葦原の黄昏、天津の暁 17
終章:根の国の春(語り部)
幾星霜の時が、流れた。
大地が受けた深い傷は、幾百の季節が、その優しい手で撫でるうちに、緑の若草に覆われ、癒えていった。人の世の、あまりにも激しい憎しみと、あまりにも深い悲しみもまた、時の流れという、偉大なる川の流れの中で、その角を丸め、やがて、歴史は、物語へ、そして、物語は、神話へと、その姿を変えていく。
出雲の国には、かつて王宮があった場所を見下ろすように、一つの巨大な神殿が、天を衝くがごとくそびえ立っていた。ヤマトの匠たちが、その粋を集めて築き上げたという社は、太い宇豆柱が天の御柱さながらに支え、長く伸びた千木は、大空を切り裂く剣のように鋭い。ヤマトの王の宮殿にも劣らぬ、壮麗なる神の御在所。
ヤマト朝廷は、その社を国家の庇護下に置き、維持のために一つの郡(こおり)を「神郡(しんぐん)」として定め、そこから上がる税の全てを、社の運営のために与えたという。それは、かつて交わされた「誓約」が、人の世の制度として、今も、固く守られていることの、証であった。
社に祀られる神の名は、大国主大神。現世のまつりごとを譲り、幽世を治めることとなった、偉大なる国津神。
ある年の冬。
遥か東、大和の宮殿。きらびやかな衣をまとった公卿たちが居並ぶ大極殿に、一人の男が、静かに進み出ていた。コトシロヌシの、遠い血を引く、新たなる出雲国造(いずものくにのみやつこ)であった。彼は、帝の御前にて、古式に則り、祝詞(のりと)である「神賀詞(かむよごと)」を奏上する。
「…出雲の神の御言(みこと)もちて、天皇(すめらみこと)の御世を、常磐(ときわ)に、堅磐(かきわ)に、守り奉り、幸(さき)わえ奉る…」
その言葉は、恭順と忠誠に満ちていた。ヤマトの公卿たちは、満足げに頷く。儀式の後、国造は、帝より、ヤマトへの忠誠の証として、見事な「金装の横刀(きんそうのたち)」を賜った。
だが、出雲の民だけが、知っていた。その祝詞が、単なる服従の誓いではないことを。それは、かつて交わされた「誓約」を、ヤマトの帝に、そして神々に、代替わりのたびに思い出させるための、力強い呪(しゅ)でもあることを。『幽世の神々の鎮撫は、現世を治める汝らの務め。もし、この誓いを違えるならば、神々の荒ぶる力が、汝らの世を揺るがすであろう』と。黄金の鎖は、出雲だけでなく、ヤマトをも、永久に縛り続けていた。
その頃、遠く離れた信濃の国、諏訪の湖のほとりでは、タケミナカタの一族が、新たな国を築いていた。彼らは、ヤマトの支配を受け入れながらも、その魂の奥には、父祖の荒々しい気性を、決して消えることのない炎として宿し続けていたという。
時は、さらに流れる。
出雲の国、海沿いの、小さな村。冬の長い夜、囲炉裏の火が、集まった子供たちの顔を赤く照らしている。火のそばでは、腰の曲がった一人の老婆が、しわがれた声で、古い物語を語っていた。
「…昔々、この国にはの、大主(おおぬし)さまという、それはそれは心優しき王様がおいでだった。じゃが、東から、鉄の武器を持った、それはそれは強い者たちがやってきての。国をよこせ、とそう言った」
子供たちが、固唾をのんで聞き入っている。
「王様にはの、ヤツカ様という、それはそれは、勇ましく、そして、心優しき、若君がおいでだった。若君はの、森の姫様と力を合わせ、そりゃあ、見事に戦われた。じゃが、敵の神様は、あまりにも、強すぎた…」
老婆は、囲炉裏の火を見つめ、遠い目をした。
「若君が、天にお還りになった時、大主さまは、それはそれは、深く、お悲しみになった。そして、決心されたのじゃ。もう、誰も死なせはしない、と。王様はの、自らの国の全てを譲る代わりに、たった一つだけ、お願いをされた。『民の命だけは、お助けくだされ』とな。…だから、お前たちは、今こうして、笑って生きておられるのじゃ。決して、敗けたのではない。我らを生かすために、王様が、勝ってくださったのじゃよ…」
それは、ヤマトの宮廷で語られる公式の「国譲り神話」とは、似ても似つかぬ物語であった。だが、それこそが、出雲の民の魂に、血となり肉となって、語り継がれてきた、真実の記憶であった。
人の世の理(ことわり)が、そうであるならば。
神々の世の理は、どうであったか。
そこは、常世(とこよ)の闇と、現世の光が、穏やかに交じり合う場所。根の国。
かつては、荒ぶる神スサノオが治めた、その国は、今、全ての魂が、安らぎを求めて還る、静かな、永遠の国となっていた。
その、どこまでも続く、白い花畑の中を、一人の男が、静かに歩いていた。大国主。現世の全てを譲り、幽世の主となった、彼の魂。
その隣には、いつの間にか、妻であるスセリビメが、寄り添っている。
二人は、言葉もなく、ただ、前を見つめていた。
その視線の先。
白い花々が、ほのかな光を放つ、その野原の真ん中で、二人の、若い影が、楽しげに、語り合っていた。
ヤツカと、ささや姫。
その姿は、最も輝いていた、あの、十五歳の夏の日のまま。傷も、苦しみも、もはや、どこにもない。
やがて、二人は、父と母の存在に気づくと、その歩みを止め、振り返った。そして、二人そろって、あの、三輪山の森で、毎日、見せてくれた、屈託のない、柔らかな笑みを、浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、大国主の魂に、数百年という長きにわたって、凍り付いていた、一つの、固い氷が、すうっと、溶けていくのが、分かった。
ああ、そうだ。
私は、この笑顔を、守るために。
この、穏やかなる、ひとときのために。
全てを、譲ったのだ。
「父上。母上。お待ちしておりました」
ヤツカの声は、昔と何も変わらない、優しく、澄んだ響きを持っていた。
大国主は、何も言えない。ただ、息子に向かって、震える手を、そっと、差し伸べた。
スセリビメの瞳から、涙が、とめどなく、流れ落ちる。
「ヤツカ…もう、苦しくはないのですか」
その問いに、ヤツカの隣で、ささや姫が、鈴を転がすように、優しく笑った。
「ここでは、もう、誰も傷つきません。ここは、全てが癒される場所ですから」
大国主とスセリビメは、ゆっくりと、息子たちの元へと、歩み寄った。
四人の、家族の魂が、ようやく、一つになる。
彼らが治める、この、根の国に、初めて、穏やかで、しかし、希望に満ちた、新しい春の光が、静かに、差し込み始めていた。
(了)
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