 もちろん、父が犯した大罪は、許されるものではない。だが、その動機が、敬愛する兄のため、そして、義理の姉である、王妃のためであったことを知ってしまった今、彼女は、父を、ただ、一方的に断罪することができなかった。 彼女を本当に絶望させていたのは、エリザベートの、その、勝ち方だった。
父の、最も触れられたくない、心の傷。その、悲しい愛の物語を。 彼女は、まるで、交渉のカードの一枚のように、冷徹に、そして、効果的に、この、公衆の面前で利用してみせたのだ。 そこには一片の慈悲も、躊躇もなかった。 ただ、目的を達成するための完璧なロジックだけ。 彼女が愛した、あの不器用で、しかし、誰よりも、情が深かったはずのエリザベートの面影は、そこには、もう、どこにもなかった。
やがて、混乱を極めた御前会議は、国王の「沙汰は、追って、下す」という重い一言で幕を閉じた。 重臣たちが逃げるように退出していく中、イザベラは父の元へと駆け寄った。 だが、アークライト公爵は、娘に一瞥もくれることなく、衛兵に連行されていった。その、背中は、これまでイザベラが見たこともないほど、小さく、そして、寂しく見えた。
イザベラは踵を返し、走り出した。 向かう先は、一つしかない。 エリザベートの元へ。
彼女が割り当てられた城の一室で、エリザベートは、まるで何事もなかったかのように、セバスチャンと、今後の事業計画について、淡々と打ち合わせをしていた。
「――失礼しますわ!」
扉を乱暴に開け放ち飛び込んできたイザベラ。 その、息を切らし、肩を震わせる親友の姿を、エリザベートは、ただ、不思議そうに、見つめた。
「イザベラ様。どうかなさいましたか? そんなに、慌てて」
「…どう、したですって…?」
イザベラの声が、震えた。 「あなた…自分が、何をしたのか、分かっていらっしゃるの…!? 父が…! 私の、父が、どんな想いで、あの罪に手を染めたのか…! あなたには、分からなかったとでも、言うの!?」
その、魂からの叫びに、エリザベートは静かに眉をひそめた。
「ええ、理解しておりますわ。アークライト公爵の動機は、情状酌量の余地がある。ですが、それは、法治国家における、『罪』そのものを、免責する理由にはなりません。そして何より、彼の行動は、我が国の安全保障を著しく脅かすものだった。私が行ったことは、一人の貴族として、当然の責務ですわ」
その、完璧な正論。 その、あまりにも人間味のない回答。 イザベラの目から、涙が溢れ落ちた。
「…違う…! あなたはそんな人じゃなかったはずよ…! あの森へ行く前の、あなたは…! もっと、人の心の痛みが分かる人だった…! なぜなの…!? あの森で、一体、何が、あったの…!? 教えて、エリザベート!」
その問いに、エリザベートは答えなかった。 いや、答えられなかったのだ。 彼女の頭の中には、ただ、一つの事実(データ)しか存在しない。 ――『沈黙の森』にて、古代の術を行使。その代償として、術者エリザベート・フォン・リヒトハーフェンの、人格形成に関わる、記憶の大半が欠損。 ただ、それだけだ。 そこに、いかなる悲しみも、痛みも存在しない。
その、空っぽの瞳を見た瞬間。 イザベラは、全てを悟った。 ああ、もう、いないのだと。 自分が愛した、あのエリザベートは、もう、この世界の、どこにもいないのだ、と。
絶望が、彼女の心を支配した。 父は罪人となった。 そして、唯一無二の親友は、心を失った。 自分は、この広大な世界で、たった一人になってしまったのだ、と。
だが。 その絶望の最も深い底で。 一つの小さな光が灯った。 それは、諦めではなかった。 覚悟、だった。
(――いいえ。まだ、いるはずよ)
目の前にいる彼女は、確かに別人かもしれない。 だが、その奥の奥。 魂の、最も深い場所に。 自分が愛した、あの不器用で優しい魂は、必ず、眠っているはずだ。 ならば。 自分がすべきことは、ただ一つ。
イザベラは、涙を拭うと、エリザベートの前に進み出た。 そして、その冷たい手を、両手でぎゅっと握りしめた。
「…エリザベート」
今度の声は、もう、震えてはいなかった。 静かで、しかし、鋼のように強い意志の響きを持っていた。
「…わたくし、全てを捨てますわ」
「…? 何を、仰って…」
「父も、家も、公爵令嬢という地位も、全て。全てを捨てて、あなたの元へ参ります」
エリザベートの碧眼が、初めて、わずかに見開かれた。 その完璧な思考に、初めて、予測不能なエラーが生じた瞬間だった。
「…意味が、分かりません。それは、あなたにとって、何のメリットもない、非合理的な選択ですわ」
「ええ、そうでしょうね」
イザベラは、初めて微笑んだ。 それは、聖母のような、深く、そして、慈愛に満ちた笑みだった。
「ですが、わたくしは、もう、決めたのです。あなたの中の、わたくしが、愛した面影が消えてしまっても。わたくしは、あなたの、その魂を、愛している、と」
それは、友情ではなかった。 紛れもない、愛の告白だった。
「あなたが、全てを忘れてしまったというのなら。わたくしが、もう一度、あなたに教えますわ。人の、心の、温かさを。誰かを、思いやることの、喜びを。そして、愛するということが、どれほど尊いものであるのかを」
イザベラは、握りしめたエリザベートの手に、そっと、自分の額を押し付けた。
「ですから、エリザベート。お願い。一人で行かないで。…わたくしを、あなたの、傍に、置いてくださいまし」
エリザベートは、何も言えなかった。 彼女の頭の中では、無数の計算が高速で回転していた。 (――アークライト公爵令嬢の完全な取り込み。これは、事業における、最大の、政治的アドバンテージ。受け入れるべき。合理的に判断すれば、それ以外の選択肢はあり得ない。…だが)
だが。 なぜだろう。 握りしめられた手の温かさが。 額から伝わってくる、彼女の、切ないほどの想いが。 自分の心の奥底にある、固く、凍りついた何かを、少しずつ、溶かしていくような、奇妙な感覚。 それは、非効率で、非合理的で、そして、理解不能な、バグだった。
彼女の、鉄の仮面が、初めて、内側から歪んだ。 その碧眼が、これまで見せたことのないほど、激しく、揺れ動いていた。 答えを出せないまま。 空っぽの女王は、ただ、その、あまりにも温かい、愛の奔流のただ中に立ち尽くすことしか、できなかった。
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