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二十歳の約束 ~愛を、皿に盛る仕事~ 5

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第4章 広がる共感


1

 開発室の隅にあるミーティングスペースは、熱気と、パソコンの排熱と、コンビニコーヒーの香りが混じり合っていた。

 ホワイトボードの前に立つ湊航平は、マジックを片手に、麻耶と乾に向かって言った。

「いいですか。役員会では勢いで『SNSで売る』って言いましたけど、現実はそんなに甘くないっすよ」

 航平はボードに赤いバツ印を大きく書いた。

 『× いきなり定期購入』

「ユーザーの気持ちになってください。いくらSNSで『これ凄い!』ってバズっても、聞いたこともないメーカーの、しかもキロ二千五百円もする高級フードを、いきなり『年間契約』しますか? 絶対しません。ハードルが高すぎるんです」

 麻耶は腕を組んで頷いた。

「確かに。心理的障壁が高すぎるわね。まずは商品を体験してもらわないと……」

「そうです。だから、二つのモデルを合体させます」

 航平は黒いペンに持ち替え、複雑な図を描き始めた。

「従来の『AMTUL』。認知(Aware)、記憶(Memory)、試用(Trial)、日常利用(Usage)、愛用(Loyalty)。これは心理変容のモデルです。これに、現代の拡散モデル『ULSAS』を組み込みます」

 彼が書き上げたのは、二つの輪が重なり合うような、独自の戦略図だった。

【フェーズ1:ULSAS・拡散と誘引】

・UGC(投稿): コアな愛猫家にモニターになってもらい、動画を投稿させる。
・Like & Search(共感と検索): それを見たフォロワーが「何これ?」と興味を持つ。
・Action(行動): サイトに来る。
・★ここで売るのはサブスクじゃない。『500円のお試しセット(3日分)』だ!

【フェーズ2:AMTUL・定着と深化】

・Trial(試用): 500円なら気軽にポチる。実際に食べさせて、食いつきに驚愕する。
・Memory(記憶): 商品に同梱された「あるもの」で、ブランドを心に刻む。
・Usage(日常利用): ここで初めて、サブスクへのオファーを出す。

「勝負は、この『Trial(試用)』から『Memory(記憶)』の間です」

 航平はボードをコツコツと叩いた。

「『Trial』で猫の食いつきに感動するのは当たり前。でも、それだけじゃ『美味しかったね』で終わって、安い競合に戻っちゃうかもしれない。……サブスクに引き上げるには、飼い主の心を掴む『Memory(記憶)』のフックが必要です」

 乾が不審そうに口を開いた。

「記憶のフックだ? 味が良けりゃ忘れないだろ」

「味は『猫』の記憶に残ります。でも、クレジットカードを切るのは『飼い主』です。飼い主が『このブランドじゃなきゃダメだ』と思うような、エモい体験が必要なんですよ」

 航平は麻耶を見た。

「課長。お試しセットに入れるパンフレット、全部捨てましょう。豪華なカタログも、成分表の自慢もいらない」

「じゃあ、何を入れるの?」

「手紙です。課長が、あのアキコさん……でしたっけ? 彼女に向けて書いたような、生々しい手紙を一通だけ入れるんです」

 麻耶は息を呑んだ。

 マーケティングとは、もっとシステマチックなものだと思っていた。だが、目の前のデジタルネイティブの若者は、誰よりもアナログな「心」の話をしている。

「……わかったわ。書く。私の言葉で」

「お願いします。それが、AMTULの『M・記憶』を焼き付ける刻印になりますから」

2

 八月一日。発売日。

 外は猛暑だったが、オフィスの空気は凍りつくように張り詰めていた。
 時刻は十九時前。ターゲット層である働く女性たちが帰宅し、スマホを手に取るゴールデンタイムだ。

「インフルエンサーへの種まきは完了してます。……来ますよ」
 航平がモニターを見つめながら呟く。

 麻耶は自分のデスクで、祈るように両手を組んでいた。

 広告費はゼロ。頼みの綱は、事前にDMを送り、趣旨に賛同してくれた五十名の「濃い」愛猫家たちだけだ。彼らには無料で『二十歳』を送り、条件は「正直な感想を書くこと」だけとしている。

​ 十九時〇〇分。

 発売開始のボタンが押された。

​ ――しかし、何も起きなかった。

​ モニターのグラフは、地平線のように平坦なままだ。

 一分、三分、五分。

 オフィスの空調の音だけが、耳障りなほど大きく響く。

「……おかしいな」

 航平がマウスをカチカチと鳴らす音が、乾いた音を立てた。「インフルエンサーの投稿は上がってるはずなんですが……反応がない」

​ 麻耶の背中を、冷や汗が伝った。
 私の独りよがりだったのか。
 「手紙」なんて情緒的なアプローチは、冷めたスマホ世代には届かなかったのか。
 あの手紙は、私の自己満足のポエムだったのか。

​ 十分が経過した。

 航平が無言でスマホを伏せた。その横顔から、いつもの余裕が消えている。乾も腕を組んだまま、床の一点を見つめている。

​(間違っていたの……?)

​ 麻耶が唇を噛み締め、目を伏せようとした、その時だった。

​ ポツン。

 水滴が落ちるような通知音が、静寂を破った。

​「……来ました」
 航平の声が裏返る。

「一件……いや、三件、十件……! シェアされてます! 『長文すぎて読むのに時間かかったけど、これヤバい』って!」

​ 沈黙は、無視されていたのではなかった。

 彼女たちは読んでいたのだ。麻耶の書いた、魂の手紙を。

 静寂は、感動が浸透するための必要な「タメ」だったのだ。

 『猫との暮らし』という、フォロワー五万人のインスタグラマーの投稿。

 ――動画が再生される。

 いつもは偏食だという老描が、『二十歳』の封を開けた瞬間、目の色を変えて飛びついてくる。ハフハフと音を立てて完食し、満足げに顔を洗う。

 キャプションには、こう書かれていた。

 『PRだけど、これはガチ。こんなに夢中で食べる姿、数年ぶりに見たかも。……あと、同梱の手紙読んで、ちょっと泣いちゃった』

 その投稿を皮切りに、スマホの通知が鳴り止まなくなった。

 ユーザー投稿が連鎖する。

 『ウチの子も凄い食いつき!』

 『パッケージがお洒落すぎて、捨てられない』

 『手紙の内容が刺さりすぎて辛い。これ、私のことじゃん……』

 Like(いいね)がつき、Search(検索)が走る。
 リアルタイム・アクセス解析のグラフが、垂直に跳ね上がった。

「アクセス急増! 現在、同時接続数二千を超えました!」
 管理画面を見ていた若手社員が叫ぶ。

「コンバージョン来ます! ……一件、十件、五十件……止まりません! 全部『500円お試しセット』です!」

 麻耶は震える手でマウスを握り、数字の羅列を見つめた。

 数字ではない。それは、一人ひとりの飼い主の「救い」を求める声だ。

 航平の描いたモデル通り、ULSASの輪が回転し、AMTULの入り口へと雪崩れ込んでいる。

 その時だった。

「あっ」

 誰かの短い悲鳴と共に、モニターの画面がプツンと消え、エラーメッセージが表示された。

 『503 Service Unavailable』

「サーバー落ちました! アクセス集中しすぎです!」
「嘘でしょ……!?」
 麻耶が立ち上がる。

「復旧は!?」
「ダメです、カートシステムが応答しません。このままだと、せっかく来たお客さんが全員逃げます!」

 歓喜は一瞬でパニックに変わった。

 SNS上では『サイト繋がらない』『売り切れ?』という投稿が増え始めている。このまま放置すれば、期待は失望に変わり、炎上しかねない。

「……落ち着け」

 低い声が響いた。
 乾だった。彼は作業着のまま、ホワイトボードの前に歩み出た。

「ネットのことはわからん。だが、客を待たせてるなら、詫びを入れるのが商売の筋だろ」

 麻耶はハッとして、航平を見た。

「湊くん、SNSで公式アナウンスを! 『アクセス集中のお詫び』と、『必ず全員にお届けします』という約束を!」

「了解! すぐ打ちます!」

「私はカートシステムのベンダーに電話する。乾さんは工場の在庫確認をお願い! 予約販売に切り替えた場合、最短でいつ発送できるか計算して!」

「任せろ!」

 オフィスは戦場と化した。

 だが、そこには以前のような「やらされ仕事」の空気は微塵もなかった。  
 全員が、見えない顧客のために走っている。
 冷房の効いた室内で、麻耶の額には汗が滲んでいた。それは、心地よい熱さだった。

3 

 深夜二時。
 サーバーはようやく復旧し、予約注文への切り替えも完了した。
 嵐のような数時間が過ぎ、オフィスには静寂が戻っていた。

 麻耶はソファに深く沈み込んでいた。
 疲労で指一本動かせない。だが、胸の奥は満たされていた。

 初動の注文数、三千件。
 お試しセットとはいえ、広告費ゼロでこの数字は奇跡に近い。

「……お疲れっす」
 缶コーヒーの冷たい感触が、頬に押し当てられた。
 目を開けると、航平が苦笑いを浮かべて立っていた。パーカーのフードは崩れ、目の下には隈ができている。

「ありがとう、湊くん。あなたの読み通りだったわ」
 麻耶は身を起こし、コーヒーを受け取った。

「読み以上ですよ。……あの手紙、効きすぎましたね」
 航平は隣のパイプ椅子に腰掛け、スマホの画面を見せた。

 そこには、麻耶が書いた手紙の写真と共に、長文の感想が添えられた投稿が溢れていた。

 『二十年、共に生きる。その言葉に嘘はないと信じられた』

 『開発者の人が、本当に猫のことを考えてくれてるのが伝わる』

「AMTULのMemory。バッチリ刻まれましたね。これなら、お試しからの定期購入率、相当行きますよ」

「……そうね」

 麻耶は画面を見つめたまま、ふと呟いた。
「私、怖かったの。本当は」

「え?」

「私の独りよがりなんじゃないかって。誰にも届かないんじゃないかって」

 弱音。

 会社では鉄仮面のように振る舞ってきた麻耶が、ふと見せた隙だった。
 航平は少し驚いた顔をして、それから視線を逸らすように窓の外を見た。東京の夜景が、遠くで瞬いている。

「届いてますよ。数字が証明してるし……俺にも、届きましたから」
「湊くん?」

「……なんでもないっす。さ、もう一仕事。サーバー落ちたお詫びのメルマガ、書いてから帰りますわ」

 航平は照れ隠しのように立ち上がり、自分の席へと戻っていった。
 その背中を見送りながら、麻耶は缶コーヒーを一口飲んだ。
 苦味が、疲れた脳に染み渡る。

 初戦は勝った。
 だが、麻耶は知っていた。
 目立てば、必ず「敵」が現れる。

 この小さな成功を、指をくわえて見ているほど、業界の巨人は甘くないはずだ。

 遠くで雷鳴が聞こえた気がした。
 それは、次なる嵐の予兆だった。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。