小説・悪役令嬢転生MBA ―追放から始まる国家再建、その損益分岐点について― 5
第5章:黄金色の黄昏 ―束の間の平穏とリスクの萌芽―
成功の香りは、潮風と共に領地中を駆け巡っていた。
王都での「美食大祭」から数ヶ月。かつて「王国北端の不採算部門」と揶揄されたリヒトハーフェン領は、いまや王国最大の海産物供給拠点として、劇的なターンアラウンド(事業再生)を遂げていた。
夕暮れ時。領主館のバルコニーから見下ろす街並みは、黄金色の陽光に照らされ、かつての煤けた面影を払拭していた。石造りの家々は、新たな利益によって壁が塗り直され、窓辺には色とりどりの花が飾られている。港からは、バルカスたちの手による魔法コンテナが荷馬車に積み込まれる威勢のいい声と、石畳を叩く規則正しい車輪の音が響いてくる。それは、私がこの地に引いた「経済の血流」が、力強く脈動している証だった。
「お嬢様。またこんなところで帳簿と睨めっこですか。少しは目を休めてくださいまし。せっかくの収穫祭の前夜祭ですのに」
セバスチャンが、湯気の立つカップを盆に乗せて現れた。かつての彼は私の癇癪に怯えるだけの存在だったが、いまやリヒトハーフェン・ロジスティクスの運行管理者として、私に適切な休息を「進言」するだけの自信と誇りを持っている。
「セバスチャン。休んでいる暇などありませんわ。今のこの好景気は、いわば先行者利益によるもの。他領が私たちのモデルを模倣し、代替品が市場に溢れる前に、我が領のブランド資産を盤石なものにしなければならないのですから」
「……その『ぶらんど』とやらは、もう十分に育っておりますよ。見てください、あの子たちを」
セバスチャンが指差した先。広場では、新調された服を着た子供たちが、笑いながら追いかけっこをしていた。その中の一人が私に気づき、千切れんばかりに手を振る。私は無意識に、口角が微かに上がるのを感じた。
(……前世の私は、消費者をただの購買データとしてしか見ていなかった)
彼らが何を喜び、何に涙するのか。その「生活の体温」を想像することなく、ただ効率の良い販促キャンペーンを打ち出し、数字が上がれば満足して、孤独に死んだ。だが今は違う。私の引いた一本の線、一つのロジックが、目の前の子供たちの靴になり、パンになっている。
これはMBAの教科書には載っていない価値。社会的資本(ソーシャル・キャピタル)。信頼と互酬性によって成り立つ、目に見えないインフラ。私が領民を信じ、彼らがそれに応えて汗を流した。その結果生まれたこの平穏は、どんな巨額の内部留保よりも強固な、リヒトハーフェン領の「資産」だった。
そんな私の思考を遮るように、軽やかな足音がバルコニーに響いた。
「相変わらず、可愛げのない顔をして数字を追いかけているのね、エリザベート」
公爵令嬢、イザベラ・フォン・アークライト。
彼女は今や、王都における我が領の最高代理人であり、同時に、私の執務室にアポなしで踏み込んでくる唯一の「友人」となっていた。
「アークライト様。代理人としての報告でしたら、階下の会議室で伺いますわ」
「堅苦しいわね。今日はただの私的な訪問よ。……いい景色ね。あなたがこの数ヶ月で成し遂げたことは、王都の経済学者たちが束になっても不可能だった奇跡よ」
イザベラは私の隣に立ち、黄金色に染まる領地を眺めた。その横顔には、かつてのライバル心を超えた、深い信頼の色が滲んでいる。
「……イザベラ様。私はただ、この場所を存続させたかっただけですわ。前世……いえ、昔の私は、自分の居場所を自分で壊してばかりいましたから。……ここは、私が初めて見つけた、守るべき現場(ゲンバ)なのです」
「……そう。あなたのその冷徹な情熱、嫌いじゃないわ。でも、ビジネスと同じで、光が強まれば強まるほど、その背後に落ちる影もまた深くなるものよ」
イザベラの言葉は、冷ややかな予言のように私の胸に突き刺さった。彼女が差し出した一通の極秘報告書。そこには、隣国との国境付近で発生している、深刻な不穏分子の動きが記されていた。
【リスクアセスメント:隣国における食糧危機】
・事象: 隣国における記録的な冷害と、領主による食糧の囲い込み。
・現状: 平民の餓死者が急増。リヒトハーフェン領の「豊穣」が噂として隣国に拡散。
・予測: 数万人規模の難民流入。および、それに伴う治安悪化と食糧供給網(サプライチェーン)の崩壊。
「……隣国が、飢えている?」
「ええ。あなたの魔法コンテナで、辺境の雑魚が『黄金』に変わったという噂は、飢えた民にとっては、救いという名の火種に見えるはずよ。王都のアルフレート殿下も、この事態を注視しているわ。彼は、あなたがこの難民問題をどう『処理』するかで、あなたの価値を再判定するつもりよ」
バルコニーから見える、祭りの準備に沸く街の灯火。平和な歌声。子供たちの笑い声。
そのすべてが、巨大なカントリー・リスクを前に、あまりにも脆い砂上の楼閣に見え始めた。私の脳内では、瞬時に最悪のシナリオがシミュレーションされる。
難民を受け入れれば、自領の食糧は一ヶ月も持たず、共倒れになる。拒絶すれば、飢えた群衆は暴徒と化し、この美しい街を焼き尽くすだろう。
(……ようやく手に入れた、この『居場所』を。数字の上では、守り切る方法は一つしかない)
それは、もっとも冷酷な「損切り」だ。
だが、今の私の胸にあるのは、前世のあの冷たいオフィスにはなかった、言葉にできない熱い「重み」だった。
「セバスチャン。収穫祭の準備と並行して、領内の全穀物倉庫の在庫確認を。一粒の誤差も許しませんわ。それから、バルカスに伝えなさい。魔法コンテナの製造ラインを一部変更し、『移動式炊き出しユニット』のプロトタイプを設計するように、と」
「お嬢様……? 祭りの最中に、そのような不吉な準備を?」
「平和な時にこそ、最悪の事態に備える。それが経営者の責務ですわ。……イザベラ様。この情報、高く買わせていただきます。……リヒトハーフェン領の、そして私の、本当の『試練』が始まるようですわね」
太陽が沈み、領地に夜の帳が下りる。街の灯りは一層輝きを増したが、私の瞳には、その背後にうごめく数万の「飢えた影」が見えていた。
成功。豊かさ。信頼。それらを維持するためのコストが、これほどまでに残酷なものになるとは。
私はバルコニーの手すりを強く握りしめた。その冷たい感触が、これから私が下さなければならない決断の冷酷さを、あらかじめ告げているようだった。
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